殺人計画者

ふじしろふみ

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第二章 檜山武臣の場合

十 ◯檜山 武臣【 1月10日 午後9時40分 】

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 あれから数時間。俺は適当な定食屋で夕食を済ませた後、西街の繁華街の中をふらふらと歩き回った。しかしどこにも鷺沼の姿は見つからず、全てが徒労に終わった。
 時刻は午後九時三十分を過ぎた頃である。一月ということもあり、夜も更けたこの時間は急激に冷え込み、手はかじかむ。いくらスーツの下に何枚か重ね着をしているとは言っても、羽織る物も無く外にいることは、中々の苦行であった。
 俺の頭には、鷺沼が姿を見せるような場所がこれ以上浮かんでいなかった。というより、そもそも俺にとって鷺沼は単なる客でしか無い。昔からの友人というわけでも無いし、奴の考えなど分かるわけが無いのである。
 しかし、鷺沼は目的があってホテルにいた。それは事実だ。そう考えると、彼はまたその目的を達成するために、ホテルに舞い戻る可能性がある。故にAからの連絡が入るまで、鷺沼を最初に見つけたホテル近辺で待機することに決めたのであった。
 室外の気温の低さから、白く濁った息を吐く。本当に俺も歳をとったものだ。若い頃であれば、たとえ手がかりがないとしてもがむしゃらに走り回ったり、無茶をしていたものだが。鷺沼を探し続けるだけの体力や気力が、今の俺には無い。
 何より笑い話なのは、Aからの連絡を、俺自身待ち望んでいるということだ。藁にもすがる、ということわざがあるように、たとえ頼りになりそうにないものであっても、万策尽きた状態では頼らざるを得ない…そういうことである。
「はぁ」
 しかし今はそれしか無い。Aが何を考えているか分からないが、鷺沼の居場所を教えてもらえるというのであれば、それまでは本気で鷺沼を探すまでも無い。奴は、今日中に連絡をすると言っていた。今は、それを信じるしか無いのだ。
 …連絡がくるまでどうしていようか。俺はホテルの入口から、大通りを挟んで反対側の喫茶店に目を向けた。流石にこの寒さの中、いつ入るかも分からない連絡を待ち続けるのは、正直言って辛い。そう考え、大通りにある横断歩道を渡ろうとしたその時であった。
「ああ!檜山さん!」
 突然、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。その声がした方向を見て、俺はここに戻ってきたことを後悔する羽目になった。
 そこには、これまで会うのを控えていた相手、新出ちづるが満面の笑みで立っていた。彼女は餌を見つけて飛び跳ねる兎のように、勢いよく走り寄って来る。
「…お、おお、久しぶりだな。元気か?」
 何ということだ。本当にタイミングが悪い。何故ここにこの女がいるのだろう。頭を掻きつつ、目の前にいる彼女に聞く。
「うん、元気!最近寒くて朝起きることがしんどいけど、それくらいかな。檜山さんは?」
 朗らかに笑いつつ、彼女は答える。
「まあ、俺もぼちぼちだな。どうしてここに?」
 ちづるの質問返しに適当に答えつつ聞くと、彼女は少し困ったように目を逸らした。
「どうした?」
「い、いや何でもないよ。単にイルミネーションが綺麗だなあと思って、仕事終わりにスカイタワーを見に来ただけ。ほら、少しの間だけど私、東京から離れていたでしょ? 実家だとこんな大きな規模のものって無いのよね」
 ちづるは目を細め、頷きながら言う。スカイタワーのイルミネーション?この女は何を言っているのだろうか。今日はイルミネーションどころか、スカイタワー自体…
 そう不思議に思っていたところ、ちづるは急に、俺に顔を向けて来た。
「そんなことより、檜山さん。少し聞きたいことがあるの」
 ちづるは俺の目を真っ直ぐ見てくる。透き通るような瞳。端正な顔立ち。色白の肌にぷくっと膨らんだ唇。一瞬その美しさに魅せられたが、俺は瞼を数秒閉じ、その情欲を頭から払った。
「檜山さん?」
「ああ、大丈夫だ。それで、どうしたんだ」
 取り繕いつつ聞くと、ちづるは俺から目を逸らし、次の言葉を投げかけてきた。その声は先程までの溌剌な声色とは打って変わり、か細いものだった。
「…なんで、うちの店に来てくれないの」
 やはり、そういったことか。心の中で溜息をつく。
「私、檜山さんが来るの、首を長くして待っているんだから」
 俺が何も言わないことを良いことに、ちづるは続ける。 
「玲子さんから聞いているかもしれないけど。あの日檜山さんが崇の家に来た後、崇に包丁で襲われちゃって。それですぐに実家に帰ったの。何だかこの街が怖くて怖くて…全部崇のせいなんだけど。でも、実家で色々考えていたらそんなこと、気にしなくなってきていたの」
「…そうか」
「だけど、やっぱりここに戻ってくると私、怖くて。こういうの、フラッシュバックっていうか、トラウマっていうのかな。崇の存在というか、気を感じて、ずっと辛い思いをしていて。今もそうだよ」
 どうしてそんなことを、俺に話してくるのだろうか。彼女の鷺沼への感情など、俺にとってはどうでも良い。おそらく彼女は、不幸自慢をしたいだけなのだ。そううんざりする俺の目を見て、ちづるは急に真顔になった。
「でも…でもね。それも今日で全て終わるんだよ。全て」
「えっ?」
 急な雰囲気の変わり様とその言葉に、思わず声が出た。しかしちづるは何も聞こえていないかのように、更に話を続ける。
「なんでだろうね。終わると考えたら、急に気分が良くなったの。良い意味で変化の兆しかしら。今もそうだし。檜山さん、やっとあなたに会えたんだから」
 ちづるは俺の目に視点を合わせ、はっきりと言った。
 今の俺は、一体どれほどに間抜けな顔をしているのだろう。そんな俺のことなど気にもせず、ちづるの話はヒートアップする。
「そう、そうなの。檜山さんに今日、ここで会えたこともそういう運命だったのよ。崇がいなくなれば、これからまた檜山さんのいるコモレビにも顔を出せるでしょ。そうすれば、これまで以上に私たち、会える時間が増えるね」
「いやいや、ちょっと待て」
 こめかみの辺りから、冷や汗がどろっと流れ出て来た。
「何故、俺が今後お前と頻繁に会うことを前提に話しているんだ」
 やっとのことで絞り出した質問を、ちづるにぶつける。しかし彼女はきょとんとした、奇異の眼差しを俺に向けた。その瞳を見ていると、まるで俺の方がおかしなことを言っているかのように思えた。それに、鷺沼がいなくなる?一体どういうことなのだろうか。
「だって…私と檜山さんは特別な関係だもの。一年前、私がお店にいた時、何度も私のことを指名してくれていたし、それに崇の家に来たあの日、私を抱いてくれたもの。だから当然でしょ、私と会うことは」
 会わなかった今までが異常だったのよと、そう真面目に話す彼女を見て、後の祭りだとは思いつつも、過去に戻りちづるの色香にほだされた自分を、思い切り諌めてやりたいと心から思った。…向こう見ず女に貢ぐ鷺沼や柳瀬川を下に見ていた節はあったが、俺もこれでは二人のことを悪く言えないじゃないか。色ボケして、性欲への自制心がうまく働かなかったことが原因で、現在大変面倒なことになっているのだから。
 今の心情が顔に出ていたのだろう。ちづるは急に鋭い目つきで俺を睨んできた。
「もし今後会ってくれなかったり、お店にも来てくれなかったりするなら、言っちゃうよ。あの日のこと。あなたに襲われたってことにして」
「…何だと?」
 あの日とはもちろん、一年前の崇の家での出来事である。
「玲子さんに。いや、玲子さんだけじゃなくて皆に言いふらしてやるから。そうなったらまずいの、檜山さんなら分かるよね」
 見開いた目は冷たく、笑っていない。そんな彼女に、内心戸惑いつつも返答する。
「は、は。でもな、ちづる。その証拠なんてどこにも」
「あるよ」
俺の言葉を遮り、彼女は鞄から何かを取り出した。それを見て、俺は血の気が引いた。
「お前、それって…」
「ふふ。おどろいた?私のお守りなの。あの日、私の中に放ってくれた貴方の一部。ずっと大事に持ってるんだから」
 小さめの容器に入ったその液体を恍惚な表情で見る彼女。俺は全身の鳥肌が立つのを感じた。
「これ、襲われた証拠ってことにもできるよね。一年も経ってるから、中身はどうなってるか分かんないけど。最悪警察にだって…」
「ま、待て。待ってくれ!」
 彼女は本気だ。いくら小娘の戯言とは言いつつも、火のないところに煙は立たずというように、戯言の真偽に興味を持つ者は現れる。そして今の状況では、客観的に見れば明らかに俺が不利だった。
 まさか、この俺を脅してくるとは。まだ二十代前半の世間を知らない若造だと思っていたが、随分と肝の座った女のようだ。
 感心している場合ではない。気は進まないが、今はこいつの思惑に乗るしかない。変に意地を張って言い争いをする時間は無い。面倒なこの場を乗り切る方が先決だ。彼女への対応は後日考えよう。
 俺は動揺を悟られないように、できる限り平然を装い頷いた。
「分かった。近いうちにお前に会いに店に行くよ」
 しかし、俺の回答にちづるは満足していないようであった。
「嘘よ、嘘。そう言って適当にはぐらかそうとしているでしょ。来週までに来て。絶対よ」
 来週まで、というところを強調する。既に、この女の中では俺に拒否権などないようだ。
「行ったら、その容器を俺に渡してくれるんだよな」
「檜山さんの誠意が伝わったらね」そう言って、彼女は容器を鞄に入れた。目の前の彼女に聞こえない様、小さく舌打ちをし、首を縦に振る。
「…来週までに絶対、行くよ。それで構わないだろう」
 それを聞いて安心したのか、ちづるはそれまでの表情と打って変わって、満足そうににっこりと笑顔になった。
「ありがとう檜山さん!お店に来たらちゃんとサービスするからね」
 嬉しそうに話すちづるを見ながら、頭を掻く。
「それはありがたいが、もし俺に今後来て欲しいなら、店で俺と親密な関係にあるだなんて噂を流すのはやめてくれ。より行き辛くなるんだよ」
「あ、あれは!檜山さん全然来てくれないし、少し仕返しのつもりもあって…」
 ちづるは悄然して頭を下げる。 全く、女というものはどうして己の感情で相手を振り回すのか。やはりプライベートでの関係ではなく、キャバクラなどのお互い金銭で繋がっている程度の割り切った関係の方が、女とは無理なく接することができる。
 それにしても…本当にうんざりだ。もう、この女がいなくなってくれないだろうか。事故でも他殺でも、どんなやり方であっても、消えてくれればそれで良い。そうすれば、とりあえずこの件は片付くというのに。
 しかしそう簡単に、特に理由無く人間がいなくなることはない。それは重々承知していることではあるが、そう本気で思える程に、俺は疲弊していた。
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