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第二章 檜山武臣の場合
十三 ◯檜山 武臣【 1月10日 午後10時30分 】
しおりを挟むその現状を目にした時。俺は最初、声が出なかった。予想外の状況に思考が一瞬停止してしまったことが理由か。
一歩、また一歩と前に進む。
目の前の道路上では、男が二人蠢いていた。一人はもちろん、俺が探し求めていた鷺沼だ。前方に俺がいると気付かない程、夢中で自身の履いている靴を脱ごうとしている。
鷺沼の足下には血溜まりが出来ていた。しかし、奴の体に怪我など見当たらない。血も付いていない。その血は奴の目の前で倒れている、もう一人の男の腹部から出ているようだ。既に衣服に加えて地面まで赤に染め上げている。仰向けで倒れており、体はぴくりとも動かない。事切れているようである。
…その男は、つい数時間前に会話をした、スカイタワーシティホテルの警備員である柳瀬川和彦だった。
鷺沼の手には銃口から細く煙を上げた拳銃が握られている。何ということだろう。どういった経緯があったのかは知らないが、鷺沼が拳銃を使い、柳瀬川に銃弾を撃ち込んだ。このことに間違いはないようだ。
Aの言っていた、面白いものとはこの状況のことだったのか。分かってはいたが、面白い要素など一つも無い。むしろ、この状況をどう処理すれば良いのか、本気で困惑していた。
「お、おやおや鷺沼さん。あんたとんでもないことしちまったね」
やっと声が出た。冷や汗を拭う。どうやら鷺沼にとって、俺の登場は予定外だったようだ。俺の声を聴くや否や、地面に向いていた頭を俺に向ける。そして大きく目を見開いた。わなわなと、唇が震えている。
戦々恐々とした様子の鷺沼に、平静を装い、ゆっくりと俺は近寄った。
「あんた。これは取り返しつかないと思いますがね。あーあ、どこで手に入れたのかわかりませんが、拳銃なんて使っちゃって」
鷺沼の目を見ながら言った。そう、もはや第三者である俺や他の誰もが見ても、この男のやったことは取り返しのつかないものであった。一年前、ちづるを切りつけた時のように、今度は示談では済まされないだろう。
しかし…それ以上に、俺は鷺沼の持っている拳銃が気になっていた。どうして、こんな男が拳銃を持っているのだろうか。何か伝手があって手に入れたに違いないが、その伝手などとは見るからに縁の無さそうなこの男が、どうして持っているのだ。
鷺沼は体を小刻みに震わせ、黙って立ったままである。
「…鷺沼さん、さっきのように逃げないで、黙って聞いてくれると嬉しいんですが」
ホテルの時のように強引に聞き出すと、また取り乱して逃げられてしまう可能性がある。できる限り静かに、それでいて簡潔に答えを貰えるような配慮が必要だ。…少なくとも最初だけは。
鷺沼は無反応である。いや、無反応というよりか、反応する程の気力が残っていないのか。俺は、鷺沼が聞いている体で話を続ける。
「あんた、うちの小林って男、殺したんですか?」
「どうして、それを…」
単刀直入に聞くと、鷺沼は瞬時に反応した。どうしてそれを、か。俺は首を何回か、小さく縦に振った。
そのついでに謎の人物…Aから電話があったことを話したが、鷺沼の表情は話す前と変わらなかった。
ということは。Aが誰なのか、鷺沼に心当たりはないということになる。しかし、Aがあそこまで鷺沼の動向を知ることができるのには、何かしら繋がりがあるとは思うのだが。それとも、鷺沼のことを一方的に知っている人物ということなのだろうか。Aの素性に関する情報が得られそうにないと分かり、少々拍子抜けしてしまった。
…まあ良い。とりあえず今は。
俺は瞬時に鷺沼に駆け寄り、手刀で手に持っている拳銃をはたき落とす。弾丸が残っている場合を想定しての行動だった。呻き声を上げる奴の胸倉を掴み、その体を背負い地面に叩きつけた。そのまま痛みで動けないままの奴に、体重を乗せて跨る。
「とりあえず、あんたには一緒に来てもらいますよ。あいつを殺したツケを支払って貰わなきゃならんですからねえ」
そう、この男には聞きたいことが山程あるのだ。こいつが今日ホテルにいた理由や、小林を殺した理由など。最終的には警察に突き出す予定だが、聞くべきことは聞いておかなければならない。
しかし。俺が鷺沼を詰問することは叶わなかった。それはまさに突然のことで、予測することはできなかった。脇腹に今まで味わったことのない激痛。呻き声を発し、その痛みから逃れるように、反射的に体をくねらせた。
何だ。
何が起こった?
震えながらも、今もまだ強い痛みを発している脇腹に目を向けた。そして、全てを理解した。
野郎…包丁で俺を刺しやがった!
俺の体から数十センチメートル離れたところに、峰の部分まで血が付いたそれが転がっている。先程まで俺の脇腹に刺さっていたものか。
鷺沼は、その血の付いた包丁をまるで忍者の如く俊敏に拾い上げ、俺を睨む。痛む脇腹を抑えながら、その強い瞳に向かって言った。
「て、てめえ…なんてことをしやがるんだ」
苦し紛れにそう言ったが、声に覇気が出ない。また、抑えている手にも本気で力を込めることができない。それでも俺は威嚇するように鷺沼を睨んだ。
しかし奴は、まるで俺の姿など見えていないかのように呟いた。
「そうだ、条件…」
条件?一体何のことだ?こいつは何を言っている。
「お、おい…何を考えてやがる」
俺の不安げな問いかけに対し、鷺沼は気色の悪い、汚泥のような笑みを浮かべた。そのまま手に持っている包丁の切っ先を俺に向ける。その瞬間、鷺沼から殺気を感じた。まずい…これは非常にまずい。必死に鷺沼から遠ざかろうとするが、動く度に刺された箇所が悲鳴を上げ、激しく痛み、思うように動くことができない。
「ふふっ」その時、鷺沼が急に笑い出した。
「はは、はははは」
(く、狂っていやがる…!)
周囲に誰もいない、明かりのない暗闇の住宅街に、不気味 な笑い声は大きく響いた。
「や、やめろ…やめてくれ」
情けないが、無意識のうちに命乞いの言葉を発していた。それも、今日に至るまで下に見ていた男に対して。しかし目下、上の立場にいるのは思うように動くことができない俺ではない。目の前の鷺沼であった。
その命乞いの言葉は何も意味を成さなかった。鷺沼は包丁を逆手に持ち替え、大きく振り上げる。そしてそれは、俺の腹部に突き刺さった。
ずぶ。己の体に刃が突き刺さる感触。
痛みは最初の一回のみで、それ以降は感じなかった。先に脇腹を刺されたことで、既に痛覚が麻痺していたのだろうか。それとも痛みの限界を超えてしまったのだろうか。
興奮しているのか、鷺沼は何度も俺の体に刃を入れた。その度に体が強く、大きく振動する。しかしその頃には俺の意識は半分以上消えており、最早何も考えることなどできなくなっていた。死ぬ。そう理解した時、俺は意識を失った。
…
どのくらい、時間が経ったのだろう。包丁で刺された際死んだものかと思ったが、どうやらその時は気を失っただけで、まだ生きているようだ。
俺は今、地面にうつ伏せの状態で倒れている。どんなに力を入れようとも、動くのは指先程度。起き上がることすら到底不可能であった。まさか、鷺沼が反撃をするなんて夢にも思わなかった。この状況は、ひとえに俺の甘えのせいだ。まさに風前の灯。このまま俺は死んでしまうのか。
その時辛うじて見える視界に、何やら動く黒い影がぼんやりと見えた。もしや、通りすがりの者だろうか。はっきりと目を見開く力すらないため、その者が誰なのかは分からない。しかし、俺をこんな目に合わせた鷺沼とは、どことなく雰囲気が異なっていた。
助けを求めようと声を上げようとしたが、全く声が出ない。肺も、声帯も、動く気配すら無い。どうやらもう、限界のようだ。とてつもない眠気が、俺を襲う。もう、意識を、保つことも、俺には、敵わなかった。
一度、眠ろう。思うが早く、俺の意識は深い闇の底へと沈んでいった。
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