殺人計画者

夜暇

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第三章 新出ちづると柳瀬川和彦の場合1

三 ◯新出 ちづる【 過去 】

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「いやあ!」
 肩に走る激痛。部屋の中に飛び散る血飛沫。反射的に痛みが走った方向とは逆方向に飛び退いた。
 腰が抜け、そのまま床にへたり込む。一方の肩に大きな切り傷が一直線にできており、そこから血が流れ出ていた。その傷の強い痛みに顔をしかめる。
「ふぅー、ふぅー」
 震えながら前を見ると、片手に包丁を握りしめ、肩が上下する程乱れた呼吸の崇が立っていた。興奮からか、目が血走っている。

 このような事態に陥った理由としては、数時間前に遡る。
 その日は崇から、彼の家で待っているようお願いをされた。最近は著しく年季の入った彼の家に行くことを嫌厭していたのだが、どうしてもという懇願に負け、彼の仕事が終わるまで家で待っていた。
 何をするわけでもなく、ぼーっと惚けていくうちに時間は過ぎていく。夕方に差し掛かった頃であった。突然家のチャイムが鳴り出てみると、そこには密かに恋心を抱いていた檜山さんが立っているではないか。
 彼の話を聞いて私は愕然とした。なんと、崇から受け取っていた金は彼の貯金から出た物ではなく、コモレビから借りた金だという。毎月の返済が滞ったため、彼はここに来た…とのことだった。
 私は借金というものが良いものではないということを知っている。高校生の頃、学友の父親が遊ぶ金欲しさに借金をして蒸発したことがあった。その学友は学校を中退し働きに出て、後の音沙汰は不明である。
 自分だけではなく、家族や他人まで巻き込んで不幸にするもの。たとえ知らなかったとしても、崇が借金から作り出した金を嬉しそうに受け取っていたそれまでの自分を顧みると、どうしようもなく吐き気がした。
 崇が自分の会社から借りた金を私に貢いでいたということに、檜山さんも驚いたようだ。
「俺もびっくりだよ。あいつがうちから借りた金を使ってお前に貢いでいたなんてな。偶然ってのはあるもんだ」
 首を横に振りながら唸る。
 …偶然にも程がある。仕事で付き合いのある檜山さんに、崇が金を借りていたなんて。また、檜山さんはこうも言った。
「よく考えてみろよ。お前にそんな大金を渡せるほど、あいつは裕福に見えたか?そもそもこんな家に住んでいる時点で、何か裏があるんじゃないかと勘ぐることはできただろうに」
 言われてみればそれもそうだった。私に渡すために大金を用意したといっても、流石にここまで生活が困窮するものなのか。それがわからない程に、私は金の魔力に毒されていたのである。
 私の様子を見た檜山さんは、「…とにかく、奴が帰ってきたら、返済について話があると伝えておいてくれ。俺は奴から金を返してもらえればそれでいいんだ。お前ら二人のいざこざについては、二人だけで話し合って決めるんだな」そう言って立ち上がった。その表情は、私を気疎いものでも見るかのような、うんざりとしたものだった。
 その表情を見た瞬間、私の腕が勝手に動き、檜山さんの腕を掴んだ。檜山さんは、驚いた顔を私に向ける。たとえ崇と私の二人の問題ではあっても、その問題は檜山さんがここに来て、私に話をしたことで作り出したものである。このまま無関係な姿勢とるなんて。そんなことは、許さない。
「待って!このまま私を一人にしないで!今だけは…お願い」
 この時の私の心情。それは、崇が隠し事をしていたことで意気消沈したものではなく、目の前の檜山さんをどうにかして私たちと同じ舞台まで引っ張り上げる。これに尽きるものであった。
 しかし私自身それとは別に、ここで彼の弱みを握り、二人だけの秘密な関係になれるかもしれない…という、浅はかだが悍ましい思惑もまた、内に秘めていたのである。

 檜山さんが帰った後も、私はその場を動けずにいた。その頃にはもう、崇に裏切られたことのショックは飛んでいた。それ以上に、幸せな気持ちで胸が一杯だった。
 電気を消し、日頃想っていた彼とやっと一緒になれた、という余韻に浸っていた。喜びの感情で満ち溢れる。気持ちの昂りからか、瞳からは涙が頬に筋を作る。
「ただいまー」
 そんな時に、崇は帰ってきた。彼の呑気な、そして汚い声で、私の至高の余韻はかき消されてしまった。拳を強く握る。頭に血が上り、後ろに立っていた崇に向かって、先程檜山さんから聞いた内容を怒りに任せて叩きつけた。そして最後に、私は吐き捨てるように次の言葉を口から出した。
「崇がそんな人だとは思わなかった。私たち…もう終わりにしよう」
 その言葉を聞いた崇の表情がそれまでの慌てふためいたものから、瞬時に怒りの形相に変わったことは、今でもはっきりと思い出せる。
「なんだ、その言葉は!お前は…俺のものだ!」
 いつの間に持っていたのだろう、崇の手には台所に置かれていた、包丁が握られていた。彼の持つその包丁が、私に切りかかる。突然のことから数拍遅れながらもその凶刃を避けようとしたが、時既に遅し。私の肩は、激痛と共に赤い血を噴き出したのである。

 自分の肩を手で強く抑える。既に時は過ぎ、傷は塞がっているため、痛みは感じない。
 切りつけられた直後、私の悲鳴を聞いたという警察官が部屋に突入し、崇は抑えられた。私はというと、傷の手当ということで近くの病院まで救急搬送された。幸い出血量の割に傷は浅かったようで、数日間の入院で私は退院できた。
 それから私は、今後私や私に関する場所…職場である愛彩や私の家等に近づかないという条件付きで、示談という結果を選んだ。事件として裁判沙汰にすれば、彼と今後も長く関わる必要がある。これ以上彼の顔など見たくないし、関わりを持ちたくなかったのだ。
 しかし。そこまでしたというのに、今回の一件は、私の心に大きな傷を残したようだ。
 頻繁にその傷は私に痛みを与える。毎夜ではないが、目を閉じ眠りに落ちると、私は崇の住んでいた部屋で佇んでいる。目の前には当時のままの崇が私を見つめている。私の意思とは関係なく、自分の口が動き、崇に向けて何か強い、きつい言葉を叩きつける。その言葉に崇は激昂し、手に持っていた包丁を振り上げ、そのまま私目掛けて…
「新出さん。その症状はおそらく、PTSDの可能性が高いですね」
 耐えきれなくなり病院へ行った結果、私はPTSDであることを医者から告げられた。
 PTSDとはPost Traumatic Stress Disorderの略語で、外傷後ストレス障害、俗に言うトラウマのことらしい。崇に襲われたことによる強い恐怖が、私にそれを植え付けたようだった。通常数週間のうちに記憶は整理され、その体験は過去のものとして処理されるが、人によっては数ヶ月やそれ以上続く者もいる。
 この病気の治療たる所以で、泣く泣く私は実家へ帰ることに決めたのである。
 実家の両親は何も言わず、私を温かく出迎えてくれた。三年前、高校卒業と同時に家出同然で飛び出したというのに。
「ちづるの居場所はここにもあるんだからね。いつでも、ここに」
 私の手を握りながらそう話す母親は、三年見ないうちに随分と皺が増えていた。父も特段何か言うことは無かったが、私のことを邪険に扱うこともなく、当時と変わらない態度で接してくれた。
 それからの数ヶ月、私は地元でほとんど何もせずに過ごした。本を読んで一日を過ごしたり、両親の仕事で使う船がある船着場まで散歩したり、時には両親の車を借り、金沢辺りまで行き暇を潰して帰ってくるなど、それまでの東京での生活とは百八十度違う、何とも平凡で安心した生活を送っていた。
 そうした生活を過ごすうちに、眠る度に現れていた崇の幻影を見ることも少なくなってくる。晩秋に差し掛かる頃には、それまで夜が来る度に感じていた緊張やストレスを感じることも無くなっていた。心の中で、あの出来事は完全に過ぎ去ったものになったということだろうか。そう感じられるようになった頃に、安心からか別の気持ちが沸々と湧き出てきた。
 檜山さん。そう、檜山さんだ。彼と会いたい。会って話がしたい。彼の顔が、体が、声が、全てが欲しい。欲しくてたまらない。その思いは、私の心の汚い部分とかっちりと結びついた。
(そうだ…)
 私と彼には、二人だけの秘密があるのだ。弱みに付け込むようで良い気はしないが、私のこの気持ちを抑えるだけの力は、他に存在しなかった。
 思い立ったが吉日。荷物の整理をし、私は東京行きの新幹線へと乗り込んだ。
 三年前に上京した時と異なり、両親は私を止めなかった。東京に戻ると話したその時、私が何かをやり残してきたということ、そしてその何かを完遂するために、また戻るのだ…そう察したのであろう。
「また、いつでも帰って来い」
 新幹線に乗り込む際、無口な父親が私に投げかけたあの言葉。それだけで、私は良い両親に恵まれたのだと心の底から思ったものだった。
 そうして今、この西街にいる。ここに再度容易に馴染むことができたのは、一年前まで住んでいたアパートの部屋を解約しておらず、変わらずそこで住めること(大家さんが気の良い方で、家賃を立て替えてくれていたのだ)と、働き口であった愛彩で、玲子さんが私の席を取っておいてくれていたのである。こうして、私の東京での二回目の生活は良いスタートを切ったのであった。
 しかし…そう全て上手くはいかなかったのである。
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