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第三章 新出ちづると柳瀬川和彦の場合1
六 ◯柳瀬川 和彦【 12月2日 午後8時00分 】
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「どうしたの?」
俺の肩に手を当て、笑みを浮かべるこの女はアンナという。現在俺がいる、この愛彩というキャバクラで働く嬢の一人であった。
「あ。い、いやあ…何でも無いよ。何でも」
俺はかぶりを振り、目の前の酒を飲み干す。アルコールが体に染み込む。酔いが回る。
「そお?何だか思いつめたような表情だったから、心配しちゃったよ」
「ああ、うん。だ、大丈夫」
「大丈夫なら良かった。あ、もしかして仕事のこと考えていたの?さっき、今の職場は俺に相応しくない!って叫んでいたし」
アンナは俺の真似をして、クスクスと笑う。
「ま、まあ。そんなところだよ」
「ホテルの警備、私はかっこいいと思うけどなあ。何かを守る仕事って、男らしいし」
「そ、そうかな」
「しかもご結婚もされていて、きちんと所帯持っているし。ほんと、偉いよ」
よしよしと、頭を撫でてくる。彼女の繊細で細い指が、俺の汚くて固い髪の毛に触れる。指の感触が体中に伝播し、軽く鳥肌が立つ。
この店に通い始めたのはいつからだっただろうか。撫でられ、ぼうっとした頭のまま、思う。今でこそ常連客と言えるほど、週に何度もここに通っているが、元々そこまでに至る、主だった理由は無かったような気がする。手持ちの金に余裕があったとか、日々の生活で妻の春子以外の異性と会話する機会が無いことに我慢できなかったからとか、そういった曖昧で下らない理由じゃ無かったか。とりあえず、何の気なしに足を運んだ…ということだけは覚えている。
しかし、今日は十二月上旬。その特に意味も無く入店した場所に入り浸り八ヶ月。もうすぐ一年が経過しようとしている。そう続く理由としては、この店の嬢の一人が関係していた。
「な、なあ」俺はアンナに声をかけた。
「うん?」
彼女はその澄んだ瞳で、俺を見る。穢れを知らないであろうその瞳を見ると、自分がいかに汚く、矮小な人物かを思い知らされるようであった。無意識に目を背ける。
「なあに?」
「ど、どうして今日はカオル、いないんだっけ」
「えっ」
彼女の笑みが一瞬崩れたが、すぐに持ち直し、また俺に笑いかける。
「あー、あはは。カオルさん今日非勤日だったから。どうしてかは、知らないかな」
「そ、それなら。今度はいつ来るか分かる?」
続けてそう質問すると、アンナは眉間に軽く皺を寄せる。
「ちょっと他の人のことは、私分かんないなあ」
「そっか…」
「ごめんね。でもね、お店で指名した子の前で別の子のスケジュールとか聞くのって、あまり良い気はしないよ?」
笑顔で俺にそう伝える彼女の言葉からは「マナーぐらい守れよ」と、間接的に俺を蔑んだ意を含んでいた。
「あ、ご、ごめん」
その言葉に一瞬申し訳なく思いつつも、少々頭にもきた。何も、俺はお前を指名したくてここにきたわけじゃない。元々はカオル…瑞季に会うために来たのだ。店に入ったところで彼女が休みと聞き、落胆していたところに、店長の玲子からお前を紹介されたのだ。仕方なくお前を指名したに過ぎないのだ。
そうだというのに。そうだというのに…
言い返そうにも、俺はそのまま何も言え無かった。それはその日、最後まで、変わらずそうであった。
「今度はカオルがいる時に来てね」
その後。終了時間までアンナとは気まずい雰囲気のままで終わった。金を払い終わり、店の扉を開けるその時に言われた言葉。それはつまり「カオルがいない時には来ないでくれ」、ということである。
「…」
返答もせず、無言で外に出た。途端に冷気が全身にまとわりつく。
玲子のおすすめと聞いて試しに指名したが、結局のところ、外見が綺麗なだけで、俺にとっては期待外れだった。
やはり…瑞季と、会いたい。彼女と会ったのは八ヶ月前。そうだ、確かホテルの建設工事が完了し、そこに配属され数ヶ月過ぎた、その頃だった。
俺の肩に手を当て、笑みを浮かべるこの女はアンナという。現在俺がいる、この愛彩というキャバクラで働く嬢の一人であった。
「あ。い、いやあ…何でも無いよ。何でも」
俺はかぶりを振り、目の前の酒を飲み干す。アルコールが体に染み込む。酔いが回る。
「そお?何だか思いつめたような表情だったから、心配しちゃったよ」
「ああ、うん。だ、大丈夫」
「大丈夫なら良かった。あ、もしかして仕事のこと考えていたの?さっき、今の職場は俺に相応しくない!って叫んでいたし」
アンナは俺の真似をして、クスクスと笑う。
「ま、まあ。そんなところだよ」
「ホテルの警備、私はかっこいいと思うけどなあ。何かを守る仕事って、男らしいし」
「そ、そうかな」
「しかもご結婚もされていて、きちんと所帯持っているし。ほんと、偉いよ」
よしよしと、頭を撫でてくる。彼女の繊細で細い指が、俺の汚くて固い髪の毛に触れる。指の感触が体中に伝播し、軽く鳥肌が立つ。
この店に通い始めたのはいつからだっただろうか。撫でられ、ぼうっとした頭のまま、思う。今でこそ常連客と言えるほど、週に何度もここに通っているが、元々そこまでに至る、主だった理由は無かったような気がする。手持ちの金に余裕があったとか、日々の生活で妻の春子以外の異性と会話する機会が無いことに我慢できなかったからとか、そういった曖昧で下らない理由じゃ無かったか。とりあえず、何の気なしに足を運んだ…ということだけは覚えている。
しかし、今日は十二月上旬。その特に意味も無く入店した場所に入り浸り八ヶ月。もうすぐ一年が経過しようとしている。そう続く理由としては、この店の嬢の一人が関係していた。
「な、なあ」俺はアンナに声をかけた。
「うん?」
彼女はその澄んだ瞳で、俺を見る。穢れを知らないであろうその瞳を見ると、自分がいかに汚く、矮小な人物かを思い知らされるようであった。無意識に目を背ける。
「なあに?」
「ど、どうして今日はカオル、いないんだっけ」
「えっ」
彼女の笑みが一瞬崩れたが、すぐに持ち直し、また俺に笑いかける。
「あー、あはは。カオルさん今日非勤日だったから。どうしてかは、知らないかな」
「そ、それなら。今度はいつ来るか分かる?」
続けてそう質問すると、アンナは眉間に軽く皺を寄せる。
「ちょっと他の人のことは、私分かんないなあ」
「そっか…」
「ごめんね。でもね、お店で指名した子の前で別の子のスケジュールとか聞くのって、あまり良い気はしないよ?」
笑顔で俺にそう伝える彼女の言葉からは「マナーぐらい守れよ」と、間接的に俺を蔑んだ意を含んでいた。
「あ、ご、ごめん」
その言葉に一瞬申し訳なく思いつつも、少々頭にもきた。何も、俺はお前を指名したくてここにきたわけじゃない。元々はカオル…瑞季に会うために来たのだ。店に入ったところで彼女が休みと聞き、落胆していたところに、店長の玲子からお前を紹介されたのだ。仕方なくお前を指名したに過ぎないのだ。
そうだというのに。そうだというのに…
言い返そうにも、俺はそのまま何も言え無かった。それはその日、最後まで、変わらずそうであった。
「今度はカオルがいる時に来てね」
その後。終了時間までアンナとは気まずい雰囲気のままで終わった。金を払い終わり、店の扉を開けるその時に言われた言葉。それはつまり「カオルがいない時には来ないでくれ」、ということである。
「…」
返答もせず、無言で外に出た。途端に冷気が全身にまとわりつく。
玲子のおすすめと聞いて試しに指名したが、結局のところ、外見が綺麗なだけで、俺にとっては期待外れだった。
やはり…瑞季と、会いたい。彼女と会ったのは八ヶ月前。そうだ、確かホテルの建設工事が完了し、そこに配属され数ヶ月過ぎた、その頃だった。
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