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第四章 新出ちづると柳瀬川和彦の場合2
四 ◯新出 ちづる【 1月10日 午後9時5分 】
しおりを挟む腕につけた腕時計を見る。今日の勤務時間は午後八時まで。そうだというのに、一時間以上超過してしまっている。
本当にもう、どうしてこんな時間になったのか。どれもこれも瑞季さんのせいである。ここまで彼女に対し、憤慨することは早々無いだろう。
ちょうど三時間前、一組目の客の相手を終え、一度小休憩を取りに戻ったところで、私は玲子さんに呼ばれた。
「え、午後九時までですか?」
「そうなの。ね、お願いできないかな」
店の事務室で、椅子に座った彼女は両手をすり合わせた。退勤予定時刻より、一時間だけ残業して欲しい。それが玲子さんのお願いだった。
話を聞くには、午後九時まで勤務予定だった瑞季さんが、体調不良を訴え早退したそうである。その代役として、声をかけられたという訳だ。
「アンナだけが頼りなのよ。ね?」
「ほ、他の人はどうなのでしょうか」
「それがね。他の子たち皆、元々夜中まで勤務なのよ。一応九時からは遅番の子が来ることになっていて、それ以上に遅くなることは無いから。お願い」
「…」
本当は嫌だった。が、玲子さんには大きな借りがある。一年前、前振りなく実家に帰るという非常識な対応をとったにもかかわらず、東京に戻った時に私を助けてくれた恩人だ。彼女の願いを無下にすることなど、私にはできなかった。
たった一時間、残業するだけである。それに柳瀬川が実行に移すのは、もう少し後の時間なのだ。そこまで神経質になる必要は無いのかもしれない。
「残業の分、来月の給料、少しだけ、割り増ししてあげる。どう?」
そんな私の考えに畳み掛けるように、玲子さんは私の飛びつきそうな餌をぶら下げてきた。それも私にしっかりと伝えるため、言葉ごとにはっきりと、区切りながら。
よし。仕方ない。恩としてはまだ返し足りないぐらいだし、ここは玲子さんのお願いを聞いておいて損は無い。
「分かりました。ただ、後ろに予定が入っていますので、終わり次第すぐに上がります。それで良ければ」
私のその言葉を聞き、玲子さんは一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに満面の笑みを浮かべ、手を握ってきた。彼女の冷たく、白く細い手に掴まれると、女の私でもどきっとする。
「良いわ、本当にありがとう!迷惑かけてごめんね、それじゃあよろしくね」
彼女のその笑顔に、私は思わず視線を外す。
ふと、外した視線の先…彼女の机の上に目が留まった。そこには首の垂れた、綺麗な花が活けられた花瓶が置かれている。その花は先月末あたり、西街の園芸店で玲子さん自身が購入し、以来大事に扱っているものであるが、確か普段は入口にひっそりと置かれていたはずだ。
よく見ると、花が数輪無くなっていた。まるで茎からぽっきり折れてしまったかのように。一体どうしたのだろうか。
「は、はい」
まあ、それはどうでも良い。緊張しつつもそう答え、平静を装い職場に戻ろうとした。しかし事務室の扉を開けようとした時、「ちょっとアンナ」と玲子さんに呼び止めた。
「それにしても。あなた、本当に前いた時から変わったわねえ」
「え?」目をまん丸にして彼女を見ると、彼女は己の顔の輪郭を、細い指で軽くなぞった。
「顔つき。所作もそうね。もちろん、良い意味で変わったのよ?復帰してまだ大体一ヶ月程度だっていうのに、間があったとは思えないくらい、仕事ぶりも溌剌としているし」
「あ、ええ。本当ですか」
私は振り返り、玲子さんと対面する。彼女は机の上に肘を置き、私に頷きを見せた。
「本当に良かった。あなたが戻ってきてくれて」
「い、いやいやそんな」
「謙遜すること無いの。あなた目当てのお客さん、沢山いるんだから。常連の方だって、一見の方だって」
玲子さんはにっこりとした満面の笑みで、私を褒め称える。ここまで玲子さんに褒められることは普段無いことだ。あまり褒め慣れていないこともあって、何だか気恥ずかしい。
しかし…何だろう。この何とも言えない違和感は。
「最近はお客さんも、前みたいに多いわけじゃないの。常連の方も、ぱったり来なくなることも多いし。そんな中、あなたと話したい、楽しみたいと思って来てくれる方は貴重なのよ。これからも大事にするのよ」
「はい、分かりました」
玲子さんの言葉に対し、ぼんやりと頭に浮かんだ違和感を振り払い、しっかりとした返答をする。そう、愛彩での仕事を再開した時に感じたことがそれだった。客が何度も、自分と話したい等と店に来てくれることは、本当に大事であるということに。
そして彼らが過ごす時間は私たち従業員側だけではなく、客からしても大事なのだ。何しろ自身のプライベートである貴重な時間を、私たちと話すことに使われるのだから。帰り際に「楽しかった」「来てよかった」「また来るよ」と、嬉しい言葉をいただけた時は、達成感や満足感に加え、自分がここで働く意味を実感できるというものだ。
ここでまた働かせてもらえて、本当に良かった。玲子さんはもちろん、店の他の女の子たち、また客に対してだって、感謝してもしきれない。今の私は、一年前働いていた際は分からなかった、やり甲斐というものを感じている。
「…はい」
事務室から出た後、今度は自分に言い聞かせるように、誰にともなく、もう一度その場で言った。
と、そんな良い話でまとめつつも、結局店を出たのは勤務終了予定の午後九時を大きく過ぎた、その三十分後だった。急いで普段着に着替え、携帯電話を見ると、柳瀬川からその数十分前、メッセージが来ていることに気がついた。その内容に私は驚かせられた。
『お願いしたいことがある。スカイタワーシティホテルの入口付近に、恰幅のいいスーツの男がいるかもしれない。檜山という男なんだけど、名を聞いてもしもそいつだったら、どうにかして、別の場所に連れて行ってくれないかな』
「えっ?」
檜山、だって?
その瞬間、私はすぐに柳瀬川に電話をかけた。数回のコールの後、彼は出る。
『な、なんだよ。急に』
少々おどおどとした、落ち着かない雰囲気である。
「メッセージ、確認しました。檜山さんって、消費者金融コモレビの?」
しかしそんな柳瀬川の様子など御構い無しで、私は聞いた。
『そうだけど。ま、まさか知っているのか』
やはり。
「…いえ、分かりました。あなたの言うとおり、なんとかします」
そう言うと、柳瀬川の声のトーンが少し上がった。
『はぁー、良かった。本当に困っていたんだ。これできちんと実行できるから、安心してくれ』
「はい」
『実際に檜山がいるかどうか分からないけど、まあもしいたら…の話だから、い、いなければ何もしなくて良いよ』
「分かりました」
そう答え、電話を切ろうとする私に対し、柳瀬川は「待ってくれ」と慌てて止めてきた。
『この後なんだけどさ。エ、エイちゃんには俺が完了連絡を送るまで、自宅でもいいから待機しておいて欲しいんだ』
「はあ?」思わず素で返してしまった。その反応に、柳瀬川はいつも以上に吃る。
『だ、だ、だから。さぎ、鷺沼を消すのは俺一人でや、やるから、その連絡を待っていて欲しい。立会いなんて、絶対に、絶対にやめてくれ』
吃りつつも強い意志を感じる彼に向かって、私は反論することができなかった。それは一重に、立ち会おうと考えていた心の内を見抜かれたことによる動揺が影響しているのかもしれないが。
『じゃ、じゃあよろしく』
私が何も言わないことをいいことに、電話は切れた。仕方がない。彼がそこまで言うということは、あまり人には言えない疚しいことを行うのであろう。先日彼が言っていたとおり、私としては「鷺沼が消えた」ということが実感できればそれで良い。
しかし今はそんなことよりも。私の興奮は冷めやらなかった。
「嘘でしょ?」
まさか、合法的に(元々の理由も考えれば合法でも何でもないのだが)檜山さんと会うことができるとは。それが頭で分かった途端、いても立ってもいられなかった。
早くその場に向かわなければ。スカイタワーシティホテルか。確か、この前柳瀬川と会話した喫茶店の前に立っているホテルだ。いつ建てられたのかは記憶に残っていないが、わりかし最近のことだった気もする。
あのホテルはここからも近い。ものの数十分で行ける。
「ん?」
意気揚々と、携帯電話を仕舞おうとバッグの中に手を入れたその時、あまり馴染みのない感触がした。何か、角ばったものが入っている。不審に思い、取り出した。
それは薄い桃色と白のストライプの包装紙で包まれた、小さい箱であった。重量はそこまで感じない。
「何、これ」
こんなもの、今日持ってきていただろうか。箱ごと反転してみると、裏側に一枚の付箋紙が貼りついていた。デフォルメされたペンギンを模った、可愛らしい付箋紙だ。その付箋紙に書かれた文字を読んで、驚いた。
『復帰おめでとう、そしてありがとう。二ヶ月近く経っちゃったたけど、細やかながら祝いの品を贈ります。勝手にごめんね、このことは誰にも言わないでね。カオルより』
「え、そんな」
これは瑞季さんが…?従業員用更衣室のロッカーは、ナンバー式の鍵で施錠されている。彼女がどうやってこれを私のバッグに入れたのか、それは分からない。彼女と私のロッカーは隣同士なので、私が開けるところを見ていたのだろうか。
それはともかく。私は、その箱を抱き締める。笑みが零れた。今日早退したと聞いた時は正直溜息が出たが、彼女は私のことを思ってくれている。
そういえば、一度実家に帰り、またここに戻って来た時も、店長の玲子さんを除けば、彼女が一番に話しかけてくれた。本当に嬉しかった。知人が少なく、人から無償で何かしてもらった事などほぼ無い私にとっては、大変貴重な存在である。
しかし不思議に感じる点が一つ。先月の初めに私は瑞季さんから、同じように復帰祝いとして少々高価な和菓子を貰っている。つまり、二度目の復帰祝いをしてもらったことになる。
(どうしてまた…あっ)
そう思った私は、瑞季さんについて一つ、忘れていることがあった。そういえば、彼女は物覚えが大変悪いのだ。もしかすると、以前私にプレゼントをしたことを忘れてしまっているのかもしれない。通常中々考えにくいことだが、彼女の場合それがあり得るのだ。
恐らくそんなところだろう。あまり深く考えない方が良い。とりあえず、瑞季さんが私のためにしてくれたのだ。それはしっかりと感謝し、受け止めよう。彼女には、今度会う時までにお返しを用意して渡せれば良いだろう。
「瑞季さん、ありがとう」
その箱を更により強く、私は抱き締めた。
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