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第四章 新出ちづると柳瀬川和彦の場合2
十 ◯柳瀬川 和彦【 1月10日 午後10時15分 】
しおりを挟む夜道を一歩、また一歩と進んでいく。溜息をつきつつも、先へ、先へと。
おそらく今、俺の後ろには鷺沼が控えているのだろう。姿は見えないが、気配は感じる。周囲に人はいない。そろそろ仕掛けてくるかもしれない。
俺は胸ポケットに入っている、小さいビニール袋に入った血糊をこっそり取り出した。奴が発砲してきたところで俺はビニール袋を破り、この血糊を腹部あたりで放出する。
端的に言えば、これから俺は死んだふりをするのだ。
『柳瀬川の発砲については、きちんとタイミングを計れよ。そうでないと、死んだふりなんて一発でばれるからな』
あいつに言われた言葉が頭に浮かぶ。…大丈夫、俺ならできる。できるはず。
西街から少し離れた人気の無い道路に入ったところで、鷺沼がいるであろう後方に振り返り、怖々と…緊張して実際に震えてしまったが、呼びかけてみた。
「な、なあ。誰かいるのか」
一瞬前の角に何か見えたが、よく認識できなかった。
「い、いるんだろ。出て来いよ。早く」
再び呼びかける。しかし、鷺沼は出てこない。真冬、街灯が照らす光程度の明るさの路上。その中で一人、暗闇に向かって必死に呼びかけをする俺の姿は、さぞ滑稽なものに違いない。
「おい、早く出て来いよ。な、なんか用かよ」
いつまでも出てこない鷺沼に対し、若干腹が立ってきた。こっちはもう、心の準備を何度も行なっているというのに。早く出てきてくれなければ、誰か人が来る可能性もあるし、第一張っている気が緩み油断し、失敗するかもしれない。
「も、もしかしてコモレビの人? 金を払えなかったことは謝るけど、さっき檜山さんと話したよ。それ以外まだ何かあるのかよ」
もちろん俺は、コモレビの人間だとは思っていない。そしてこれまたもちろん、目の前に息を潜めているのは鷺沼に違いないだろう。
しかし、檜山が鷺沼を探していたということは、彼の名を出せば少しは興味を持つのではないだろうか、と考えた次第である。バクバクと大きく鼓動する心臓を片手で掴み、緊張を押し殺す。
そのことが功を奏したのか。大きく足音を立てながら、とうとう目の前に一人の男が姿を現した。
「…!お、お前。誰だよ」
出てきた男の容姿を下から上まで、全身を見る。なるほど、アンナより貰った写真に写っている男と同一人物、鷺沼崇に間違いなかった。半ば大袈裟気味に驚くフリを見せつつも、俺は人差し指で鷺沼を指差す。
「ささ、鷺沼。鷺沼なのか」
一応念のため、彼の名前を述べる。返事は無かったが、その手を見て確信した。拳銃だ。あれが、そうか。怖がる演技で、小さく悲鳴を出す。ごくりとつばを飲み込む。
ここだ、ここが勝負だ。奴が発砲した瞬間だ。俺は血糊の入ったビニール袋を握りしめた。
「ごめんな。あんたに恨みはないが、死んでもらうよ」
(俺の方こそ、な)
鷺沼に恨みなど無い。しかし、彼の存在をこの西街から消す、その原因は俺が下すことになるのだ。謝るのであれば、俺の方からするのが適切だった。
悪いな、鷺沼。恨むなら、俺を脅迫したアンナを恨むんだな。そう心の中でほくそ笑んだ次の瞬間。辺り一帯に銃声が轟いた。
(…え?)
俺は、すぐに状況を飲み込むことができなかった。
「えっ、な、なんで」
腹部に大きな衝撃があったのは分かった。問題は、何故その衝撃が…銃弾を腹部に受けた衝撃が、俺の体に発生したのか。それが理解できなかった。
なんだ、これは。
一体何故、どうして、なんで。
頭の中で疑問符がくるくると回り続ける。そうして、一つの結論にたどり着く。
そうか。俺は裏切られたのだ。あいつに。
というより改めて考えると、元々裏切る予定だったのだろう。ホテルに鷺沼や檜山がいたことも、計画のミスでは無い。あれもまた、図ったことに違いない。
腹部を見る。既に衣服は真っ赤に染まり、その範囲を広げつつある。どうやら血糊のビニール袋も、先の衝撃で破裂していたようだ。俺の体から出る鮮血と、人工的な血糊が混ざり合い、もう何が何だかわからず、深紅の混沌と化していた。
不思議と、痛みは感じない。血は止め処なく吹き出しているのだが、その感覚が無い。ものすごく強い痛みで神経が麻痺しているのだろうか。ホラー映画の銃殺シーンでは、撃たれた側はすぐに事切れる描写が多いが、俺は撃たれる前とあまり大差は無かった。
「かっ、は」
と、急に吐くような込み上げる感覚の後に、喉の奥から真っ赤な血が出てきた。息ができない。今までに見たことがないような量であり、それが出たと同時に全身の力が抜ける。受け身を取れず、そのまま地面に倒れこんだ。
…駄目だ。視界もぼやけてきた。
(これが…これが、俺の最後なのか)
何ともまあ、無様なものである。既に顔も体も動かすことができないため、心の中で笑う。
死期が近いことは感覚で分かったが、意外にも落ち着いていた。そう自分でも思えるほど、もしかすると人生というものにあまり未練が無かったのかもしれない。
俺は薄れゆく意識の中、ふと妻の春子を思い出した。
今…たった今、すぐに彼女に連絡を取ることができるとして、これまたすぐに俺の状態を説明できたとすれば、その時、彼女は本気で俺を心配してくれるだろうか。
はは。死ぬ間際になって、何故そんなあり得ないことを考えるのだろう。これまで一緒に結婚生活を営んできたが、思いやりというものを彼女から感じたことがない。そんな女だ、たとえ俺が死んだとしても、何も感じずに終わるだろう。
彼女にとって、俺は一体どんな存在だったのだろうか。
しかし今際の際になってそんな解決することの無い疑問を持っても仕方がないことである。もう、どうでも良いことだ。俺は体の力を全て抜いた。そういった、よく分からないことは後で考えれば良い。
天国に行けば時間なんて、たっぷりあるのだろうから。
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