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第一章 勝治と雛子の寝室
二
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十畳以上はある、広い寝室だ。小綺麗で整った家具類、中央壁側には、セミダブルサイズのベッドが二つ。勝治の遺体はそのうちの一つに置かれていた。
若月は混乱する頭を無理やり整え、リュックサックを背負い直す。それから、遺体を改めて見据えた。
勝治は紺のルームウェアを身に纏い、両手を胸の前で組んでいる。布団には争った形跡もない。ベッド備え付けの読書灯の暖色の光を柔く浴び、目を閉じていた。首の切り傷が無ければ、一見して眠っているようにも思えるだろう。
一体誰が、こんなことを。今ここで分かることは、彼が誰かに殺されたということ。それだけだった。
「勝治様」
不意に寝室の扉が叩かれた。声が出そうになる口を、若月は両手で必死に抑える。
「あの。お休み、でしたでしょうか」
低く、男の声だった。この声は、誰だ。この家の主に敬称をつけているあたり、この家が雇う使用人か。また、何となく若々しさも感じることから、最近雇われたという、遠藤だろうか。そうだとすると、彼は今日、午後七時半までの勤務だったはず。この時間ここにいるなんて、これまた想定外だ。
全身から嫌な汗が出る。勝治の遺体。これは、彼に見られてはいけない。見たら、彼は警察を呼ぶだろう。そうなれば今夜、ここに忍び込んだ意味が無くなってしまう。
思うが早く、若月は室内中央へ早足で進む。遺体を、隠すしかない。クローゼットの戸を引くも、何かに引っかかり開かない。
続いて毛布やシーツをめくり、ベッドの下の隙間を見る。大の大人が潜むには、高さが足りない。
窓はどうだ。数分前、若月がリュック内のロープを使い、この部屋への侵入経路として使った窓。この家の二階には、人一人通れる程度の幅があるベランダがあった。ただ、窓の開閉音はまずいし、音を立てないように開閉はできない。今にも入ってきそうなこの状況で、悠長な行動はできなかった。
「あの、ご就寝前のハーブティをお持ちしました。雛子様から、最近寝入りが浅いものと聞きましたので」
就寝前の飲み物。英国ではナイトキャップティーと言ったか。そのような習慣が勝治にあったなんて。いや、そんなことはどうでもいい。万事休すか。仕方ない。もう、時間が無い。隠れてこの場をやり過ごすしか無い。若月はベッドの読書灯を消す。そうして暗闇の室内で、ベッド横のドレッサーの陰に、体を潜ませた。
緊張で吐きそうだ。隠れているうちにも入らない。百も承知だった。ただ、もしかしたら…彼が勝治の遺体を見つけ、誰かを呼ぶために、ろくに室内を確かめず、ここを離れる可能性がある。その瞬間に逃げる。むしろ、それしかこの危機を逃れるタイミングは無い。
そう考えていた時だった。
「どうかしたのかい」
別の、嗄れた声。扉越しでくぐもっていたが、若月の耳に確かに聞こえた。
「あ、清河さん。勝治様に就寝前のお飲み物をと」
清河。清河、助三郎。この家で一番の古株の使用人だ。
「就寝前の飲み物か」後に続く清河の声が、ぼそぼそと小声になる。若月は会話を聞くため、部屋の入り口まで忍足で進み、扉に耳を当てた。「それは必要無いよ。旦那様はもう、お眠りになられているから」
「そうだったんですか。雛子様に言われて、てっきり…」
「ふむ。でも、最近のこの時間は、もうご就寝でね。旦那様とは少し前に会話はしたけど、やはりそうみたいだ。それは届けなくてよろしい」
「わかりました。清河さんがそう言うのであれば」
若月は首を傾げる。若月が事前に得ていた情報では、この時刻、彼は起きているとのことだった。だからこそ、いの一番にここ来たというのに。
「君も、もう終業を過ぎているだろう。行こうか」
「はい」
二人分の足音が聞こえる。それらは次第に小さくなり、遠ざかっていった。
今夜、遺体の勝治を除くと、この家には四人の人間がいるらしかった。勝治の息子である真琴の妻の志織。志織の義娘の瑛子。使用人の清河と遠藤。
勝治の妻、雛子は不在だった。こんな夜更けにとも思うが、時々そんな日があるらしい。行き先は分からない。
現藍田製薬のトップ、真琴もいない。仕事の会合に出ているという。国内の有名な金持ち連中、財政界の大物が集まるパーティー、なのだろうか。一般人の若月の頭では、その程度のチープな想像しかできなかった。
この二人は今日、日付が変わる直前まで帰ってくることが無いらしい。今は、特に気をつける必要は無いと言えた。
若月は勝治の遺体を見据える。清河は、少し前に生前の彼と話をしたと言った。そうなると、この家にいる四人の中に、彼を殺害した者がいる可能性は高かった。
いやいやと、若月は一人かぶりを振った。例えば何かしら、事前に彼を殺害する仕掛け、いわゆるアリバイ工作をしておけば、己が居ずとも、事に及ぶことができるのだ。
しかし仮にそうだとしたら、誰でも勝治を殺害できてしまう。彼は、長年藍田製薬の頂点に君臨していた。彼に恨みを持つ犯人候補は、沢山いるはずである。
——とにかく、今のところ若月が判断できることは、この程度。部外者の若月が、明らかに藍田家、ひいては藍田製薬の問題であることに、これ以上下手に首を突っ込むのは、藪蛇とも思えた。
今自分がすべきは、自分の目的を達成すること。若月は頭を無理やり切り替えた。
まずはこの部屋の探索から始めよう。遺体と同じ空間というのは気分が悪かったが、清河と遠藤の会話の様子から、当分この部屋に誰かがくることは無い。探索にはうってつけだった。
若月は、勝治の遺体を一瞥した後に、クローゼットに手をかけた。先程は慌てていて気づかなかったが、開くには取手付近にある、小さなノブを捻る必要があった。
両開き型、大きめのウォークインクローゼット。開く箇所は三箇所。読書灯の灯りが届かず、中は良く見えない。若月はポケットから、スマートフォンを取り出しライトをつけた。白色の光が円状に薄く広がる。
中には衣服がいくつもかけられていた。男物、女物共に存在する。女物は雛子のものだろう。どれもこれも皺が無く、綺麗で高価そうだ。
若月は衣服をかき分け、中をしっかりと見る。が、気になるものは無かった。
さて次はと、黒目を四方八方に向ける。そこでようやく、それに目が留まった。
勝治の死体が乗ったベッドの脇。正方形の、小さなデスクがある。その上に、紙の切れ端が一枚、折り曲げられて置かれていた。
手に取り開いていくと、A5サイズ程の大きさになった。罫線のあるもので、文章が書かれている。どうやら日記のようだ。日付は六日前のものである。
------------------------------
十月九日
これで、ありさ君を監禁して何日になるだろう。
何も彼女は話さない。
私の命を狙う輩を、彼女は知らないのだろうか。
いつまでこの不安は続くのか。頭痛がする。
吐き気もする。眠れない。怖い、怖い。
しかし彼女のことはもう、帰すことはできない。
------------------------------
思わず、紙を持つ手が震えた。
まさか、これは、勝治の書いたものだろうか。
そうであれば、やはりそうだった。間違いなかった。
ありさは彼に拉致され、監禁されていたのだ。
若月は混乱する頭を無理やり整え、リュックサックを背負い直す。それから、遺体を改めて見据えた。
勝治は紺のルームウェアを身に纏い、両手を胸の前で組んでいる。布団には争った形跡もない。ベッド備え付けの読書灯の暖色の光を柔く浴び、目を閉じていた。首の切り傷が無ければ、一見して眠っているようにも思えるだろう。
一体誰が、こんなことを。今ここで分かることは、彼が誰かに殺されたということ。それだけだった。
「勝治様」
不意に寝室の扉が叩かれた。声が出そうになる口を、若月は両手で必死に抑える。
「あの。お休み、でしたでしょうか」
低く、男の声だった。この声は、誰だ。この家の主に敬称をつけているあたり、この家が雇う使用人か。また、何となく若々しさも感じることから、最近雇われたという、遠藤だろうか。そうだとすると、彼は今日、午後七時半までの勤務だったはず。この時間ここにいるなんて、これまた想定外だ。
全身から嫌な汗が出る。勝治の遺体。これは、彼に見られてはいけない。見たら、彼は警察を呼ぶだろう。そうなれば今夜、ここに忍び込んだ意味が無くなってしまう。
思うが早く、若月は室内中央へ早足で進む。遺体を、隠すしかない。クローゼットの戸を引くも、何かに引っかかり開かない。
続いて毛布やシーツをめくり、ベッドの下の隙間を見る。大の大人が潜むには、高さが足りない。
窓はどうだ。数分前、若月がリュック内のロープを使い、この部屋への侵入経路として使った窓。この家の二階には、人一人通れる程度の幅があるベランダがあった。ただ、窓の開閉音はまずいし、音を立てないように開閉はできない。今にも入ってきそうなこの状況で、悠長な行動はできなかった。
「あの、ご就寝前のハーブティをお持ちしました。雛子様から、最近寝入りが浅いものと聞きましたので」
就寝前の飲み物。英国ではナイトキャップティーと言ったか。そのような習慣が勝治にあったなんて。いや、そんなことはどうでもいい。万事休すか。仕方ない。もう、時間が無い。隠れてこの場をやり過ごすしか無い。若月はベッドの読書灯を消す。そうして暗闇の室内で、ベッド横のドレッサーの陰に、体を潜ませた。
緊張で吐きそうだ。隠れているうちにも入らない。百も承知だった。ただ、もしかしたら…彼が勝治の遺体を見つけ、誰かを呼ぶために、ろくに室内を確かめず、ここを離れる可能性がある。その瞬間に逃げる。むしろ、それしかこの危機を逃れるタイミングは無い。
そう考えていた時だった。
「どうかしたのかい」
別の、嗄れた声。扉越しでくぐもっていたが、若月の耳に確かに聞こえた。
「あ、清河さん。勝治様に就寝前のお飲み物をと」
清河。清河、助三郎。この家で一番の古株の使用人だ。
「就寝前の飲み物か」後に続く清河の声が、ぼそぼそと小声になる。若月は会話を聞くため、部屋の入り口まで忍足で進み、扉に耳を当てた。「それは必要無いよ。旦那様はもう、お眠りになられているから」
「そうだったんですか。雛子様に言われて、てっきり…」
「ふむ。でも、最近のこの時間は、もうご就寝でね。旦那様とは少し前に会話はしたけど、やはりそうみたいだ。それは届けなくてよろしい」
「わかりました。清河さんがそう言うのであれば」
若月は首を傾げる。若月が事前に得ていた情報では、この時刻、彼は起きているとのことだった。だからこそ、いの一番にここ来たというのに。
「君も、もう終業を過ぎているだろう。行こうか」
「はい」
二人分の足音が聞こえる。それらは次第に小さくなり、遠ざかっていった。
今夜、遺体の勝治を除くと、この家には四人の人間がいるらしかった。勝治の息子である真琴の妻の志織。志織の義娘の瑛子。使用人の清河と遠藤。
勝治の妻、雛子は不在だった。こんな夜更けにとも思うが、時々そんな日があるらしい。行き先は分からない。
現藍田製薬のトップ、真琴もいない。仕事の会合に出ているという。国内の有名な金持ち連中、財政界の大物が集まるパーティー、なのだろうか。一般人の若月の頭では、その程度のチープな想像しかできなかった。
この二人は今日、日付が変わる直前まで帰ってくることが無いらしい。今は、特に気をつける必要は無いと言えた。
若月は勝治の遺体を見据える。清河は、少し前に生前の彼と話をしたと言った。そうなると、この家にいる四人の中に、彼を殺害した者がいる可能性は高かった。
いやいやと、若月は一人かぶりを振った。例えば何かしら、事前に彼を殺害する仕掛け、いわゆるアリバイ工作をしておけば、己が居ずとも、事に及ぶことができるのだ。
しかし仮にそうだとしたら、誰でも勝治を殺害できてしまう。彼は、長年藍田製薬の頂点に君臨していた。彼に恨みを持つ犯人候補は、沢山いるはずである。
——とにかく、今のところ若月が判断できることは、この程度。部外者の若月が、明らかに藍田家、ひいては藍田製薬の問題であることに、これ以上下手に首を突っ込むのは、藪蛇とも思えた。
今自分がすべきは、自分の目的を達成すること。若月は頭を無理やり切り替えた。
まずはこの部屋の探索から始めよう。遺体と同じ空間というのは気分が悪かったが、清河と遠藤の会話の様子から、当分この部屋に誰かがくることは無い。探索にはうってつけだった。
若月は、勝治の遺体を一瞥した後に、クローゼットに手をかけた。先程は慌てていて気づかなかったが、開くには取手付近にある、小さなノブを捻る必要があった。
両開き型、大きめのウォークインクローゼット。開く箇所は三箇所。読書灯の灯りが届かず、中は良く見えない。若月はポケットから、スマートフォンを取り出しライトをつけた。白色の光が円状に薄く広がる。
中には衣服がいくつもかけられていた。男物、女物共に存在する。女物は雛子のものだろう。どれもこれも皺が無く、綺麗で高価そうだ。
若月は衣服をかき分け、中をしっかりと見る。が、気になるものは無かった。
さて次はと、黒目を四方八方に向ける。そこでようやく、それに目が留まった。
勝治の死体が乗ったベッドの脇。正方形の、小さなデスクがある。その上に、紙の切れ端が一枚、折り曲げられて置かれていた。
手に取り開いていくと、A5サイズ程の大きさになった。罫線のあるもので、文章が書かれている。どうやら日記のようだ。日付は六日前のものである。
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十月九日
これで、ありさ君を監禁して何日になるだろう。
何も彼女は話さない。
私の命を狙う輩を、彼女は知らないのだろうか。
いつまでこの不安は続くのか。頭痛がする。
吐き気もする。眠れない。怖い、怖い。
しかし彼女のことはもう、帰すことはできない。
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