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第二章 真琴の寝室
一
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十月三日。夏が終わり暑さも抜け始めてきた頃。
芳川尚哉は携帯灰皿に煙草を擦り付け、溜息をついた。
九月からの激務の中、昨日は久方ぶりに、午後九時前には職場を出て、一息つくことができた。しかしそんな一息つけた次の日に事件が起こるなんて、本当についていない。
正確には事件というよりも、遺体が見つかったということだった。しかし全国津々浦々、人は毎日のように死んでいる。遺体が発見されたからといって、所轄捜査一課の尚哉を呼ぶ必要は無い。つまりその遺体には、事件性があるということになる。
現場は尚哉の自宅から徒歩で数分の所にある、団地狭間にある公園だった。尚哉のもとに連絡が入ったのは午前八時過ぎ。残念なことに、数十分かからずに準備を終えることができ、午前八時半前には現場に着いていた。
「今日は涼しいな」事件現場に着くと、上司の野本が口をへの字にして声をかけてきた。ゴリラ顔の強面、体躯のある容姿は昭和の刑事ドラマさながらの人相である。
「夏、終わりましたからね」
「今年は早かったなあ」
「毎年思いますね、それ」適当な相槌を打ちつつ、尚哉は目線を彼の後ろにずらす。
そこは、ブルーシートで囲われていた。立入禁止の黄色の帯が弛みなく張られ、警官が至る所に点在している。シートの向こう側にも、数人の影が見える。
少し離れた所には、ベンチにうずくまるように丸まって座る女性と、膝にはその娘らしき少女が座っている。その近くには若い…二十歳になっているかいないかという程度の青年が、落ち着かない様子で顔をしかめていた。
「あそこで?」
尚哉はブルーシートを指差す。野本はこくりと肯き、「見てこい」と大きな顎で示した。
尚哉はゆっくりとシートへと近づいていく。
「巡査部長、お疲れ様です」
シートの近くにいた、線の細い体つきの刑事が声をかけてきた。後輩の西尾である。
「昨夜はゆっくり寝られました?」
「たちの悪い目覚まし連絡が無ければ、そう言えたけどな」
西尾は苦笑いをしつつ、「でも」と切り返した。
「昨日は早めに帰れて、良かったですね。ここんところ、毎日午前様でしたし」
「ああ。久しぶりに彼女とも会えたよ」
「え。巡査部長、彼女できたんすか」
「ちょっとばかし会うのに金はかかるんだけどさ」
「なあんだ。いつものガールズバーですか」
西尾は肩をすくめる。「先輩もう三十路でしょ。結婚とか考えた方が良いと思いますけど」
「うるさい、うるさい」
両手を耳に当て舌打ちをする。こいつは歳下のくせに、たまに小姑みたくうるさい時がある。良いんだよ、俺はあの店で、お気に入りのユサちゃんと話ができれば。
「そんなことより、ほら。通るぞ」
「はいはい」
西尾は、入り口にあたる部分のシートのたるみを上げる。尚哉は腰をかがめて、シート内に入った。
被害者はシート内中央、体をくの字に曲げ、真横に倒れ込んでいた。服装はスーツ。手入れがされた革靴を履いており、背中側からの全身の風貌から、四十を過ぎているだろう。
被害者の近くには、黒のスーツを着た、痩せ型だが大柄の男がしゃがみ込んでいた。今年から捜一に配属された、橋本辰馬だ。
「橋本」
「あ、ども。お疲れ様です」
低い声。橋本は立ち上がり、尚哉の前に立った。尚哉より頭一つ分は背が高い。のっぺりとした顔。相変わらず、何を考えているのか判断できない。
「近くで見て良いか」
橋本はその大きな体を、横にずらす。尚哉は肯き、改めて近くから被害者を見た。
一見して、尚哉は外傷がどこにあるのかわからなかった。しかしその首から上を見て、彼が何故亡くなったのか、瞬時に理解した。
顔が無い。こめかみあたりから、顎下あたりまでざっくりと。断面は血が固まっているせいか赤黒く、ぼこぼことしていた。
少し戻しそうになるが、気合で堪える。咳払いで誤魔化しつつ、目を閉じて合掌した。
「奴だよ」目を開けて振り向くと、後ろに野本が立っていた。尚哉は何度か肯いて返した。野本はふうと空を仰ぐと、周りを高く囲んでいるマンションに目を向ける。
「発見者はここに住む親子だ。発見時刻は、午前七時三十分頃。旦那の出勤を見送った帰り、娘とこの公園で遊ぼうとした時に、母親が発見したらしい」
「それはまた…」
だいぶショッキングな光景である。
「七時半ですか。俺が呼ばれたのは八時過ぎだったんですが。少しラグがあったんですね」
「お前だけじゃない、警察への通報がそもそも遅かったんだ。母親が腰を抜かしちまったとかで、その場から動けなくなったんだと。連絡をくれたのは、通りがかった大学生だよ。通学時、泣き叫ぶ娘と座り込む母親、倒れ込んだ人間がいたら、何事かと思うだろ」
先程ここに着いた時に見た男女と少女。彼らは遺体の発見者だったということになる。
「それで。また、あいつですか。『顔剥ぎ』の」
「ああ。こんな殺し方をするイカれた野郎は早々いねえよ」
尚哉は被害者の遺体を一瞥すると、このS区で頻繁に出没している、通り魔のことを思い浮かべた。
S区警察署では、その通り魔は通称「顔剥ぎ」と呼ばれている。初めて出没したのは九月初旬の夜である。
路上に人が倒れている。通報は最初、救急隊に入った。通報者は帰宅途中のOLで、うつ伏せに倒れていた男のことを、酔っ払って昏倒しているものか何かと思ったらしい。
駆けつけた救急隊員が男を仰向けにしたところで、一同はぎょっとした。男には、顔が無かった。今、尚哉の目にしている被害者と同様で、顔面を強くやすりで削ったかのように、目と鼻が無い。口らしき穴からは、千切れた舌が飛び出ていた。
被害者の名前は佐伯三郎。S区内のマンションに住む、一人暮らしの六十代中年男性だった。妻はおらず、血縁は遠縁の親戚しか存在しない。無職で、日中は散歩とパチンコ。懇意な関係の知人もいない。怨恨の線はなさそうだ。
当初、捜査本部では、その異質な遺体の状態が注目された。
顔が鋸か何かで剥ぎ取られていたこと。それには何か、理由があるはずである。例えば被害者の顔面に、犯人を示す何かが残っていたのではないか。それとも単に、被害者の顔に似た誰かに対して、恨みがあったのではないか等。しかし、どれもいまいち判断に欠ける推論で、捜査は行き詰まっていた。
そんな時に、またも事件は起きる。現場は一人目の遺体が発見された場所から、徒歩十分程度。雑木林の中で見つかった。
九月下旬のことである。今度の被害者は女性だった。棚橋綾子。群馬県K町に住む還暦前の女性で、東京にやってきていた理由は不明である。
彼女も、顔面を切断された状態で見つかった。
被害者が立て続けに顔面を切断されていたことから、遺体の外傷理由は、怨恨や状況証拠の消去ではなく、「被害者の顔を取ることに意味があった」と捜査本部は決めつけた。
こういった猟奇的な殺人ともなると、犯人の心理としては、事件現場や遺体等に、何かしらのメッセージを遺していることがある。それは遺体の顔面を切断することがそうかもしれない。ただ、今回は経験則を結びつけることができるような代物ではなかった。
犯人は単に人の顔面の収集癖がある、異常思考の持ち主だと主張する者もいた。しかしそうなると、無差別的な犯行の線が濃厚になる。余計に犯人像が見えなくなった。
様々な意見が捜査本部では飛び交ったが、一番賛同を得たのは、犯人は二人いて、共謀しているのではないか…というものだった。綾子と一人目の被害者の佐伯は、一切の繋がりが無い。また、太刀筋から、二人の顔面を切断した凶器が異なることが、鑑識の結果から分かったからだ。
ただ、たとえそれが真実だとしても、犯人達が誰なのかも、どこでどうつながったのかも、「顔面を切断する」理由も。何もかも分からないままだった。
そうして犯人の尻尾を掴めないまま、今に至る。三人目の被害者が出た、今に。
「身元は分かったんですか。あと、どうしてこんなところで?」
尚哉が質問すると、野本は「おい」と橋本に顎を向ける。橋本は慌てて手帳を開いた。
「ええと。まだらしいです。なにぶん、個人を特定するだけの何かしらを持っていなかったもんで。あ、男性ってことはわかってます」
「それは、見ればわかるよ」
「はあ、そうですよね」
「…でも、今回も同じさ」
同じ。野本の言葉に、尚哉も心内に同意した。推察にはなるが、身元が判明しても前の被害者二人とは何も接点は無いに違いない。
その後の橋本の話によると、ざっくりとした死亡推定時刻は、昨日の昼過ぎだという。
「ということは、被害者の遺体は半日以上ここにあったと?」
橋本は首を横に振る。「マンションの住人達の聞き込みで、午後九時ぐらいまで、被害者を見た人がいなかったことは分かっています」
「昼は分かるけど、日が暮れたあとはどうだったんだ?暗くなってきていて、気がつかなかったとか」
「上を見ろ。街灯があるだろ」
「ああ…」
野本の指差す方向、上方へと顔を向けると、ゴルフクラブのような形をした街灯が首を垂れていた。今はもちろん明かりは点いていない。しかし古くも無いし、割れてる等の故障も無さそうだ。夜には明るく光が灯るだろう。
「そうなると、つまり」
「被害者は別の場所で殺害されて、その後ここに移されたことになる。これも、これまでと同じだな」
一人目と二人目の被害者達も、別の場所で殺害された後に、現場へと運ばれた形跡があった。犯人には、安心して人を殺し、顔を切断できる場所があるのだろうか。
尚哉は被害者の遺体をまじまじと見た。真っ赤な荒野と化した顔面。初見時よりも、気分は悪くならない。捜査一課に配属され、二年にもなる。ベテラン刑事の野本には及ばないが、凄惨な事件には数件出くわした。少しは慣れも出てくる。無論、こんなことに慣れたくはないのだが。
遺体はマンションの庭園内、ベンチの前で倒れている。顔の周辺の地面のコンクリートには、血がついていない。他の場所で殺害されたと結論づける理由だった。
「午後九時過ぎまで遺体が無かったとすれば、犯人がここに遺体を運んだのは、それ以降ですよね」
「そうなるな。ただ、発見される今朝方まで、ここを通った者はいない。いつ、遺体が置かれたのかは不明だ」
「なるほど。大の大人となると、背負ったり、自転車に乗せたりなんてできないですよね」
「十中八九車が使われたんだろうよ」
「目撃者とかいなかったんでしょうか」
野本は後頭部をぼりぼりと掻く。
「余程犯人の運が良いのか、ここの連中が無関心なのか、誰も見てないってさ」
「そうですか…」
「ちなみに、物盗りの線も薄いぞ。ガイシャの財布の中の万札もそのままだし、そこのほら、高級そうな腕時計も、履いているピカピカの靴もそのまま。…顔を奪ったっていえば物盗りだとも言えるがな」
「でも、被害者の身元につながるクレカや免許証とかは無いんですよね」
「これまでもそうだったが、犯人はすぐに被害者の身元を特定されることを嫌っている節があるな」
金品はそのまま。尚哉は遺体の手首に目を向けた。確かに、腕時計の知識に疎い彼であっても、その羅針盤に刻まれたブランド名は聞いたことがある程に有名だった。
しかし尚哉の目に留まったのは、それでは無かった。彼の手の甲、刺青のように大きな赤いあざがある。そのあざはうねうねと、波打つ海藻の様。尚哉は顔を近づける。
「どうした?」
「いや…」
尚哉は手の甲を注視する。そうしてしゃがみ込んだ後は、遺体のスーツを捲り腕を見た。そうして、大きく目を見開いた。まさか。
「おい芳川、どうしたんだよ」
尚哉は自身の動悸が徐々に激しくなるのを感じた。恐らく、いや、間違いでは無い。
「野本さん、俺多分知ってます。被害者の身元」
「何っ」
尚哉は野本と橋本の両名に顔を向けた。
「この人、俺の叔父の会社で秘書をしていた人です」
芳川尚哉は携帯灰皿に煙草を擦り付け、溜息をついた。
九月からの激務の中、昨日は久方ぶりに、午後九時前には職場を出て、一息つくことができた。しかしそんな一息つけた次の日に事件が起こるなんて、本当についていない。
正確には事件というよりも、遺体が見つかったということだった。しかし全国津々浦々、人は毎日のように死んでいる。遺体が発見されたからといって、所轄捜査一課の尚哉を呼ぶ必要は無い。つまりその遺体には、事件性があるということになる。
現場は尚哉の自宅から徒歩で数分の所にある、団地狭間にある公園だった。尚哉のもとに連絡が入ったのは午前八時過ぎ。残念なことに、数十分かからずに準備を終えることができ、午前八時半前には現場に着いていた。
「今日は涼しいな」事件現場に着くと、上司の野本が口をへの字にして声をかけてきた。ゴリラ顔の強面、体躯のある容姿は昭和の刑事ドラマさながらの人相である。
「夏、終わりましたからね」
「今年は早かったなあ」
「毎年思いますね、それ」適当な相槌を打ちつつ、尚哉は目線を彼の後ろにずらす。
そこは、ブルーシートで囲われていた。立入禁止の黄色の帯が弛みなく張られ、警官が至る所に点在している。シートの向こう側にも、数人の影が見える。
少し離れた所には、ベンチにうずくまるように丸まって座る女性と、膝にはその娘らしき少女が座っている。その近くには若い…二十歳になっているかいないかという程度の青年が、落ち着かない様子で顔をしかめていた。
「あそこで?」
尚哉はブルーシートを指差す。野本はこくりと肯き、「見てこい」と大きな顎で示した。
尚哉はゆっくりとシートへと近づいていく。
「巡査部長、お疲れ様です」
シートの近くにいた、線の細い体つきの刑事が声をかけてきた。後輩の西尾である。
「昨夜はゆっくり寝られました?」
「たちの悪い目覚まし連絡が無ければ、そう言えたけどな」
西尾は苦笑いをしつつ、「でも」と切り返した。
「昨日は早めに帰れて、良かったですね。ここんところ、毎日午前様でしたし」
「ああ。久しぶりに彼女とも会えたよ」
「え。巡査部長、彼女できたんすか」
「ちょっとばかし会うのに金はかかるんだけどさ」
「なあんだ。いつものガールズバーですか」
西尾は肩をすくめる。「先輩もう三十路でしょ。結婚とか考えた方が良いと思いますけど」
「うるさい、うるさい」
両手を耳に当て舌打ちをする。こいつは歳下のくせに、たまに小姑みたくうるさい時がある。良いんだよ、俺はあの店で、お気に入りのユサちゃんと話ができれば。
「そんなことより、ほら。通るぞ」
「はいはい」
西尾は、入り口にあたる部分のシートのたるみを上げる。尚哉は腰をかがめて、シート内に入った。
被害者はシート内中央、体をくの字に曲げ、真横に倒れ込んでいた。服装はスーツ。手入れがされた革靴を履いており、背中側からの全身の風貌から、四十を過ぎているだろう。
被害者の近くには、黒のスーツを着た、痩せ型だが大柄の男がしゃがみ込んでいた。今年から捜一に配属された、橋本辰馬だ。
「橋本」
「あ、ども。お疲れ様です」
低い声。橋本は立ち上がり、尚哉の前に立った。尚哉より頭一つ分は背が高い。のっぺりとした顔。相変わらず、何を考えているのか判断できない。
「近くで見て良いか」
橋本はその大きな体を、横にずらす。尚哉は肯き、改めて近くから被害者を見た。
一見して、尚哉は外傷がどこにあるのかわからなかった。しかしその首から上を見て、彼が何故亡くなったのか、瞬時に理解した。
顔が無い。こめかみあたりから、顎下あたりまでざっくりと。断面は血が固まっているせいか赤黒く、ぼこぼことしていた。
少し戻しそうになるが、気合で堪える。咳払いで誤魔化しつつ、目を閉じて合掌した。
「奴だよ」目を開けて振り向くと、後ろに野本が立っていた。尚哉は何度か肯いて返した。野本はふうと空を仰ぐと、周りを高く囲んでいるマンションに目を向ける。
「発見者はここに住む親子だ。発見時刻は、午前七時三十分頃。旦那の出勤を見送った帰り、娘とこの公園で遊ぼうとした時に、母親が発見したらしい」
「それはまた…」
だいぶショッキングな光景である。
「七時半ですか。俺が呼ばれたのは八時過ぎだったんですが。少しラグがあったんですね」
「お前だけじゃない、警察への通報がそもそも遅かったんだ。母親が腰を抜かしちまったとかで、その場から動けなくなったんだと。連絡をくれたのは、通りがかった大学生だよ。通学時、泣き叫ぶ娘と座り込む母親、倒れ込んだ人間がいたら、何事かと思うだろ」
先程ここに着いた時に見た男女と少女。彼らは遺体の発見者だったということになる。
「それで。また、あいつですか。『顔剥ぎ』の」
「ああ。こんな殺し方をするイカれた野郎は早々いねえよ」
尚哉は被害者の遺体を一瞥すると、このS区で頻繁に出没している、通り魔のことを思い浮かべた。
S区警察署では、その通り魔は通称「顔剥ぎ」と呼ばれている。初めて出没したのは九月初旬の夜である。
路上に人が倒れている。通報は最初、救急隊に入った。通報者は帰宅途中のOLで、うつ伏せに倒れていた男のことを、酔っ払って昏倒しているものか何かと思ったらしい。
駆けつけた救急隊員が男を仰向けにしたところで、一同はぎょっとした。男には、顔が無かった。今、尚哉の目にしている被害者と同様で、顔面を強くやすりで削ったかのように、目と鼻が無い。口らしき穴からは、千切れた舌が飛び出ていた。
被害者の名前は佐伯三郎。S区内のマンションに住む、一人暮らしの六十代中年男性だった。妻はおらず、血縁は遠縁の親戚しか存在しない。無職で、日中は散歩とパチンコ。懇意な関係の知人もいない。怨恨の線はなさそうだ。
当初、捜査本部では、その異質な遺体の状態が注目された。
顔が鋸か何かで剥ぎ取られていたこと。それには何か、理由があるはずである。例えば被害者の顔面に、犯人を示す何かが残っていたのではないか。それとも単に、被害者の顔に似た誰かに対して、恨みがあったのではないか等。しかし、どれもいまいち判断に欠ける推論で、捜査は行き詰まっていた。
そんな時に、またも事件は起きる。現場は一人目の遺体が発見された場所から、徒歩十分程度。雑木林の中で見つかった。
九月下旬のことである。今度の被害者は女性だった。棚橋綾子。群馬県K町に住む還暦前の女性で、東京にやってきていた理由は不明である。
彼女も、顔面を切断された状態で見つかった。
被害者が立て続けに顔面を切断されていたことから、遺体の外傷理由は、怨恨や状況証拠の消去ではなく、「被害者の顔を取ることに意味があった」と捜査本部は決めつけた。
こういった猟奇的な殺人ともなると、犯人の心理としては、事件現場や遺体等に、何かしらのメッセージを遺していることがある。それは遺体の顔面を切断することがそうかもしれない。ただ、今回は経験則を結びつけることができるような代物ではなかった。
犯人は単に人の顔面の収集癖がある、異常思考の持ち主だと主張する者もいた。しかしそうなると、無差別的な犯行の線が濃厚になる。余計に犯人像が見えなくなった。
様々な意見が捜査本部では飛び交ったが、一番賛同を得たのは、犯人は二人いて、共謀しているのではないか…というものだった。綾子と一人目の被害者の佐伯は、一切の繋がりが無い。また、太刀筋から、二人の顔面を切断した凶器が異なることが、鑑識の結果から分かったからだ。
ただ、たとえそれが真実だとしても、犯人達が誰なのかも、どこでどうつながったのかも、「顔面を切断する」理由も。何もかも分からないままだった。
そうして犯人の尻尾を掴めないまま、今に至る。三人目の被害者が出た、今に。
「身元は分かったんですか。あと、どうしてこんなところで?」
尚哉が質問すると、野本は「おい」と橋本に顎を向ける。橋本は慌てて手帳を開いた。
「ええと。まだらしいです。なにぶん、個人を特定するだけの何かしらを持っていなかったもんで。あ、男性ってことはわかってます」
「それは、見ればわかるよ」
「はあ、そうですよね」
「…でも、今回も同じさ」
同じ。野本の言葉に、尚哉も心内に同意した。推察にはなるが、身元が判明しても前の被害者二人とは何も接点は無いに違いない。
その後の橋本の話によると、ざっくりとした死亡推定時刻は、昨日の昼過ぎだという。
「ということは、被害者の遺体は半日以上ここにあったと?」
橋本は首を横に振る。「マンションの住人達の聞き込みで、午後九時ぐらいまで、被害者を見た人がいなかったことは分かっています」
「昼は分かるけど、日が暮れたあとはどうだったんだ?暗くなってきていて、気がつかなかったとか」
「上を見ろ。街灯があるだろ」
「ああ…」
野本の指差す方向、上方へと顔を向けると、ゴルフクラブのような形をした街灯が首を垂れていた。今はもちろん明かりは点いていない。しかし古くも無いし、割れてる等の故障も無さそうだ。夜には明るく光が灯るだろう。
「そうなると、つまり」
「被害者は別の場所で殺害されて、その後ここに移されたことになる。これも、これまでと同じだな」
一人目と二人目の被害者達も、別の場所で殺害された後に、現場へと運ばれた形跡があった。犯人には、安心して人を殺し、顔を切断できる場所があるのだろうか。
尚哉は被害者の遺体をまじまじと見た。真っ赤な荒野と化した顔面。初見時よりも、気分は悪くならない。捜査一課に配属され、二年にもなる。ベテラン刑事の野本には及ばないが、凄惨な事件には数件出くわした。少しは慣れも出てくる。無論、こんなことに慣れたくはないのだが。
遺体はマンションの庭園内、ベンチの前で倒れている。顔の周辺の地面のコンクリートには、血がついていない。他の場所で殺害されたと結論づける理由だった。
「午後九時過ぎまで遺体が無かったとすれば、犯人がここに遺体を運んだのは、それ以降ですよね」
「そうなるな。ただ、発見される今朝方まで、ここを通った者はいない。いつ、遺体が置かれたのかは不明だ」
「なるほど。大の大人となると、背負ったり、自転車に乗せたりなんてできないですよね」
「十中八九車が使われたんだろうよ」
「目撃者とかいなかったんでしょうか」
野本は後頭部をぼりぼりと掻く。
「余程犯人の運が良いのか、ここの連中が無関心なのか、誰も見てないってさ」
「そうですか…」
「ちなみに、物盗りの線も薄いぞ。ガイシャの財布の中の万札もそのままだし、そこのほら、高級そうな腕時計も、履いているピカピカの靴もそのまま。…顔を奪ったっていえば物盗りだとも言えるがな」
「でも、被害者の身元につながるクレカや免許証とかは無いんですよね」
「これまでもそうだったが、犯人はすぐに被害者の身元を特定されることを嫌っている節があるな」
金品はそのまま。尚哉は遺体の手首に目を向けた。確かに、腕時計の知識に疎い彼であっても、その羅針盤に刻まれたブランド名は聞いたことがある程に有名だった。
しかし尚哉の目に留まったのは、それでは無かった。彼の手の甲、刺青のように大きな赤いあざがある。そのあざはうねうねと、波打つ海藻の様。尚哉は顔を近づける。
「どうした?」
「いや…」
尚哉は手の甲を注視する。そうしてしゃがみ込んだ後は、遺体のスーツを捲り腕を見た。そうして、大きく目を見開いた。まさか。
「おい芳川、どうしたんだよ」
尚哉は自身の動悸が徐々に激しくなるのを感じた。恐らく、いや、間違いでは無い。
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