10 / 68
第二章 真琴の寝室
二
しおりを挟む
日記を見つけた後、若月は改めて、勝治と雛子の寝室の探索にあたった。しかしそれ以外に目ぼしいものは見当たらなかった。
午後八時三十分を迎えるところである。探偵からの報告書には、使用人の清河の勤務が十時までとあった。その時間までここにいたいが、真琴や雛子が予定よりも早く帰宅する可能性もある。
若月は場所の移動を試みることにした。目的地は、一階にあるという書斎だ。勝治が公私共に使用しているそうで、もしかしたら、有紗の手がかりがあるかもしれない。
若月は耳を、廊下に続く扉へと、直につけた。何も聞こえない。少なくとも、今の今は二階の廊下には、誰もいないようである。若月はドアノブを捻り、ゆっくりと扉を開けた。
探偵の報告書には、藍田家の平面図も入っていた。それは、次のとおりである。
一階中央南にあるエントランス。その真北、建物中央に位置する階段。階段向かって左側には応接間とリビング、書斎がある。階段向かって右側には食堂や洗面所、浴場があり、階段を挟んで左まっすぐの廊下を進むと右手側、階段下の倉庫、トイレと続き、突き当たりに使用人室が存在する。
階段の折り返した先を登ると、左右に伸びる廊下が姿を現す。二階には部屋が五つあるようだ。階段を背にして、右手側には瑛子の部屋と、一番奥に使われていない空き部屋が一つ。左手側に行けば、志織の部屋、真琴の部屋、若月が出てきたばかりの勝治と雛子の部屋が、それぞれ位置していた。
廊下には、ベルベット調で赤色のカーペットが敷かれていた。この時間が故に、光源は壁に等間隔で並んでいる、ランプの仄かな明かりのみ。この薄暗さは、若月にとって都合がよかった。
とはいえ一本道な分、室内に人がいるなら気配で、気付かれるかもしれない。やや緊張しつつも、ゆっくりと廊下を歩いていく。己の出す微かな足音以外、物音はしない。
真琴の部屋を通り過ぎ、志織の部屋の前を通ろうとしたところで、若月は思わず足を止めた。志織の部屋の扉が、ほんの少し開いていた。中から、光が漏れ出している。
あの程度の隙間なら、素早く通ればバレずに済むだろうか。若月は一度深呼吸をして、緩慢な動作で動く。そうして扉の前までやってきたところで、室内から声が聴こえてきた。
「今日もお疲れ様」
「ありがとうございます」
「仕事には慣れた?無理させちゃうね」
「いえいえ、志織様のためですから」
耳をすます。声は二人分。男と女、一人ずつ。急がなければならないのは百も承知だった。しかしその会話の内容への興味は、若月の足を前に進ませなかった。
「様はつけないでって言ったでしょ」
「そう?それもまた良いかなって思ったんだけど」
艶かしい女の声と、先程も聞いた声。現社長夫人の志織と、使用人の遠藤だ。
「いいから、だめ。二人の時は呼び捨てで呼んで」
「はいはいわかった。志織ね、志織」
「何よ、その言い方。まったくもう」
思わず目の玉が落ちそうになった。まさかこの二人は。
「今日はもう少し、一緒にいられるの?」
「うん。清河さんに見つかったらやばいんだけど。一応俺、退勤したことになってるから」
「大丈夫よ。あの人、この時間はいつも一階にずっといるわ。あなたとの折角の時間を邪魔されちゃ、たまったもんじゃないし」
「ふうん。で、そっちは?旦那、今日も遅いのか」
「ええ。いつもの、会食かしら。偉い方々参加の、肩が凝りそうなやつ」
「ご苦労なこった」
「ほんとにね」
不倫。本人達に聞かずとも、彼らの関係は理解できた。
社長夫人が、まさかの使用人と?会話から察するに、遠藤は退勤した後に、志織との密会のために戻ってきたということになる。まさに休日の昼ドラのような展開。ありそうで無いだろうそんな状況に、自然と好奇心が沸き立った。
「彼といると息が詰まるの。だから、いない方がマシ」
「酷い言い草だな。自分の旦那だろう」
「分かってるくせに」
遠藤の笑い声が聞こえてくる。
「なによ」
「二ヶ月前とえらい違いだなって。『夫は簡単に裏切れない』なんて、言ってたのに」
「女心は移ろい変わるものよ」
「ふーん。ま、いいけど」
いつのまにか、若月は会話に聴き入っていた。
「でも分かるよ。あの人、少しとっつきにくいんだよな。冗談も通じないし。勝治さんもそうだけど、堅物だよ。打ち解けられるのはいつになるのなら」
「結婚して三年経っても慣れない私がいるのよ。それ以上の遠い将来かも」
「生きてる間にお願いしたいね」
それなら何故、志織は真琴と結婚したのかとも思ったが、真琴は藍田製薬の現当主であり、彼女は芳川薬品の社長令嬢。両会社は、三年前に業務提携を結んだ。つまり客観的に見れば、政略結婚である。両会社の存続・発展のために、必要な処理であり、そこに本人達の意思は不要である。結婚という人生の転機でさえ、会社に左右される。若月には理解ができなかった。
「ただ、それだけじゃないの。あたしが、あの人のことを避ける理由」
「他にもあるのか」
「あの人の部屋の中って、見たことある?」
「いや。未だに無いな。あの人、部屋の扉に鍵をかけるし。清掃も飲食の提供も、勝治さん達の部屋は清河さんの担当になってるし」
「そう」
「何かあんの?」
「わざわざ言うほどじゃないんだけど。でも…」
「でも?」
「なんていうの。最近彼の部屋に入ると、誰かに見られている気がするのよね」
「見られている?」
「もちろん、彼以外誰もいないのよ。でも、気持ち悪いくらい、全身に感じるの。視線というか、なんというか」
「それ、旦那に直接聞いてみた?」
「聞いたわ。でも彼、首を傾げて言うのよ、別に何も?って。表情も変えずにそう言うの。なんだか、怖くって。だから、少し前から夫婦別室にしてもらったの。あの人とあの部屋で寝るなんて、とてもじゃないけどできなくって」
「ふうん、視線ねえ」
「…ねえ。後で一緒に確認してもらえないかしら」
「そうだな。面白そうだ。うん、良いよ」
真琴の部屋で感じる視線。一体、なんだろうか。扉の外で、若月も首を傾げる。しかしそこで、盗み聞きはそれまでとなった。
微かだが、足音が聞こえてきた。心臓が飛び出そうになる。音は目の前、数メートルの距離にある、階段から聞こえてきているようだった。
誰かが登ってくる。使用人の清河か。この時間でもやって来るじゃないか!と心の中で志織に悪態をつくも、それどころではない。早く、早くどこかしらに隠れなければ。
今若月は、志織の部屋の前にいる。目の前の部屋の中には、志織と遠藤がいる。清河は前からやってくる。隠れるのは志織の部屋からこちら側…勝治か真琴の部屋となるが、隣の真琴の部屋まで行こうにも時間がない。勝治と雛子の部屋は、尚更そうだ。
頭の中が混乱し、打開策が浮かばない。このまま見つかれば、おしまいだ。有紗の手がかりを見つけられないまま。
足音は次第に大きくなってきていた。音の主が階段の折り返しを超えたようだ。あと数秒で、この廊下にたどり着くだろう。
——いちかばちか。若月は目を瞑り、息を吐いた。
午後八時三十分を迎えるところである。探偵からの報告書には、使用人の清河の勤務が十時までとあった。その時間までここにいたいが、真琴や雛子が予定よりも早く帰宅する可能性もある。
若月は場所の移動を試みることにした。目的地は、一階にあるという書斎だ。勝治が公私共に使用しているそうで、もしかしたら、有紗の手がかりがあるかもしれない。
若月は耳を、廊下に続く扉へと、直につけた。何も聞こえない。少なくとも、今の今は二階の廊下には、誰もいないようである。若月はドアノブを捻り、ゆっくりと扉を開けた。
探偵の報告書には、藍田家の平面図も入っていた。それは、次のとおりである。
一階中央南にあるエントランス。その真北、建物中央に位置する階段。階段向かって左側には応接間とリビング、書斎がある。階段向かって右側には食堂や洗面所、浴場があり、階段を挟んで左まっすぐの廊下を進むと右手側、階段下の倉庫、トイレと続き、突き当たりに使用人室が存在する。
階段の折り返した先を登ると、左右に伸びる廊下が姿を現す。二階には部屋が五つあるようだ。階段を背にして、右手側には瑛子の部屋と、一番奥に使われていない空き部屋が一つ。左手側に行けば、志織の部屋、真琴の部屋、若月が出てきたばかりの勝治と雛子の部屋が、それぞれ位置していた。
廊下には、ベルベット調で赤色のカーペットが敷かれていた。この時間が故に、光源は壁に等間隔で並んでいる、ランプの仄かな明かりのみ。この薄暗さは、若月にとって都合がよかった。
とはいえ一本道な分、室内に人がいるなら気配で、気付かれるかもしれない。やや緊張しつつも、ゆっくりと廊下を歩いていく。己の出す微かな足音以外、物音はしない。
真琴の部屋を通り過ぎ、志織の部屋の前を通ろうとしたところで、若月は思わず足を止めた。志織の部屋の扉が、ほんの少し開いていた。中から、光が漏れ出している。
あの程度の隙間なら、素早く通ればバレずに済むだろうか。若月は一度深呼吸をして、緩慢な動作で動く。そうして扉の前までやってきたところで、室内から声が聴こえてきた。
「今日もお疲れ様」
「ありがとうございます」
「仕事には慣れた?無理させちゃうね」
「いえいえ、志織様のためですから」
耳をすます。声は二人分。男と女、一人ずつ。急がなければならないのは百も承知だった。しかしその会話の内容への興味は、若月の足を前に進ませなかった。
「様はつけないでって言ったでしょ」
「そう?それもまた良いかなって思ったんだけど」
艶かしい女の声と、先程も聞いた声。現社長夫人の志織と、使用人の遠藤だ。
「いいから、だめ。二人の時は呼び捨てで呼んで」
「はいはいわかった。志織ね、志織」
「何よ、その言い方。まったくもう」
思わず目の玉が落ちそうになった。まさかこの二人は。
「今日はもう少し、一緒にいられるの?」
「うん。清河さんに見つかったらやばいんだけど。一応俺、退勤したことになってるから」
「大丈夫よ。あの人、この時間はいつも一階にずっといるわ。あなたとの折角の時間を邪魔されちゃ、たまったもんじゃないし」
「ふうん。で、そっちは?旦那、今日も遅いのか」
「ええ。いつもの、会食かしら。偉い方々参加の、肩が凝りそうなやつ」
「ご苦労なこった」
「ほんとにね」
不倫。本人達に聞かずとも、彼らの関係は理解できた。
社長夫人が、まさかの使用人と?会話から察するに、遠藤は退勤した後に、志織との密会のために戻ってきたということになる。まさに休日の昼ドラのような展開。ありそうで無いだろうそんな状況に、自然と好奇心が沸き立った。
「彼といると息が詰まるの。だから、いない方がマシ」
「酷い言い草だな。自分の旦那だろう」
「分かってるくせに」
遠藤の笑い声が聞こえてくる。
「なによ」
「二ヶ月前とえらい違いだなって。『夫は簡単に裏切れない』なんて、言ってたのに」
「女心は移ろい変わるものよ」
「ふーん。ま、いいけど」
いつのまにか、若月は会話に聴き入っていた。
「でも分かるよ。あの人、少しとっつきにくいんだよな。冗談も通じないし。勝治さんもそうだけど、堅物だよ。打ち解けられるのはいつになるのなら」
「結婚して三年経っても慣れない私がいるのよ。それ以上の遠い将来かも」
「生きてる間にお願いしたいね」
それなら何故、志織は真琴と結婚したのかとも思ったが、真琴は藍田製薬の現当主であり、彼女は芳川薬品の社長令嬢。両会社は、三年前に業務提携を結んだ。つまり客観的に見れば、政略結婚である。両会社の存続・発展のために、必要な処理であり、そこに本人達の意思は不要である。結婚という人生の転機でさえ、会社に左右される。若月には理解ができなかった。
「ただ、それだけじゃないの。あたしが、あの人のことを避ける理由」
「他にもあるのか」
「あの人の部屋の中って、見たことある?」
「いや。未だに無いな。あの人、部屋の扉に鍵をかけるし。清掃も飲食の提供も、勝治さん達の部屋は清河さんの担当になってるし」
「そう」
「何かあんの?」
「わざわざ言うほどじゃないんだけど。でも…」
「でも?」
「なんていうの。最近彼の部屋に入ると、誰かに見られている気がするのよね」
「見られている?」
「もちろん、彼以外誰もいないのよ。でも、気持ち悪いくらい、全身に感じるの。視線というか、なんというか」
「それ、旦那に直接聞いてみた?」
「聞いたわ。でも彼、首を傾げて言うのよ、別に何も?って。表情も変えずにそう言うの。なんだか、怖くって。だから、少し前から夫婦別室にしてもらったの。あの人とあの部屋で寝るなんて、とてもじゃないけどできなくって」
「ふうん、視線ねえ」
「…ねえ。後で一緒に確認してもらえないかしら」
「そうだな。面白そうだ。うん、良いよ」
真琴の部屋で感じる視線。一体、なんだろうか。扉の外で、若月も首を傾げる。しかしそこで、盗み聞きはそれまでとなった。
微かだが、足音が聞こえてきた。心臓が飛び出そうになる。音は目の前、数メートルの距離にある、階段から聞こえてきているようだった。
誰かが登ってくる。使用人の清河か。この時間でもやって来るじゃないか!と心の中で志織に悪態をつくも、それどころではない。早く、早くどこかしらに隠れなければ。
今若月は、志織の部屋の前にいる。目の前の部屋の中には、志織と遠藤がいる。清河は前からやってくる。隠れるのは志織の部屋からこちら側…勝治か真琴の部屋となるが、隣の真琴の部屋まで行こうにも時間がない。勝治と雛子の部屋は、尚更そうだ。
頭の中が混乱し、打開策が浮かばない。このまま見つかれば、おしまいだ。有紗の手がかりを見つけられないまま。
足音は次第に大きくなってきていた。音の主が階段の折り返しを超えたようだ。あと数秒で、この廊下にたどり着くだろう。
——いちかばちか。若月は目を瞑り、息を吐いた。
0
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】結婚式の隣の席
山田森湖
恋愛
親友の結婚式、隣の席に座ったのは——かつて同じ人を想っていた男性だった。
ふとした共感から始まった、ふたりの一夜とその先の関係。
「幸せになってやろう」
過去の想いを超えて、新たな恋に踏み出すラブストーリー。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる