侵入者 誰が彼らを殺したのか?

夜暇

文字の大きさ
11 / 68
第二章 真琴の寝室

しおりを挟む
「ああ。志織様」
 二階に上がるや否や、清河は志織と出くわした。彼女は自分の部屋から出てきたところだった。
「あら、清河さんだったのね」
「はっ?」
「それで、どうしたの」長い栗色の髪をかき分け、志織は笑顔で清河に問う。ああ、いやと清河は気を取り直すために、軽く咳払いをした。
「戸締りのチェックをと。本日のお仕事も終わりますので」
「もうそんな時間なのね。ありがとう、最後まで精が出るわね。でも、今日は二階は良いわよ、私が見ておくから」
「そんな、志織様のお手を煩わせるなんて」
「良いのよ。全部おまかせしている分、それくらいはやらせて。じゃないと、何もできない人間になっちゃうもの」
 にこやかに笑みを浮かべる志織に、清河も笑顔を作り返した。
「とにかく」志織は開かれた扉、室内側のノブに手をかけた。「一階だけをお願い」
「かしこまりました」
「その後は、帰って結構よ。あ、特に声をかけてもらわなくても構わないわ。お疲れ様」
 清河は機械的に頭を下げた。彼の様子に満足したのか、志織は自分の部屋の中に引っ込んだ。扉が、今度はしっかりと閉まる。
 清河は一人、誰もいない廊下に取り残された。溜息をつく。
 清河は志織のことが、どうも好きになれなかった。今は驚く程、性格は軟化したが、それでも結婚前の横柄な態度の彼女の様子を思い返すと、今でも顔が強張ってしまう。
 真琴が彼女と再婚したのは、三年も前になる。
 真琴の前妻、藍田冬子。彼女は三年半前に亡くなった。当時の真琴の塞ぎ込み様は、尋常じゃなかった。が、その数ヶ月後には、志織との関係が噂されるようになった。彼の心変わりの様は、ポーカーフェイスの清河でも内心驚いたものである。
 ——真琴様、政略結婚なさるんですって。
 志織の旧姓は芳川。同業他社である芳川薬品の社長令嬢である。四年程前から、藍田製薬は業績悪化の一途を辿っていたが、その際手助けのため、勝治と真琴に業務提携の話を持ちかけたのが、彼女の父芳川薬品代表取締役の芳川貴明である。
 業務提携の条件は、真琴と志織の結婚だった。
 この結婚は、芳川薬品にとっても都合が良かった。藍田製薬若社長の妻に娘を充てることで、トップシェアの藍田製薬と並ぶことができる。誰がどう見ても、両会社にとって旨みのある話。使用人達が下世話に噂話を交わし合うことも、仕方ないとも思えた。
 今では社長夫人として、彼女はその地位を確立するに至っている。容姿も艶美、冬子よりも社交的な性格であることも、俗に言えば周りのウケが良かったのだ。
 …しかし清河は、未だに彼女を信用できないでいた。それはもしかすると、自分だけが彼女の本性を知っていたからかもしれない。
 それを知ったのは、真琴と志織の結婚式を終えた数日後のこと。日課の職務を終えた、まさに今と同じ時間帯だったか。清河は、二階の廊下でばったりと、瑛子に出くわした。
 瑛子は泣いていた。長い清らかな黒髪に、整った白い顔。亡き冬子の姿に面影が似てきたなと思いつつ、己の脚にぶつかってきた彼女を清河は支える。彼の姿を見ると、ハッと涙を腕で擦り拭き、明らかな作り笑顔を向けた。
「お嬢様、どうされました」
「な、なんでも、ないの。おやすみ清河さん」
 瑛子は強く首を横に振る。会話はそれだけだった。彼女は清河の脇を抜けると、そのまま自分の部屋に俊敏な動きで入っていった。
 数秒の間、清河はその場で放心する。そうしてから、瑛子が向かってきた方向へと顔を向けた。そこで彼は体が硬直した。扉が開いていた。開いた扉の隙間に、志織の姿が見えた。暗い室内、無表情に清河を見ていた。
「こんばんは、清河さん」
「え。あ。は、はい。こんばんは」
 思わず返事に少し戸惑った覚えがある。志織はその場所から動かない。異質な雰囲気に気圧されつつも、気を取り直し、清河は彼女に尋ねる。
「志織様。お嬢様は…」
「さっきまでここに居たわよ。もう寝る時間だって、飛び出して行っちゃったわ」
「…泣かれていたような」
「あれね。新しくお母さんができて、思わず感極まっちゃったみたいなの。泣く程嬉しかったのかしら」
「嬉し涙、ですか」あれが嬉し涙ではないことは、清河も容易に推測できた。しかしその場で反論はしなかった。というよりも、清河はできなかった。目の前の志織の声色、所作の不穏さから、それをすることが憚られたのである。
「前の母親のことは忘れなさい。私、あの子にそう言ったの」
「えっ…」
 唖然とする清河。暗闇の隙間で、志織は手を口に当てて妖しく笑う。「ほら。冬子さんって、なんか暗くて人見知り気質だったじゃない。私、ここ数日で分かったわ。やっぱり人は明るく、社交的に生きないと駄目よ、駄目。とにかく私、そんな…しかも死んだ人と、比べられたくないの。私は彼女と違うもの」
 当然至極の如くそう述べる志織に、清河は何も言えなかった。
「とにかく、ね。藍田志織として、これからもっと頑張らないといけないから。清河さんも私のこと、応援してね」

 あの、不気味な志織の微笑み。思い出すだけで、清河は未だに鳥肌が立つのだった。
 あの日、あの時、志織の部屋で。継母に「昔の母親のことは忘れろ」と言われた瑛子の心境は、どういったものだったのか。当の本人に聞くことは流石に憚られた。
 しかしそれから、彼女達の関係には明らかな変化があった。瑛子は志織だけではなく、家族とも、使用人達とも会話をしなくなり、余計に部屋で引き篭るようになった。食事の時間も一人で、使用人の塩原芳美に持って来させる始末。雛子は立腹していたが、志織は反抗期よと笑い、良しとしていた。まるで、互いに顔を合わせたくないかのようにも思えた。
 それまでの瑛子は、よく喋る子だった。また、良い意味で庶民らしいところがあった。出生地は藍田家を離れた遠方の地、当時の真琴と冬子の社会的立ち位置は、清河と何ら変わらないが故に、だろうか。学校の授業で何を教わったとか、友人達とのこんな会話をしたとか、清河ら使用人に対して、楽しげに話していたものだ。
 ただ、彼女はよく自分の身を憂う発言をした。
「ふと思うんだ。私、この家にとって、要らない存在なんだって」
「何を、仰いますか」
 真琴と冬子が共に藍田家にやってきて、半年が経とうとした頃のこと。思えば、瑛子が消極的な言い方をし始めたのも、その頃からだった。
 瑛子は教育係の祖母の雛子から厳しい教育をされていた。ダンスにピアノ、家庭教師に料理。学校以外の彼女の日常は、それらに全てが消えた。
 しかし彼女はまだ、幼い。少しくらいのわがままは言いたい年頃である。大人の言いぶりを、全てを受け入れるだけの余裕が、彼女にある訳では無いのだ。
「あなたは藍田家の長女よ。いつかあなたを娶る方のために、教養は絶対に必要なの。他の子と同じような生活を求めるのはやめなさい」
 辛い、苦しいと訴える瑛子の頬を引っ叩いた雛子は、ぴしゃりとそう告げた。雛子の甘えを許さない性格に、瑛子は対抗するだけのすべを持ち得ていなかった。
「女は清楚でおしとやか、教養があって、男の子を喜ばせられる。そんなものにあたしはなれないし、これっぽっちもなりたくない」
 清河が口を挟む間もなく、瑛子は「私、普通になりたい」と呟いた。
「普通、とは?」
「えっと。こんな、家もこんなおっきなものじゃなくて、一戸建てでよくって。あ、小さくてもいいから庭も欲しいかも。犬小屋で芝犬なんて飼ってさ。マメ、なんて名付けちゃったりして。毎朝、学校に行く前の散歩が私の日課なの!」
「それはまた、楽しい日常でございますな」
「でしょ?清河さんもそう思うよね!」
 目をキラキラさせ、子どもながらに嫌味無く自らの夢を語る瑛子。それが叶わないと知る清河からみると、彼女の表情がどことなく物悲しげにも見えた。
「いつか、叶うと思うの。ほら、『にんたいはびとく』って、ことわざがあるんでしょ。この前学校の授業で先生が言ってたんだけど」
 今は我慢の時で、耐えて耐えて、耐え忍ぶ必要がある。彼女はそう言って笑顔を見せた。
 事実その言葉のとおりで、瑛子は気丈な性格をしていた。祖母から厳しくされようとも、三年と半年前に実母の死と直面しても、彼女が涙を見せることは無かった。
 しかし清河は見た。瑛子が自分の部屋で一人、泣いていたことを。藍田家の長女として、決して他人の前で涙を見せない。藍田家の長女として、情けない姿は見せられない。そういうことなのだろうか。小学生の身であっても、彼女は大人顔負けの気丈さがあった。
 使用人として、この館の主人は勝治であり、息子の真琴である。したがって、清河はその妻である雛子や志織にも従わなければならない。しかし仕事は仕事、己の感情とは別の話である。清河個人としては、この健気な少女に、幸せになってもらいたいものだった。
(…さて)
 ふっ、と息を吐くと、清河は体を反転させた。一応、雇い主からの命令である。ひとまずは志織の言うとおり、一階に戻ろう。清河は二階廊下の電気だけを消し、そのまま今登ってきたばかりの階段を降りはじめた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】結婚式の隣の席

山田森湖
恋愛
親友の結婚式、隣の席に座ったのは——かつて同じ人を想っていた男性だった。 ふとした共感から始まった、ふたりの一夜とその先の関係。 「幸せになってやろう」 過去の想いを超えて、新たな恋に踏み出すラブストーリー。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

25年目の真実

yuzu
ミステリー
結婚して25年。娘1人、夫婦2人の3人家族で幸せ……の筈だった。 明かされた真実に戸惑いながらも、愛を取り戻す夫婦の話。

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

処理中です...