侵入者 誰が彼らを殺したのか?

夜暇

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第三章 隠し部屋

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 志織の部屋で雛子の手紙を手にした芳美は、一階へと戻った。
最近の勤務形態は、基本的に二人体制だった。ただ、今は三人しか、正規雇用はされていない。アルバイトも不定期なため、日によっては一人の場合もあり得た。
 芳美は今日、遠藤と一緒だった。リビングに入ると、奥の窓が全開になっていた。彼の姿は無い。
「遠藤君?」
「あ、お疲れ様です」少し慌てた様子の低い声の後、遠藤はひょこりと、奥の窓の枠内に姿を現した。庭に出ていたようだ。
「お疲れ様。二階の各寝室の掃除は終えたわ。お昼はとった?」
「いえ、まだです。とりあえずこれが終わってから、と思っていました」
 手にはT字型のワイパー。使用人室や浴室の窓を拭いていたのだろう。
「ふうん。それなら、先にとってしまっていいかしら」
「構いませんよ。まだ少しかかりそうなので」
 遠藤は全開になったリビングの窓を、人差し指の甲でコンコンと叩く。そんなに開け放っては窓を拭けないのではないか。変に思いつつも悪いわねと一言述べた後、リビングを出ようとしたところで、芳美は部屋の中、微かに煙草の臭いがすることに気がついた。芳美の知る限りでは、藍田家の住人の中に喫煙者はいない。
「遠藤君あなた、ここで煙草を吸ったの?」
 どきり。そんな擬音が聞こえたような気がした。遠藤はそれまで浮かべていた笑みの端を微妙に崩しながら、乾いた笑い声を上げた。
「はは。えっと、何を…」
「隠しても駄目よ。この部屋、臭うもの」
 その言葉に観念したようで、遠藤は後頭部をかりかりと掻く。
「すみません。一本だけと、つい。でも、窓は開けていますし、ばれないと思いますよ」
「ばれる、ばれないの問題じゃないの。それに、私にばれているじゃない」
「いやあ、それは。はは」
「あのねえ、遠藤君」へらへらする彼に苛立ちつつも、できる限り、自身の感情を抑えつつ、「ここ、あなたの家じゃないのよ。住んでる方々に住みやすい環境を担保するのが、私達の仕事なの。もし遠藤君が非喫煙者で、家の中が煙草臭かったらどう思う?」
「それは、まあ。嫌になりますけど」
「そうよね。分かるわよね。それが分かれば、ここで煙草は吸わないわよね。屋敷内でも、お庭でもそう。吸いたいなら帰った後に、自宅でやりなさい」
 遠藤は頭を下げ、謝罪する。が、平坦な口調。本意で謝ってきていないのだろう。 
 芳美は彼のそういうところが嫌いだった。しかし近頃は雇ってもすぐに辞めてしまう使用人ばかり。猫の手でも借りたい程なのだ。少しは許容しなければ。
 遠藤は先月から雇われている。志織の紹介だった。彼は志織が通っていた大学の同級生だとかで、街中で久しぶりに再会し、意気投合したのだという。
 初めて会った時、いや今でもそうだが、遠藤はちゃらちゃらした、今風の男だった。志織の話を聞くと、数ヶ月前勤めていた会社をリストラされ、路頭に迷っていたそうだ。志織の言い分では仕事ができる男だというが、これまでにその片鱗を見たことはない。庭掃除を頼めば死角で一服するし、一日の業務日誌は忘れがち。不真面目な彼と、真面目過ぎる清河とを足し上げ、二で割ればちょうど良いと、いつも芳美は皮肉に感じていた。
 …まあ、良い。怒るのは性に合っていないし、好きでもない。下の者に指導するのは、清河の方が上手いから、彼に任せればそれで良い。適材適所。遠藤をきちんと注意できたという結果だけで、自分自身の評価は花丸だった。
 そんなことよりも、今は外出する必要がある。手元にある雛子の手紙をコピーしておきたい。写真を撮りたかったが、今日に限ってスマートフォンを自宅に忘れてきてしまった。
 手紙が無いことを志織が気づけば、彼女の寝室の清掃担当の自分が疑われるのは明白だった。そのため、早くこれを戻しておく必要がある。
「じゃあ出てくるわね。その間はお願い」
「わかりました。…あ」
 芳美が遠藤に背を向けてすぐに、彼女は遠藤に呼び止められた。振り返る。
「どうしたの?」
遠藤は変わらず、庭にいる。芳美から見て右方に視線を残したまま、気の抜けた口調で次のように尋ねた。
「今日は外で食べるんですか?」
 その言葉にどきっとした。芳美は普段、勝治や志織らのために作った昼食の残りを食べる。それは遠藤も知っていた。
「え、ええ、たまには。気分転換にね」
「はあ、そうですか」彼から聞いた割に、素っ気ない返事。少しムッとするも、気にせずリビングを出ようとしたところで、「そうだ」と声を上げた。
「聞いておきたいことが、ありまして」
「まだ何かあるの?」
「はい。えっと、そうだ。見ましたか」
 何を、と聞き返す前に、遠藤は言葉を続けた。「志織様の机なんですが」
「机?机が何?」
「えっ?」
「え」
「わかりません?」
 一体彼は何のことを話しているんだろう。
「若奥様のオーダーはベッドだけ、だったわ」
「じゃあ、机は見ていないんですよね」
「ええ。でも、流石に視界には入ったわよ。ただ、机の上には何も」
「机の上?」遠藤は眉間に皺を寄せる。「あの。机の上なんて、言ってませんけど」
 芳美は心臓がきゅうっと締め付けられたように感じた。
「見ていないんですよね?」
 三度尋ねてくる遠藤の視線に耐えきれず、芳美は意識的に視線を少しずらす。
「ほら、若奥様の机の引き出しとか何やら、いじくる訳にはいかないでしょう。そうなると、机の上に、何かが置いてあったのかなって。そう思ったの。それだけじゃないの」
「へえ。それじゃあ、本当に見ていないのですね」
 遠藤は同じ台詞を繰り返すばかり。普段なら一蹴して終わらせるのだが、今は違う。彼女には、後ろめたい事情がある。彼の言葉は、耳の鼓膜に染み渡り、響き、芳美の体を次第に硬直させた。
 芳美は確信していた。遠藤は知っている。志織の部屋で発見した手紙のことを。そしてそれは今、自分が持っていることを。そうでなければ、こうしておかしな質問を繰り返す意味が無い。
 二階で自分の行いを見ていたのだろうかと、芳美は走行列車みたく高鳴る心臓の鼓動を抑える意味もあり、左手で胸を抑える。無意識に、封筒が入ったズボンのポケットの上に右手を置く。布を介して、紙の感触が指に伝わる。彼には見えていない。そのはずだが、彼が全てを知っているようにも思え、心臓の鼓動が早くなる。
 バレなければ良いと思っていた。数十分前の自分の行いを、心の中で恥じる。
「わ、私は」上手く声が出ない。自分が盗みを働いたことは間違いないのである。このことを遠藤に暴露されたら。ここをクビになるだけではなく、下手すると私は刑務所行き?犯罪者?恐怖に緊張し、唾を飲み込む。
 ただ、推し量れないことは、遠藤の態度である。言及したいのであればすれば良いのに、あえて具体的に言わず、芳美の出方を待っているかのよう。
 もしや。光明が差したように思えた。遠藤は、自分が何かをしていたことは見ていたが、具体的に何をしていたのか、詳しく知らないのではないか。
 彼が自分の行動を知ったタイミングは、手紙にうつつを抜かしていた時に違いない。志織の部屋の扉と机は、一直線上に位置する。自分は部屋の扉に背を向けていた。——そうだ。そこからでは、手紙なんて見えなかったはず。だからこそおかしな質問をして、ぼろを出させようとしているに違いない。
 知らぬ存ぜぬを突き通した方が良い。芳美は心の中で意志を固めた。
「ああ。見ていないのなら、良いです」
 しかし、続く遠藤の突然の冷淡な口調と様子に、一人焦っていた芳美の思考は停止した。
「良い、って?」
「いや、そのままの意味で」
 芳美が呆けていると、遠藤は頭を掻いてすみませんと申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「変なことを、聞きました」
「あ、い、いえ。気にしていないわ」
 芳美は拙く、途切れ途切れになりつつ応える。彼女を一瞥した後、遠藤は室内にある掛け時計を見た。
「あと少しで、志織様も帰られるんでしょうか」
「…あ」
 芳美はハッとした。馬鹿だ。手紙を持ってきておいて、志織が戻る時間を、まるで考えていなかった。
 猶予はあと一時間も無い。近くのコンビニでコピーして、志織の部屋まで戻る…最低でも二十分程度は要するだろう。彼女の予定帰宅時間よりは早めに終わるが、予定よりも早く彼女が帰ってきたら。最悪の場合、部屋で鉢合わせも考えられる。
 清掃が長引いて、と誤魔化せるだろうか。いや、先程目の前の男に二階の掃除を終えた旨を話している。午後過ぎにまたも部屋にいるのはおかしい。
 駄目だ。これ以上危ない橋は渡ることはできない。今は諦めた方が良い。芳美はそこで遠藤との会話を切り上げ、リビングの扉を閉めた。
 足音を立てないよう、かつ早足で、屋敷内中央の階段前まで来た。正面玄関を一瞥し、芳美は足早に階段を登る。これまたできる限り、静かに。二階に到達した後は向かって左側、志織の寝室に目を向ける。
「え…」そこで芳美は、思わず目を見開いた。
志織の寝室の扉が開いている。清掃を終えた後に、きちんと閉めたはずなのに。一時間も経っていない記憶だ、間違い無い。
 唾を飲み込んだ。自分が立ち去った後に、誰かが扉を開けた?
 二つ隣の部屋の勝治とも思ったが、彼は今日は歩くこともできないくらいに体調が優れず、寝込んでいた。真琴と雛子、志織は外出している。となると、残るは瑛子のみ。しかし引きこもりの彼女が、わざわざ部屋から出てきたとは思えなかった。瑛子の寝室がある右方を見る。相変わらず、扉は固く閉ざされている。
 わなわなと震えつつ、志織の部屋の入口の横に張り付く。寒気がする。かといって、冷や汗も出る。ズボンのポケットの中身を意識した。これだけは、戻しておかなければ。
 入るしかない。しかし、誰かが中にいるかもしれない。もし強盗など、不届きな輩だとしたら。いや、志織がもう帰宅したという可能性もある。が、それはそれで、手紙が戻せなくなってしまう。
 口の中がカラカラになってきたところで、芳美は全身に無理やり力を入れ、入口付近の壁を、こんこんと手の甲で強く叩いてみた。牽制の意味もあった。しかし反応はない。
「し、志織様、いらっしゃいますか。清掃の漏れがありましたので、今一度お部屋に入らせていただきます」
 思い切って、声もかけてみた。数秒待っても返答はない。芳美はそろり、入り口から顔を覗かせた。
 一見しては、誰もいなかった。恐る恐る、室内に進む。クローゼットも開けて、中を確認する。誰も潜んではいない。しんと静まり返った空間。つい先程ここにいた時と、何ら変哲も無い。
 ほっとしたような、靄が晴れないような。ひとまずこれをと、芳美はズボンのポケットから封筒を取り出して、机の上に置いた。
 芳美は封筒をじっと見つめた。志織は、これを処分するつもりだったのだろうか。考えたら実父と義母の不貞の証拠、藍田家もそうだが、芳川家にとっても、大変都合の悪いものといえる。全く危機管理がなっていない。
 とにかく己の懸念は消失したと、芳美が安堵したところで、背後から物音が聞こえた。勢いよく振り向く。続く駆け足の音。酷く慌てた、ばたばたとばらつきのある足音。
 しまった、と思ったところで芳美は駆け出していた。志織の寝室を飛び出るも、既に誰の姿も無かった。今の足音は、階段をくだった先から聞こえてきている。階段に向かい、段差の手前で止まる。
 今のは遠藤だろうか。本人の姿は目に入らなかった。あの話の後、自分の後ろを密かについてきていたのかもしれない。
下方、踊り場への視線を向けた。もう、何も聞こえない。リビングの様子は、当然ながらここからでは確認できない。
遠藤でも、遠藤ではなかったとしても、誰でも関係ない。見られた…今の行為を。それが問題だった。
 こめかみから、汗が一筋垂れてきた。こんなことなら、手紙なんて見つけなければ良かった。使用人風情が下手な好奇心を沸かせるものでは無かった。後悔先に立たずとはいえども、起こってしまったことを変えることはできなかった。
 芳美は階段へと足を踏み出した。一段下に足をつける。取るべき手段は二つ。ひたすら誤魔化すか、素直に白状するか。嘆息した後で階段を降りようとした、まさにその時。後方からたったったっと、軽快な音が聞こえてきた。かと思えば、次の瞬間背中あたりに強い衝撃。芳美はバランスを崩す。両手をばたつかせて、体勢を整えようと踏ん張る。
 何が起きた。何か、いや誰かがぶつかってきた?考えようにも、体勢を保たねば落ちてしまう。必死で踏み止まろうと足に力を入れる。
 しかし無駄な抵抗だった。またもや、今度は腰のあたりに殴られたような衝撃が走り、芳美の体は宙へと舞った。ほんの一瞬、無重力の感覚。
 ——あの、ふわっとした感覚。二度と体験したくないわ。
 刹那、冬子の言葉が脳裏に浮かんだ。なるほどこれがそうかと思えば、階段を転げ落ちていく現実が彼女を襲う。全身が大きな木槌で強く打たれるような、激しい痛み。声も出ない。
 そんな彼女の視界に一瞬、人影が映った。二階、先程まで彼女が立っていた所。
 あれは。それが誰か、認識するまでもなく、下へ下へと落ちていく途中で、薄れゆく芳美の意識はぷつりと切れた。
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