5 / 73
第一章 旅は道連れ
3
しおりを挟む死にたいと思ったことは、これまでに何回もあった。夜寝た回数よりは少ないだろうが、自分の人生をやめたい、やり直したいと感じたことは、よくあったということだ。
でも試したことは一度もない。言うは易く、行うは難し。「死にたい」から「死のう」へ移る壁は中々の高さがあって、死んだ後に自分はどうなるのか、不明瞭なそれを考えると二の足を踏んでしまう。
そもそもそれを知る者は、この世にいないのである。死後の世界はこの世に生きる者たちの空想、偶像の産物なのだ。
それにもかかわらず、死ぬことは人生のリセットという言葉がある。一体誰が、言いだしたことなのだろうか。そもそも、そんな根拠はどこにも無いのである。なのに、絶望を嘆く中で空虚な希望を胸に抱きつつ、死を選ぶ者は一定数存在する。
俺もそのうちの一人だった。
「なんだこれは」
社員相談室に入るや否や、課長の師崎から開口一番、そう問われた。師崎の手には退職届と書かれた白封筒。無論、彼のものではない。
「見てのとおりです。私は…」
言葉が詰まる。この数日間、退社時、寝る時、風呂、どこでもイメトレをしていた。なのにいざ本番となると、すらすらと口にできない。
そんな俺を、師崎は無言で見つめる。そうしてから俺の退職届を机の上に置いて、「辻」と俺の名を口にする。彼は自分がかけている縁無し眼鏡を、少し上に上げた。
「間に合うのか」
「え…」
「納期。間に合うのか」
「えっ?」
思わず声が裏返った。師崎は眉間に皺を寄せる。
「お前がこの前報告してきた先方への納期、明後日までだろう」
「そ、そうです」
「だから。間に合うのか」
普段の仕事の口調。俺は言葉をうまく紡げなかった。
「…間に合うかと」
「前もそう言ったな。それで?結果?どうなった?」
「間に合いませんでした」
ふん、と師崎は鼻を鳴らす。
「こんなくだらないことを考えている暇あるのか」
師崎は机の上に置かれた俺の退職届を見る。
「今、なんて…」
汚物を見るかのように顔を歪ませた彼に、俺は二の句が告げなかった。
「お前は本当に、なってないよ。だいたい、新人の吉田の使い方も下手だ。あいつは世間知らずだが、その分体力も伸び代もある。人付き合いは上手いだろう」
「彼は仕事を、期日までにやってきたことなんて、一度もないんですよ」
「それをやるように仕向ける、そう教育するのが、グループリーダーのお前の役目だよ」机をバンッと叩いた彼は、苛々した口調で俺を睨め付けた。「部下を上手く扱えないのは、自分が無能だからだ。それを自覚しろ」
もはや単なる説教。俺の退職届の話なんてそっちのけ、無かったかのよう。更には謎に新入社員が褒められ、自分は貶されていく。勇気で膨らんでいた心の風船の栓が抜け、ひゅうううと萎んでいく感覚に、俺はとらわれた。
ここで幕と思ったのか、師崎は背伸びをした。
「ほら、もういいだろう」
「いや…もういいって」
「今はなんだ?」
「へっ?」
「今は、貴重な昼休憩時間だ。ほら、美沙ちゃん、杏奈ちゃんを待たせてんだよ」
どちらも四月からの新入社員で、二十代前半の女の子達だ。目の前の男は齢四十過ぎにも関わらず、若い女性社員を下の名前で呼ぶ。本人的には、自分はまだ若々しいと自負しているに違いない。
愕然とした。恐らく、若い子の前で褒められて、悦に浸りたいだけの時間。師崎からしてみれば、俺の退職相談よりも、その時間の方が大事なのだ。
課長は俺の退職届を無造作に掴むと、己の紺のジャケットの内ポケットに入れた。
「これは無かったことにしてやるよ。お前は目の前の仕事を、スマートに終わらせろ。以上」
有無を言わせぬ言い方。
俺は師崎がその場を去った後も、少しの間動けずにいた。昼休憩が終わるチャイムと共に、ふらふらとおぼつかない足取りでデスクに戻った。
それからの数時間、どう過ごしたのかは覚えていない。
気がつけば、自宅の最寄駅の改札をくぐっていた。
午後七時。駅前はまだ、人通りも多い。思えば、こんな時間に帰ってきたのはいつぶりだろう。くたびれた会社員、ふざけ合う学生、買い物帰りの主婦。
これが一、二時間も後になれば、駅前はタクシープールに止まるタクシー数台、自動販売機の白色光の寒々しく、物悲しい光。
世間はあいも変わらず、俺の苦しみ、虚しさのことなど差し置いて、平然と回っている。
仕事は山程残っていたはずだった。
しかし俺は今、ここにいた。
ああ。一人、溜息に声が混じる。そうだ。夕方、師崎のもとに稟議書を持って行ったところで、俺の退職届が目に入ったのだ。師崎のデスク横のゴミ箱、ビリビリに破かれた、それを。
死のう。
その時、その瞬間。はっきりとそう思った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる