蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

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第一章 旅は道連れ

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 死にたいと思ったことは、これまでに何回もあった。夜寝た回数よりは少ないだろうが、自分の人生をやめたい、やり直したいと感じたことは、よくあったということだ。

 でも試したことは一度もない。言うは易く、行うは難し。「死にたい」から「死のう」へ移る壁は中々の高さがあって、死んだ後に自分はどうなるのか、不明瞭なそれを考えると二の足を踏んでしまう。

 そもそもそれを知る者は、この世にいないのである。死後の世界はこの世に生きる者たちの空想、偶像の産物なのだ。

 それにもかかわらず、死ぬことは人生のリセットという言葉がある。一体誰が、言いだしたことなのだろうか。そもそも、そんな根拠はどこにも無いのである。なのに、絶望を嘆く中で空虚な希望を胸に抱きつつ、死を選ぶ者は一定数存在する。

 俺もそのうちの一人だった。


「なんだこれは」
 社員相談室に入るや否や、課長の師崎もろざきから開口一番、そう問われた。師崎の手には退職届と書かれた白封筒。無論、彼のものではない。
「見てのとおりです。私は…」
 言葉が詰まる。この数日間、退社時、寝る時、風呂、どこでもイメトレをしていた。なのにいざ本番となると、すらすらと口にできない。
 そんな俺を、師崎は無言で見つめる。そうしてから俺の退職届を机の上に置いて、「つじ」と俺の名を口にする。彼は自分がかけている縁無し眼鏡を、少し上に上げた。
「間に合うのか」
「え…」
「納期。間に合うのか」
「えっ?」
 思わず声が裏返った。師崎は眉間に皺を寄せる。
「お前がこの前報告してきた先方への納期、明後日までだろう」
「そ、そうです」
「だから。間に合うのか」
 普段の仕事の口調。俺は言葉をうまく紡げなかった。
「…間に合うかと」
「前もそう言ったな。それで?結果?どうなった?」
「間に合いませんでした」
 ふん、と師崎は鼻を鳴らす。
「こんなくだらないことを考えている暇あるのか」
 師崎は机の上に置かれた俺の退職届を見る。
「今、なんて…」
 汚物を見るかのように顔を歪ませた彼に、俺は二の句が告げなかった。
「お前は本当に、なってないよ。だいたい、新人の吉田よしだの使い方も下手だ。あいつは世間知らずだが、その分体力も伸び代もある。人付き合いは上手いだろう」
「彼は仕事を、期日までにやってきたことなんて、一度もないんですよ」
「それをやるように仕向ける、そう教育するのが、グループリーダーのお前の役目だよ」机をバンッと叩いた彼は、苛々した口調で俺を睨め付けた。「部下を上手く扱えないのは、自分が無能だからだ。それを自覚しろ」
 もはや単なる説教。俺の退職届の話なんてそっちのけ、無かったかのよう。更には謎に新入社員が褒められ、自分は貶されていく。勇気で膨らんでいた心の風船の栓が抜け、ひゅうううと萎んでいく感覚に、俺はとらわれた。
 ここで幕と思ったのか、師崎は背伸びをした。
「ほら、もういいだろう」
「いや…もういいって」
「今はなんだ?」
「へっ?」
「今は、貴重な昼休憩時間だ。ほら、美沙ちゃん、杏奈ちゃんを待たせてんだよ」
 どちらも四月からの新入社員で、二十代前半の女の子達だ。目の前の男は齢四十過ぎにも関わらず、若い女性社員を下の名前で呼ぶ。本人的には、自分はまだ若々しいと自負しているに違いない。
 愕然とした。恐らく、若い子の前で褒められて、悦に浸りたいだけの時間。師崎からしてみれば、俺の退職相談よりも、その時間の方が大事なのだ。
 課長は俺の退職届を無造作に掴むと、己の紺のジャケットの内ポケットに入れた。
「これは無かったことにしてやるよ。お前は目の前の仕事を、スマートに終わらせろ。以上」
 有無を言わせぬ言い方。
 俺は師崎がその場を去った後も、少しの間動けずにいた。昼休憩が終わるチャイムと共に、ふらふらとおぼつかない足取りでデスクに戻った。
 それからの数時間、どう過ごしたのかは覚えていない。
 気がつけば、自宅の最寄駅の改札をくぐっていた。
 午後七時。駅前はまだ、人通りも多い。思えば、こんな時間に帰ってきたのはいつぶりだろう。くたびれた会社員、ふざけ合う学生、買い物帰りの主婦。
 これが一、二時間も後になれば、駅前はタクシープールに止まるタクシー数台、自動販売機の白色光の寒々しく、物悲しい光。
 世間はあいも変わらず、俺の苦しみ、虚しさのことなど差し置いて、平然と回っている。
 仕事は山程残っていたはずだった。
 しかし俺は今、ここにいた。
 ああ。一人、溜息に声が混じる。そうだ。夕方、師崎のもとに稟議書を持って行ったところで、俺の退職届が目に入ったのだ。師崎のデスク横のゴミ箱、ビリビリに破かれた、それを。

 死のう。

 その時、その瞬間。はっきりとそう思った。
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