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Beautiful Days

感じる温もり

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 しばらく沈黙が流れ、お互いに黙ったまま、なんの当てもなく歩くだけだった。
 でも、それが苦痛に思わなくて、なにも話さなくても側にいられるだけで嬉しくて、この時間がずっと続けばいいとさえ思ってしまった。
 彼と過ごす瞬間が、共にいる時間がとてもかけがえのないもので、こうしてずっと二人で歩いていけたら――って思った。


「菜花先生はどうして俺と会ってくれるんですか?」

 ずっとなにも言わなかった瑞希は不意にそんなことを聞いて、その言葉の意味がよくわからずに彼を見た。

「俺、女の人と話すの得意じゃないし、おもしろいことも言えないし」
「え?」
「俺といても、あまり楽しくないんじゃないかって思って」

 楽しいとか楽しくないとかそういうことじゃなくて、彼といられるならそれだけでよくて、それ以外はなにも望まない。
 同じ時間を過ごすだけで、こんなにも幸せな気持ちにさせられるのは他にはきっといない。

 菜花は迷いも偽りもない瞳をまっすぐに向けて、「…そんなこと、ないです」と答えた。

「話すのが苦手なら、そのぶん私が話します。たくさん話します」
「………」
「瑞希くんは今のままでいいんです。そのままで十分素敵です」
「っ…」
「だから、不安に思わなくていいんですよ?」

 なにもしてくれなくてもいい。
 なにも話してくれなくてもいい。
 ただ笑って隣にいてくれるならそれで十分で、彼がいてくれる――そのことが大きな意味を持つ。

 すると、瑞希にいきなり手を握られて、心臓が飛び跳ねそうになった。
 ギュッと包み込むような手の優しさが愛しくて仕方なかった。
 ずっとこうして触れられるほどの距離にいたい――強く、そう思った。

「…いいんですか?」
「え?」
「そんなこと言われたら、俺、本気になりますよ…?」

 瑞希は目を逸らさずに見つめて、その瞳に菜花だけを映している。
 胸の奥が音を立てるけど言葉が出てこなくて、締め付けられるような感覚に苦しさを覚えた。

「先生のこと、好きになってもいいですか…?」

 好きになって。
 他の女の人なんか見ないで。

 そういう気持ちが溢れて、彼への想いが膨らむたびにそう思う。
 自分だけがこんな想いを抱えているのは嫌で、同じように好きになってほしくて。
 瑞希の問いかけになにも言わず、ただ見つめることで気持ちを伝えようとした。
 言いたいことがあるほど、それはなかなか言葉として出てこようとしないから。
 でも、ちゃんと伝えたい気持ちも心の奥にはあって様々な想いと葛藤していた。

「………」

 なにを言えばいいのかわからない。
 気持ちがあるほどに言いたいことが言えなくて、見つめるしかできない。
 掴まれた腕が無性に熱くて、その手を握り返すこともできそうになかった。
 でも、このまま離したくなくて、ずっと繋いでいたいとも思った。

 ――瑞希くんが、好き。

 もし今そう言ったら、彼はいったいどんな顔をしてどんな反応をするんだろう。
  それをちゃんと受け止めて、しっかりと考えてくれるだろうか。

「瑞希くん、私――」

 やっとのことで口を開く。
 言いたい言葉も決まってないまま、気持ちばかりが先走りしそうになる。


 ブオォォッ――

 その先の言葉が出る前に、声は車の大きなエンジン音に掻き消された。
 その時、すごいスピードを出した車が側の道路を走り抜けて、危ない、と思うよりも一足先に引き寄せられてそのまま抱きしめられた。

 たったそれだけ、……なのに、心臓はすごい速さで脈打って周りの音が遮断される。
 瑞希の腕はとても大きくて温かくて、この中にずっといたいと思うほど恋しかった。
 この優しい腕の中には、菜花が欲しいものが詰まっているようだった。


「あっぶな! ……大丈夫ですか?」

 抱きしめられたままの体勢で聞かれて、「…はい」となんとか答える。
 こんなにも近くに彼がいるのが嬉しくて、ずっとこうしていたい。

 すぐに離れようとする瑞希を制するかのように強く抱き着くと、戸惑いの声を上げながらも彼は無理に引き剥がそうとはしない。
 鼻先をかすめる香水の匂いはとても優しくて、あぁ好きだな、と改めて思わされた。
 瑞希を纏うすべてのものが愛しかった。


 ――数分ほど後、瑞希は腕を伸ばして、そっと頭を優しく撫でてくれる。
 それが心地よくて、ずっとこうしていたかった。
 それこそ他の誰よりも一番近くで、いつでも触れ合える距離で。

「…菜花先生」

 愛しいものに向けるような声色で名前を呼ばれるだけで胸がいっぱいになって、返事をする代わりに瑞希を見つめた。
 そっと頬に手を添えられると、ピクンッと小さく反応してしまう。
 そして、彼の顔が近づいてきたと思った次の瞬間、優しいキスが降ってきた。

「……ん」

 小さな声が漏れる。
 初めて触れたはずなのにまるで前から知ってるような温もりで、たった数秒ほどのキスがどうしようもなく気持ちよく感じた。
 離れてもまたすぐに重ねられて、それにドキドキして、ぎこちないながらも受け入れるのに精一杯で他にどうすればいいのかわからなかった。

 時間が止まればいい、そしたら彼ともっとずっとこうして一緒にいられる。
 今よりももっと近くで、彼に触れられるし触れてもらえる。

 彼の気持ちはまだわからない、けど、きっと少しはお互いの想いは繋がっているはずだ。
 それは保育園の先生としての気持ちだけじゃない、と思いたい。
 こうして抱きしめてキスしてくれたことで、気持ちは膨らんでいった。

「……瑞希くん」

 その先の言葉は出てこない。
 彼もなにか言うことはなく、ただ優しく唇を重ね合わせるだけ。
 それだけで心が浮いて、どうしようもなく体が甘く疼くような気がした。


「そろそろ帰りましょうか。家まで送ります」

 だけど、幸せな時間は瑞希の一言で打ち消されて寂しさに包まれた。
 もっと一緒にいたいと思ってるのは自分だけなのかと思うと、どうしようもなく悲しくなった。

 ――まだ足りない、もっと一緒にいたい。

 自分がそう思うほど、瑞希はそう思ってはくれていないのかもしれない。
 気持ちが繋がってるような気がしたのは、気のせいだったのかもしれない。
 そうでいてほしいという願いが、そう感じさせただけに過ぎないのかもしれない。
 いろんなことを考えて、言いようのない感情に包まれた。

 瑞希は口元を緩めて、ふっ、と微笑んだ。
 それにまた気持ちが引っ張られて、期待せずにはいられなくなる。

「そんな顔されると、帰したくなくなるじゃないですか」
「………」
「でも、これ以上は無理です。我慢できなくなるので」
「っ…」
「だから……その、また今度」

 また――そう言ってくれたのが嬉しくて、「…はい」と笑って答えた。
 ずっと閉ざしていた未来に、少しずつ光が差し込んでくるのがわかった。
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