βなんか好きにならない

切羽未依

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ヒーローじゃないけど

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 嫌な臭いに、笙悧しょうりは、マスクの中、息を止めた。

 線路沿いの細い道。
 不揃ふぞろいのリズムで、不安定に上下する音を響かせて、走って来る電車が起こす微かな風が、前から歩いて来るαのフェロモンを、まだかなり離れているのに、笙悧に向かって、吹き寄せたのだ。

 αと、すれ違いたくもなかった。
 でも、線路の反対側は、ビルや店舗てんぽの裏口が並び、逃げ込む脇道もない。

 笙悧は歩きながら、αが歩いて来る細い道の端とは、逆の端の方へ寄って行った。
 マスクの中、鼻でαのフェロモンを嗅がないように、少し開けた口だけで、呼吸して。


 嗅覚きゅうかくで、嫌な臭いは感じなくなっても、前から歩いて来るαに、近付けば近づくほど、笙悧の体は、熱くなってゆく……


 αはスーツを着ているが、大学2年生の笙悧と、それほど年齢は変わらないように見えた。


 αと、すれ違う。

 ほっと、マスクの中、笙悧は、息をついた。

 後ろから駅の発車メロディーが、微かに聞こえた。
 リズムがつまずいたような靴音が回った。

「っひ」
 笙悧は、思わずマスクの中、小さな悲鳴を上げてしまった。


 背後からαに回り込まれて、前に立たれていた。
 αのフェロモンの嫌な臭いに、笙悧は、全身を撫で上げられたように、ぞわっと、ますます熱くなる。


 駅から走り出した電車の騒音が行き過ぎるのを待って、αは聞いた。
「この後、なんか、予定ある?」
「料理教室」と答えたくても、マスクの中、笙悧の口は、ふはふは、呼吸を繰り返すだけだった。

 αの唇が、にいっと、歪む。――笙悧のΩの体が、αのフェロモンに発情させられていることに、気付かれている。
「マチアプで、今さっき、ドタキャンされちゃってさぁ。こっちは、ヤる気、ビンビンで、抑制剤も飲んでないのに。」
「ほんっと、ごめんねえ。助かった~」
 すぐそばの店舗の裏口のドアが開いて、女の声が聞こえた。黒いジャージの男が、店内の方へ、おじぎをしながら、後ろ向きに出て来て、ドアを閉め、向き直った。


 向かい合って立っているαと笙悧を見て、ジャージの男は、不器用に視線をらして、歩き出した。


「行こうか」
 αは何事もなかったように、まるで恋人のように、笙悧に言った。


 歩いて行くジャージの男が立ち止まり、振り返った。
「男」というより、まだ「少年」と呼んだ方がいいような、真っすぐな眼差しで、笙悧を見た。


「困ってる?」
 眼差しと同じ、真っすぐな声で、聞かれた。
 笙悧は、αの肩越し、微かにあごを引いて、うなずくことしかできなかった。
 うなずいたことを、ジャージの男には、わかってもらえるとは思えなかった。


 正確なリズムを刻む駆けて来る足音が響いた。

 ジャージの男は駆け寄ると、肩で、αの腕のあたりを押しのけた。
 そんなに強く当たったようにも見えないのに、αは、よろけた。
 ジャージの男は、笙悧の腕に腕を掛け、ぐいっと引っ張った。

 笙悧は、強い力に引き寄せられ、足はもつれて、ジャージの男の肩に寄り掛かった。甘い、いい匂いがした。

「邪魔すんなよ!」
 αは怒鳴って、笙悧を掴もうと、手を伸ばすが、よろけたせいで、指先は、わずかに届かない。

 ジャージの男は、腕を掛けた笙悧の腕を引き、逃げ込もうとした店舗の裏口のドアは、ノブを回しても開かなかった。

「防犯意識、高いな」
 ジャージの男は笑って言う。こんな状況なのに、無邪気すぎる笑顔だった。


「わかったわかった。3Pでもいいぜ」
 αにとんでもないことを言われて、笙悧とジャージの男は振り返った。

 それを同じ「笑顔」とは呼びたくないほどの、下卑げびわらい顔で、わざと、ゆっくりと近付いて行きながら、αは言った。
「ヒーローぶっちゃってぇ~。お前だって、Ωが欲しいだけだろ?」
「俺、βだから。」
 ジャージの男は言い返すと、笙悧の腕に掛けていた自分の腕を下ろした。


 笙悧は、膝が、がくがく、震えた。


「βかよ。黙って、見てろ」
 二人の前に立つαは吐き捨てて、自分のスーツの裾の合わせ目に、手を入れた。


「ヒーローじゃないから、空は飛べないけど。」
 ジャージの男は、自分が言ったことに笑って、少しかがみ、笙悧に、背中を差し出した。

 笙悧が、その背中に、かじりつくように、おんぶされると、ジャージの男は駆け出した。


 ジャージの男が正確にリズムを刻む駆けて行く足音に合わせて、しがみついた背中で、笙悧の体は揺さぶられる。
 駆け抜ける風が、嫌な臭いを、笙悧から引き剥がしてくれる。マスクの中、大きく息を吸い込んだ。

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