1 / 71
ヒーローじゃないけど
しおりを挟む
嫌な臭いに、笙悧は、マスクの中、息を止めた。
線路沿いの細い道。
不揃いのリズムで、不安定に上下する音を響かせて、走って来る電車が起こす微かな風が、前から歩いて来るαのフェロモンを、まだかなり離れているのに、笙悧に向かって、吹き寄せたのだ。
αと、すれ違いたくもなかった。
でも、線路の反対側は、ビルや店舗の裏口が並び、逃げ込む脇道もない。
笙悧は歩きながら、αが歩いて来る細い道の端とは、逆の端の方へ寄って行った。
マスクの中、鼻でαのフェロモンを嗅がないように、少し開けた口だけで、呼吸して。
嗅覚で、嫌な臭いは感じなくなっても、前から歩いて来るαに、近付けば近づくほど、笙悧の体は、熱くなってゆく……
αはスーツを着ているが、大学2年生の笙悧と、それほど年齢は変わらないように見えた。
αと、すれ違う。
ほっと、マスクの中、笙悧は、息をついた。
後ろから駅の発車メロディーが、微かに聞こえた。
リズムがつまずいたような靴音が回った。
「っひ」
笙悧は、思わずマスクの中、小さな悲鳴を上げてしまった。
背後からαに回り込まれて、前に立たれていた。
αのフェロモンの嫌な臭いに、笙悧は、全身を撫で上げられたように、ぞわっと、ますます熱くなる。
駅から走り出した電車の騒音が行き過ぎるのを待って、αは聞いた。
「この後、何か、予定ある?」
「料理教室」と答えたくても、マスクの中、笙悧の口は、ふはふは、呼吸を繰り返すだけだった。
αの唇が、にいっと、歪む。――笙悧のΩの体が、αのフェロモンに発情させられていることに、気付かれている。
「マチアプで、今さっき、ドタキャンされちゃってさぁ。こっちは、ヤる気、ビンビンで、抑制剤も飲んでないのに。」
「ほんっと、ごめんねえ。助かった~」
すぐそばの店舗の裏口のドアが開いて、女の声が聞こえた。黒いジャージの男が、店内の方へ、おじぎをしながら、後ろ向きに出て来て、ドアを閉め、向き直った。
向かい合って立っているαと笙悧を見て、ジャージの男は、不器用に視線を逸らして、歩き出した。
「行こうか」
αは何事もなかったように、まるで恋人のように、笙悧に言った。
歩いて行くジャージの男が立ち止まり、振り返った。
「男」というより、まだ「少年」と呼んだ方がいいような、真っすぐな眼差しで、笙悧を見た。
「困ってる?」
眼差しと同じ、真っすぐな声で、聞かれた。
笙悧は、αの肩越し、微かに顎を引いて、うなずくことしかできなかった。
うなずいたことを、ジャージの男には、わかってもらえるとは思えなかった。
正確なリズムを刻む駆けて来る足音が響いた。
ジャージの男は駆け寄ると、肩で、αの腕のあたりを押しのけた。
そんなに強く当たったようにも見えないのに、αは、よろけた。
ジャージの男は、笙悧の腕に腕を掛け、ぐいっと引っ張った。
笙悧は、強い力に引き寄せられ、足はもつれて、ジャージの男の肩に寄り掛かった。甘い、いい匂いがした。
「邪魔すんなよ!」
αは怒鳴って、笙悧を掴もうと、手を伸ばすが、よろけたせいで、指先は、わずかに届かない。
ジャージの男は、腕を掛けた笙悧の腕を引き、逃げ込もうとした店舗の裏口のドアは、ノブを回しても開かなかった。
「防犯意識、高いな」
ジャージの男は笑って言う。こんな状況なのに、無邪気すぎる笑顔だった。
「わかったわかった。3Pでもいいぜ」
αにとんでもないことを言われて、笙悧とジャージの男は振り返った。
それを同じ「笑顔」とは呼びたくないほどの、下卑た嗤い顔で、わざと、ゆっくりと近付いて行きながら、αは言った。
「ヒーローぶっちゃってぇ~。お前だって、Ωが欲しいだけだろ?」
「俺、βだから。」
ジャージの男は言い返すと、笙悧の腕に掛けていた自分の腕を下ろした。
笙悧は、膝が、がくがく、震えた。
「βかよ。黙って、見てろ」
二人の前に立つαは吐き捨てて、自分のスーツの裾の合わせ目に、手を入れた。
「ヒーローじゃないから、空は飛べないけど。」
ジャージの男は、自分が言ったことに笑って、少し屈み、笙悧に、背中を差し出した。
笙悧が、その背中に、かじりつくように、おんぶされると、ジャージの男は駆け出した。
ジャージの男が正確にリズムを刻む駆けて行く足音に合わせて、しがみついた背中で、笙悧の体は揺さぶられる。
駆け抜ける風が、嫌な臭いを、笙悧から引き剥がしてくれる。マスクの中、大きく息を吸い込んだ。
線路沿いの細い道。
不揃いのリズムで、不安定に上下する音を響かせて、走って来る電車が起こす微かな風が、前から歩いて来るαのフェロモンを、まだかなり離れているのに、笙悧に向かって、吹き寄せたのだ。
αと、すれ違いたくもなかった。
でも、線路の反対側は、ビルや店舗の裏口が並び、逃げ込む脇道もない。
笙悧は歩きながら、αが歩いて来る細い道の端とは、逆の端の方へ寄って行った。
マスクの中、鼻でαのフェロモンを嗅がないように、少し開けた口だけで、呼吸して。
嗅覚で、嫌な臭いは感じなくなっても、前から歩いて来るαに、近付けば近づくほど、笙悧の体は、熱くなってゆく……
αはスーツを着ているが、大学2年生の笙悧と、それほど年齢は変わらないように見えた。
αと、すれ違う。
ほっと、マスクの中、笙悧は、息をついた。
後ろから駅の発車メロディーが、微かに聞こえた。
リズムがつまずいたような靴音が回った。
「っひ」
笙悧は、思わずマスクの中、小さな悲鳴を上げてしまった。
背後からαに回り込まれて、前に立たれていた。
αのフェロモンの嫌な臭いに、笙悧は、全身を撫で上げられたように、ぞわっと、ますます熱くなる。
駅から走り出した電車の騒音が行き過ぎるのを待って、αは聞いた。
「この後、何か、予定ある?」
「料理教室」と答えたくても、マスクの中、笙悧の口は、ふはふは、呼吸を繰り返すだけだった。
αの唇が、にいっと、歪む。――笙悧のΩの体が、αのフェロモンに発情させられていることに、気付かれている。
「マチアプで、今さっき、ドタキャンされちゃってさぁ。こっちは、ヤる気、ビンビンで、抑制剤も飲んでないのに。」
「ほんっと、ごめんねえ。助かった~」
すぐそばの店舗の裏口のドアが開いて、女の声が聞こえた。黒いジャージの男が、店内の方へ、おじぎをしながら、後ろ向きに出て来て、ドアを閉め、向き直った。
向かい合って立っているαと笙悧を見て、ジャージの男は、不器用に視線を逸らして、歩き出した。
「行こうか」
αは何事もなかったように、まるで恋人のように、笙悧に言った。
歩いて行くジャージの男が立ち止まり、振り返った。
「男」というより、まだ「少年」と呼んだ方がいいような、真っすぐな眼差しで、笙悧を見た。
「困ってる?」
眼差しと同じ、真っすぐな声で、聞かれた。
笙悧は、αの肩越し、微かに顎を引いて、うなずくことしかできなかった。
うなずいたことを、ジャージの男には、わかってもらえるとは思えなかった。
正確なリズムを刻む駆けて来る足音が響いた。
ジャージの男は駆け寄ると、肩で、αの腕のあたりを押しのけた。
そんなに強く当たったようにも見えないのに、αは、よろけた。
ジャージの男は、笙悧の腕に腕を掛け、ぐいっと引っ張った。
笙悧は、強い力に引き寄せられ、足はもつれて、ジャージの男の肩に寄り掛かった。甘い、いい匂いがした。
「邪魔すんなよ!」
αは怒鳴って、笙悧を掴もうと、手を伸ばすが、よろけたせいで、指先は、わずかに届かない。
ジャージの男は、腕を掛けた笙悧の腕を引き、逃げ込もうとした店舗の裏口のドアは、ノブを回しても開かなかった。
「防犯意識、高いな」
ジャージの男は笑って言う。こんな状況なのに、無邪気すぎる笑顔だった。
「わかったわかった。3Pでもいいぜ」
αにとんでもないことを言われて、笙悧とジャージの男は振り返った。
それを同じ「笑顔」とは呼びたくないほどの、下卑た嗤い顔で、わざと、ゆっくりと近付いて行きながら、αは言った。
「ヒーローぶっちゃってぇ~。お前だって、Ωが欲しいだけだろ?」
「俺、βだから。」
ジャージの男は言い返すと、笙悧の腕に掛けていた自分の腕を下ろした。
笙悧は、膝が、がくがく、震えた。
「βかよ。黙って、見てろ」
二人の前に立つαは吐き捨てて、自分のスーツの裾の合わせ目に、手を入れた。
「ヒーローじゃないから、空は飛べないけど。」
ジャージの男は、自分が言ったことに笑って、少し屈み、笙悧に、背中を差し出した。
笙悧が、その背中に、かじりつくように、おんぶされると、ジャージの男は駆け出した。
ジャージの男が正確にリズムを刻む駆けて行く足音に合わせて、しがみついた背中で、笙悧の体は揺さぶられる。
駆け抜ける風が、嫌な臭いを、笙悧から引き剥がしてくれる。マスクの中、大きく息を吸い込んだ。
2
あなたにおすすめの小説
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
【完結済】極上アルファを嵌めた俺の話
降魔 鬼灯
BL
ピアニスト志望の悠理は子供の頃、仲の良かったアルファの東郷司にコンクールで敗北した。
両親を早くに亡くしその借金の返済が迫っている悠理にとって未成年最後のこのコンクールの賞金を得る事がラストチャンスだった。
しかし、司に敗北した悠理ははオメガ専用の娼館にいくより他なくなってしまう。
コンサート入賞者を招いたパーティーで司に想い人がいることを知った悠理は地味な自分がオメガだとバレていない事を利用して司を嵌めて慰謝料を奪おうと計画するが……。
【完結】初恋のアルファには番がいた—番までの距離—
水樹りと
BL
蛍は三度、運命を感じたことがある。
幼い日、高校、そして大学。
高校で再会した初恋の人は匂いのないアルファ――そのとき彼に番がいると知る。
運命に選ばれなかったオメガの俺は、それでも“自分で選ぶ恋”を始める。
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学時代後輩から逃げたのに、大人になって再会するなんて!?
灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。
オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。
ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー
獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
オメガはオメガらしく生きろなんて耐えられない
子犬一 はぁて
BL
「オメガはオメガらしく生きろ」
家を追われオメガ寮で育ったΩは、見合いの席で名家の年上αに身請けされる。
無骨だが優しく、Ωとしてではなく一人の人間として扱ってくれる彼に初めて恋をした。
しかし幸せな日々は突然終わり、二人は別れることになる。
5年後、雪の夜。彼と再会する。
「もう離さない」
再び抱きしめられたら、僕はもうこの人の傍にいることが自分の幸せなんだと気づいた。
彼は温かい手のひらを持つ人だった。
身分差×年上アルファ×溺愛再会BL短編。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる