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甘い、いい匂い
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ジャージの男は、笙悧をおんぶしたまま、駆けて、道を曲がり、商店街のアーケードに入った。
「ちょっと!もう、下ろして!」
笙悧は慌てて声を上げた。
夕方、行き交う買い物客で混雑し始めているアーケードを、おんぶされて、駆け抜けるなんて、恥ずかしすぎる!
お母さんと手をつないだ幼稚園生が指差して、
「おんぶ~」
と言ったのが、一瞬で過ぎ去った。
びっくり顔、笑った顔、不審そうな顔、無関心な顔、いくつもの顔が、過ぎ去って行く。
「下ろして!」と連呼なんかしたら、もっと注目を集めてしまうにちがいなかった。
笙悧は、あきらめて、ジャージの男の肩に、顔を埋めた。顔を隠すことくらいしか思いつかなかった。
ジャージの男の肩は、やっぱり甘い、いい匂いがした。
正確にリズムを刻む足音と、揺れが、突然、止まった。
顔を上げると、自動ドアが開くところだった。
甘い、いい匂いがした。
ケーキが並ぶショーケースの向こう、給食帽子みたいな白いキャップとスモックに、黄色いスカーフを花のように首に結んだ店員は、入って来るジャージの男に、声をかけた。
「おかえり。おつかい、ありがと。え!ちょっと、何?!ケガ?病気?救急車!!」
ジャージの男が、笙悧をおんぶしているのを見て、店員は、めちゃくちゃ慌てて、ショーケースに身を乗り出す。
「バースデーケーキは届けた。届けた後に、この人が困ってたから、助けた」
ごにょごにょ、ジャージの男が説明した。
「何で困ってたのか、一番、大事なとこが抜けてる」
自動ドアの左側の壁際の椅子に、アコースティックギターを抱えて座っているメガネの男が、ツッコミを入れる。
あ…
笙悧は、マスクの中、声を上げそうになった。
メガネの男が座る椅子の横、アップライトピアノの長椅子に、笙悧は、下ろされた。
背中のリュックが、鍵盤に当たり、微かな不協和音を奏でて、笙悧は前屈みに体を引き、謝った。
「ごめんなさいっ」
「だいじょうぶだよ」
メガネの男が言ってくれる。
すぐ後ろに、ピアノがある。
笙悧は、ピアノを辞めてから、こんなに近く、ピアノの側にいるのは、初めてだった。
「だいじょうぶ?」
店員が、店の奥のイートインスペースの、セルフサービスの水をプラスチックのグラスに入れて、笙悧に持って来てくれる。
イートインスペースに、まばらにいる客たちは、店員が「救急車!!」なんて叫んだせいで、心配顔で、こちらを見ている。
「はい。だいじょうぶです…」
そう答えたけれど、笙悧のΩの体は、しつこく熱いままだった。
「ありがとうございます。いただきます」
笙悧は、店員が差し出すグラスを受け取り、マスクを下ろして、水を飲み干した。
微かなレモンの香りと、冷たさが心地よかった。それから、ケーキの甘い、いい匂い。
ジャージの男は、イートインスペースに行くと、セルフサービスのスライスレモンが入った水のポットから、プラスチックのグラスに注いだ。
ごくごく、飲むと、大きく、ひとつ、息をつく。笙悧をおんぶして、ここまで全力疾走して来たのに、全く息が上がっていない。もう一杯、水を飲む。
笙悧はマスクを口元に上げ、ジャージの男を見て、自分と同じくらいの、二十歳前後かと思う。
ぼさっと伸びてしまったような黒髪。
真っすぐな眼差しは、何かを見つめていない時は、ぼんやりしている。
鷲鼻と呼ぶには、鋭くない鼻。
薄い上唇、厚い下唇。
黒いジャージの上下のせいで、際立たないが、確実にスポーツをしているにちがいない、高身長、広い肩幅、長い手足。
でも、どことなく「青年」や「大人」というよりは、「少年」っぽい。
甘い、いい匂いは、この店の空気が染み付いてしまったのだろう。
店員とメガネの男の息子にしては、店員とメガネの男が、自分の親と同じ40代後半とは、笙悧には、見えなかった。どう見ても、30代だ。
「ほんと、だいじょうぶ?何か、顔、赤くない?風邪とか?」
店員は聞きながら、マスクを着けている笙悧から、二歩、退いた。
感染らないように、とてもわかりやすく避けられて、マスクの中、笙悧は苦笑した。
「マスクを着けているのは、風邪じゃないです」
「君…ひょっとして、アレかな?」
メガネの男が、声を小さくして、言いにくそうに言った。
店員は目を見開いて、メガネの男を見る。
笙悧は、メガネの男の方を見れなかった。
発情していることに気付かれて、笙悧は恥ずかしさで、ますます体が熱くなる。
店員は、二歩、進んで、笙悧の前にしゃがみ込み、小さな声で聞いた。
「お薬、ある?」
「はい…」
「こういう時は、飲んじゃった方がいいよ」
店員は、笙悧の手からグラスを取り上げると、立ち上がり、イートインスペースへ行った。ジャージの男に、ポットから水をグラスに注がせて、持って来てくれる。
笙悧は、リュックを背中から下ろし、ファスナーを開けた。
「安心して。わたし、Ωだから。」
店員は、小さな声で言った。
「上、行こうか。誰もいないから。」
「はい。すみません」
笙悧はリュックを抱え、立ち上がった。
笙悧は立ち上がり、店員に後に付いて、歩き出した。
笙悧より頭ひとつ分くらい背が低い店員の首に、花のように結んだ黄色いスカーフの隙間から、うなじの噛み跡が、見えた。
「ちょっと!もう、下ろして!」
笙悧は慌てて声を上げた。
夕方、行き交う買い物客で混雑し始めているアーケードを、おんぶされて、駆け抜けるなんて、恥ずかしすぎる!
お母さんと手をつないだ幼稚園生が指差して、
「おんぶ~」
と言ったのが、一瞬で過ぎ去った。
びっくり顔、笑った顔、不審そうな顔、無関心な顔、いくつもの顔が、過ぎ去って行く。
「下ろして!」と連呼なんかしたら、もっと注目を集めてしまうにちがいなかった。
笙悧は、あきらめて、ジャージの男の肩に、顔を埋めた。顔を隠すことくらいしか思いつかなかった。
ジャージの男の肩は、やっぱり甘い、いい匂いがした。
正確にリズムを刻む足音と、揺れが、突然、止まった。
顔を上げると、自動ドアが開くところだった。
甘い、いい匂いがした。
ケーキが並ぶショーケースの向こう、給食帽子みたいな白いキャップとスモックに、黄色いスカーフを花のように首に結んだ店員は、入って来るジャージの男に、声をかけた。
「おかえり。おつかい、ありがと。え!ちょっと、何?!ケガ?病気?救急車!!」
ジャージの男が、笙悧をおんぶしているのを見て、店員は、めちゃくちゃ慌てて、ショーケースに身を乗り出す。
「バースデーケーキは届けた。届けた後に、この人が困ってたから、助けた」
ごにょごにょ、ジャージの男が説明した。
「何で困ってたのか、一番、大事なとこが抜けてる」
自動ドアの左側の壁際の椅子に、アコースティックギターを抱えて座っているメガネの男が、ツッコミを入れる。
あ…
笙悧は、マスクの中、声を上げそうになった。
メガネの男が座る椅子の横、アップライトピアノの長椅子に、笙悧は、下ろされた。
背中のリュックが、鍵盤に当たり、微かな不協和音を奏でて、笙悧は前屈みに体を引き、謝った。
「ごめんなさいっ」
「だいじょうぶだよ」
メガネの男が言ってくれる。
すぐ後ろに、ピアノがある。
笙悧は、ピアノを辞めてから、こんなに近く、ピアノの側にいるのは、初めてだった。
「だいじょうぶ?」
店員が、店の奥のイートインスペースの、セルフサービスの水をプラスチックのグラスに入れて、笙悧に持って来てくれる。
イートインスペースに、まばらにいる客たちは、店員が「救急車!!」なんて叫んだせいで、心配顔で、こちらを見ている。
「はい。だいじょうぶです…」
そう答えたけれど、笙悧のΩの体は、しつこく熱いままだった。
「ありがとうございます。いただきます」
笙悧は、店員が差し出すグラスを受け取り、マスクを下ろして、水を飲み干した。
微かなレモンの香りと、冷たさが心地よかった。それから、ケーキの甘い、いい匂い。
ジャージの男は、イートインスペースに行くと、セルフサービスのスライスレモンが入った水のポットから、プラスチックのグラスに注いだ。
ごくごく、飲むと、大きく、ひとつ、息をつく。笙悧をおんぶして、ここまで全力疾走して来たのに、全く息が上がっていない。もう一杯、水を飲む。
笙悧はマスクを口元に上げ、ジャージの男を見て、自分と同じくらいの、二十歳前後かと思う。
ぼさっと伸びてしまったような黒髪。
真っすぐな眼差しは、何かを見つめていない時は、ぼんやりしている。
鷲鼻と呼ぶには、鋭くない鼻。
薄い上唇、厚い下唇。
黒いジャージの上下のせいで、際立たないが、確実にスポーツをしているにちがいない、高身長、広い肩幅、長い手足。
でも、どことなく「青年」や「大人」というよりは、「少年」っぽい。
甘い、いい匂いは、この店の空気が染み付いてしまったのだろう。
店員とメガネの男の息子にしては、店員とメガネの男が、自分の親と同じ40代後半とは、笙悧には、見えなかった。どう見ても、30代だ。
「ほんと、だいじょうぶ?何か、顔、赤くない?風邪とか?」
店員は聞きながら、マスクを着けている笙悧から、二歩、退いた。
感染らないように、とてもわかりやすく避けられて、マスクの中、笙悧は苦笑した。
「マスクを着けているのは、風邪じゃないです」
「君…ひょっとして、アレかな?」
メガネの男が、声を小さくして、言いにくそうに言った。
店員は目を見開いて、メガネの男を見る。
笙悧は、メガネの男の方を見れなかった。
発情していることに気付かれて、笙悧は恥ずかしさで、ますます体が熱くなる。
店員は、二歩、進んで、笙悧の前にしゃがみ込み、小さな声で聞いた。
「お薬、ある?」
「はい…」
「こういう時は、飲んじゃった方がいいよ」
店員は、笙悧の手からグラスを取り上げると、立ち上がり、イートインスペースへ行った。ジャージの男に、ポットから水をグラスに注がせて、持って来てくれる。
笙悧は、リュックを背中から下ろし、ファスナーを開けた。
「安心して。わたし、Ωだから。」
店員は、小さな声で言った。
「上、行こうか。誰もいないから。」
「はい。すみません」
笙悧はリュックを抱え、立ち上がった。
笙悧は立ち上がり、店員に後に付いて、歩き出した。
笙悧より頭ひとつ分くらい背が低い店員の首に、花のように結んだ黄色いスカーフの隙間から、うなじの噛み跡が、見えた。
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