βなんか好きにならない

切羽未依

文字の大きさ
2 / 71

甘い、いい匂い

しおりを挟む
 ジャージの男は、笙悧しょうりをおんぶしたまま、駆けて、道を曲がり、商店街のアーケードに入った。

「ちょっと!もう、下ろして!」
 笙悧は慌てて声を上げた。
 
 夕方、行き交う買い物客で混雑し始めているアーケードを、おんぶされて、駆け抜けるなんて、恥ずかしすぎる!

 お母さんと手をつないだ幼稚園生が指差して、
「おんぶ~」
 と言ったのが、一瞬で過ぎ去った。
 びっくり顔、笑った顔、不審そうな顔、無関心な顔、いくつもの顔が、過ぎ去って行く。

「下ろして!」と連呼なんかしたら、もっと注目を集めてしまうにちがいなかった。
 笙悧は、あきらめて、ジャージの男の肩に、顔をうずめた。顔を隠すことくらいしか思いつかなかった。
 ジャージの男の肩は、やっぱり甘い、いい匂いがした。



 正確にリズムを刻む足音と、揺れが、突然、止まった。
 顔を上げると、自動ドアが開くところだった。
 甘い、いい匂いがした。


 ケーキが並ぶショーケースの向こう、給食帽子みたいな白いキャップとスモックに、黄色いスカーフを花のように首に結んだ店員は、入って来るジャージの男に、声をかけた。
「おかえり。おつかい、ありがと。え!ちょっと、何?!ケガ?病気?救急車!!」

 ジャージの男が、笙悧をおんぶしているのを見て、店員は、めちゃくちゃ慌てて、ショーケースに身を乗り出す。

「バースデーケーキは届けた。届けた後に、この人が困ってたから、助けた」
 ごにょごにょ、ジャージの男が説明した。

「何で困ってたのか、一番、大事なとこが抜けてる」
 自動ドアの左側の壁際の椅子に、アコースティックギターを抱えて座っているメガネの男が、ツッコミを入れる。


 あ…


 笙悧は、マスクの中、声を上げそうになった。

 メガネの男が座る椅子の横、アップライトピアノの長椅子に、笙悧は、下ろされた。
 背中のリュックが、鍵盤に当たり、微かな不協和音を奏でて、笙悧は前屈まえかがみに体を引き、謝った。
「ごめんなさいっ」
「だいじょうぶだよ」
 メガネの男が言ってくれる。


 すぐ後ろに、ピアノがある。
 笙悧は、ピアノを辞めてから、こんなに近く、ピアノの側にいるのは、初めてだった。


「だいじょうぶ?」
 店員が、店の奥のイートインスペースの、セルフサービスの水をプラスチックのグラスに入れて、笙悧に持って来てくれる。


 イートインスペースに、まばらにいる客たちは、店員が「救急車!!」なんて叫んだせいで、心配顔で、こちらを見ている。


「はい。だいじょうぶです…」
 そう答えたけれど、笙悧のΩの体は、しつこく熱いままだった。

「ありがとうございます。いただきます」
 笙悧は、店員が差し出すグラスを受け取り、マスクを下ろして、水を飲み干した。
 微かなレモンの香りと、冷たさが心地よかった。それから、ケーキの甘い、いい匂い。


 ジャージの男は、イートインスペースに行くと、セルフサービスのスライスレモンが入った水のポットから、プラスチックのグラスに注いだ。
 ごくごく、飲むと、大きく、ひとつ、息をつく。笙悧をおんぶして、ここまで全力疾走して来たのに、全く息が上がっていない。もう一杯、水を飲む。


 笙悧はマスクを口元に上げ、ジャージの男を見て、自分と同じくらいの、二十歳前後かと思う。
 ぼさっと伸びてしまったような黒髪。
 真っすぐな眼差しは、何かを見つめていない時は、ぼんやりしている。
 鷲鼻わしばなと呼ぶには、するどくない鼻。
 薄い上唇、厚い下唇。
 黒いジャージの上下のせいで、際立きわだたないが、確実にスポーツをしているにちがいない、高身長、広い肩幅、長い手足。
 でも、どことなく「青年」や「大人」というよりは、「少年」っぽい。
 甘い、いい匂いは、この店の空気が染み付いてしまったのだろう。


 店員とメガネの男の息子にしては、店員とメガネの男が、自分の親と同じ40代後半とは、笙悧には、見えなかった。どう見ても、30代だ。

「ほんと、だいじょうぶ?なんか、顔、赤くない?風邪とか?」
 店員は聞きながら、マスクを着けている笙悧から、二歩、退いた。

 感染うつらないように、とてもわかりやすく避けられて、マスクの中、笙悧は苦笑した。
「マスクを着けているのは、風邪じゃないです」
きみ…ひょっとして、アレかな?」
 メガネの男が、声を小さくして、言いにくそうに言った。

 店員は目を見開いて、メガネの男を見る。
 笙悧は、メガネの男の方を見れなかった。


 発情していることに気付かれて、笙悧は恥ずかしさで、ますます体が熱くなる。


 店員は、二歩、進んで、笙悧の前にしゃがみ込み、小さな声で聞いた。
「お薬、ある?」
「はい…」
「こういう時は、飲んじゃった方がいいよ」

 店員は、笙悧の手からグラスを取り上げると、立ち上がり、イートインスペースへ行った。ジャージの男に、ポットから水をグラスに注がせて、持って来てくれる。
 笙悧は、リュックを背中から下ろし、ファスナーを開けた。

「安心して。わたし、Ωだから。」
 店員は、小さな声で言った。
「上、行こうか。誰もいないから。」
「はい。すみません」
 笙悧はリュックを抱え、立ち上がった。


 笙悧は立ち上がり、店員に後に付いて、歩き出した。
 笙悧より頭ひとつ分くらい背が低い店員の首に、花のように結んだ黄色いスカーフの隙間から、うなじの噛み跡が、見えた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたと過ごせた日々は幸せでした

蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。

【完結済】極上アルファを嵌めた俺の話

降魔 鬼灯
BL
 ピアニスト志望の悠理は子供の頃、仲の良かったアルファの東郷司にコンクールで敗北した。  両親を早くに亡くしその借金の返済が迫っている悠理にとって未成年最後のこのコンクールの賞金を得る事がラストチャンスだった。  しかし、司に敗北した悠理ははオメガ専用の娼館にいくより他なくなってしまう。  コンサート入賞者を招いたパーティーで司に想い人がいることを知った悠理は地味な自分がオメガだとバレていない事を利用して司を嵌めて慰謝料を奪おうと計画するが……。  

流れる星、どうかお願い

ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる) オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年 高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼 そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ ”要が幸せになりますように” オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ 王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに! 一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが お付き合いください!

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

【完結】初恋のアルファには番がいた—番までの距離—

水樹りと
BL
蛍は三度、運命を感じたことがある。 幼い日、高校、そして大学。 高校で再会した初恋の人は匂いのないアルファ――そのとき彼に番がいると知る。 運命に選ばれなかったオメガの俺は、それでも“自分で選ぶ恋”を始める。

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

僕の番

結城れい
BL
白石湊(しらいし みなと)は、大学生のΩだ。αの番がいて同棲までしている。最近湊は、番である森颯真(もり そうま)の衣服を集めることがやめられない。気づかれないように少しずつ集めていくが―― ※他サイトにも掲載

運命じゃない人

万里
BL
旭は、7年間連れ添った相手から突然別れを告げられる。「運命の番に出会ったんだ」と語る彼の言葉は、旭の心を深く傷つけた。積み重ねた日々も未来の約束も、その一言で崩れ去り、番を解消される。残された部屋には彼の痕跡はなく、孤独と喪失感だけが残った。 理解しようと努めるも、涙は止まらず、食事も眠りもままならない。やがて「番に捨てられたΩは死ぬ」という言葉が頭を支配し、旭は絶望の中で自らの手首を切る。意識が遠のき、次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。

処理中です...