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2階は、楽器店だった。
ギターや、金管楽器や、ハーモニカや、リコーダーや、鍵盤ハーモニカなど、ショーケースや棚に並ぶ楽器を、思わず見回してしまう笙悧に、笑って店員は説明した。
「元はね、楽器屋さんなんだよね。庇を借りて母屋を乗っ取ってやりました」
置いてある長椅子に座り、店員に水をもらって、笙悧はマスクを下ろし、抑制剤を飲んだ。マスクを口元に上げる。
目に入る所に、キーボードがある…
「落ち着くまで、いていいよ。横になっちゃってもいいから」
「すみません。ありがとうございます」
「ううん。ゼンゼン。」
ひらひら、手を振って、店員は行ってしまった。
Ωだから、自分の意志に反して発情してしまった時、あれこれ、気を遣われるよりは、放っておいて欲しい気持ちを、わかってくれてる。
笙悧は、グラスの水の残りを飲み干すと、長椅子の端に置いた。プラスチックなので、落ちても、割れることがないのは、安心だった。
リュックからスマホを出して見ると、意外と、料理教室の開始時間6分前だった。
料理教室があるビルは、アーケードを抜けて、左に曲がり、ちょっと行った所だ。今から行けば、多少の遅刻で着ける。
笙悧は、希望して、番のいないΩ男性のクラスに入っていた。これ以上、発情させられることもない。
でも、料理教室までの道で、αに会ってしまったら、
笙悧は、料理教室に、欠席のLINEをした。スマホをリュックに入れ、ファスナーを閉めて、長椅子の端に置いた。逆の端の方に座り直すと、上半身だけを横にして、目を閉じた。
目を開けていると、キーボードが見えて、ふらふらと行って、弾き始めてしまいそうだった。
アーケードを通ると、不特定多数のαのフェロモンを嗅がされるのが嫌で、線路沿いの道を、笙悧は、いつも歩いていた。人通りがなく、線路の安全のためか、夜も街灯が明るかった。
でも、これからは、アーケードを息を止めて、早歩きで、通り抜けよう……
「もしもし、起きて」
知らない声が聞こえて、揺り動かされる。笙悧は、目を開けた。
白い給食帽子をかぶった、まんまるい顔があった。首には、黄色いお花を着けている。
「車で送るよ」
「……………」
笙悧に、ぼんやりとした瞳で見返されて、長椅子の側にしゃがみ込んだ希更は、苦笑した。
「寝ぼけてるな。――落ち着いて、よく聞いてください。あなた、おんぶされて、ここまで、運ばれて来たんです。って、ゼンッゼン、意味わかんないな」
自分ツッコミしてしまう。
「ああ、すみません」
笙悧は、マスクの中、もごもご、言って、体を起こした。掛けられてたタオルケットが落ちかけて、慌てて掴む。
「体、だいじょうぶ?」
希更は立ち上がり、手に持ってた名刺をスモックのポケットに入れると、タオルケットを取って、たたみながら、笙悧に聞く。
「はい…。いろいろ、すみません」
「ううん、ゼンゼン。1時間くらい、寝てたよ」
「すみません」
「ゼンゼン」
希更は長椅子の上に、タオルケットを置き、ポケットから名刺を出した。
「わたくし、こういう者でして、」
両手で名刺を、笙悧に差し出した。
ケーキ屋さん ぽぽんた
店長 ははそ きさら
手書き文字の、たんぽぽのイラストが入った可愛い名刺だった。住所・電話番号・SNSのQRコードが印刷されている。
笙悧は立ち上がり、両手で受け取った。
「手塚笙悧です」
笙悧は名乗って、『しょうり』は、勝ち負けの勝利だと思われているんだろうなと、いつも思う。
「おうちまで、送るよ、車で。」
「そこまで、していただかなくても」
「わたしたちが心配なの。『ちゃんと、おうちまで帰れたかな~』って、心配しちゃうでしょ。わたしたちの安心のために、おうちまで送られてください」
希更は言って、長椅子の端に置かれていたグラスを持って、立ち上がった。
「タオルケットは、そのまんまでいいよ」
「すみません」
笙悧は、名刺をリュックのポケットに入れると、抱えて、希更の後に付いて行った。
希更がドアを開けると、途切れ途切れにコードを弾く、アコースティックギターの音が聴こえた。
ドアを開ける前は、何も聴こえなかった。2階は、楽器の試奏をするために、防音になっているのだろう。
階段で1階へ下りて行くと、ケーキのショーケースの向こうには、給食帽子のような白いキャップをかぶって、スモックを着たメガネの男がいた。
自動ドアの右側の壁際には、ジャージの男が椅子に座って、アコースティックギターを抱え、途切れ途切れにコードを弾いている。
ジャージの上は脱いで、キレイにたたみ、アップライトピアノの前の長椅子の上に置いて、Tシャツになっていた。Tシャツには、ネコが右肩に乗っているようなプリントがあって、笙悧はマスクの中、ちょっと笑ってしまった。
ネコが、飼い主のへたくそなギターを、右肩に乗って、聴いてあげてるみたいで。
イートインスペースには、女子高生たちが、おしゃべりしながら、ケーキを食べ、コーヒーやジュースを飲んでいた。
その中に、子どもが数人いて、女子高生たちに、宿題を教えてもらっている。
「こっちは、うちの旦那、柞巌。漢字は、難しいから、ひらがなでいいよ」
「何だよ、その説明。」
希更の紹介に、ショーケースの向こうから、メガネの男――巌は、ツッコむ。
「あっちは、鷹司」
「名字、言わないでよ…」
顔を上げ、ギターを弾く手を止めて、ジャージの男、じゃなくて、ネコTシャツの男は、希更に言う。希更は、紹介を続ける。
「宇宙くん。『そら』は、青空の『空』じゃなく、宇宙と書いて『そら』と読む」
「普通に『空』で、いいのに…」
宇宙は、ぼやく。
笙悧は、説明必要な名前が自分と同じだなと思いながら、名乗った。
「手塚笙悧です。『しょうり』は、勝ち負けの勝利ではなく、楽器の『笙』に、りっしんべんに、利と書きます」
「え?え?え?どんな字?」
希更は聞き返し、巌も、宇宙も、全くわからないという表情で、笙悧を見返す。
「紙に書いて。紙。」
希更が言うと、巌が、ショーケースの隣にあるレジの奥の電話のメモ用紙とボールペンを差し出した。
笙悧は行って、ショーケースの上で、メモ用紙にボールペンで名前を書いた。希更も、宇宙もギターをスタンドに置いて、見に来る。
手塚 笙悧
「絶対、読めない」
宇宙が力強く断言した。
笙悧は、マスクの中、笑ってしまう。
「ほんとに、ぼくも、普通に勝ち負けの『勝利』でいいのに…と思います」
「名前ねえ、難いよね~。親は、いろいろ考えて、付けるんだけどさ。生まれたばっかの子と、相談するわけにもいかないし。」
希更は腕組みする。
「昔みたいに、幼名で、大人になってから、自分で、付けられれば、いいんだよ。俺も、普通に、『岩の男』で、よかったよ。『巌』なんて、習字の時間が地獄だぜ」
巌は言って、ボールペンを笙悧の手から取って、「手塚笙悧」の隣に、「柞 巌」と書く。
「『柞』の下、にじんだ黒丸だよ」
「俺は、黒丸・司・宇宙。」
宇宙が言う。
「笑わせないで~」
笑いながら希更は言って、巌の手からボールペンを取って、「半田 希更」と、「手塚笙悧」の逆隣に書いた。
「わたしは、若干、『更』の田の部分が、黒くなるね」
「子どもには、そんな苦しみを、俺たちは与えたくなかったんだ」
巌は、苦悶の表情を作って言う。
「だから、大と花。」
宇宙は納得して、希更の手からボールペンを取ると、メモの端に「大」と「花」と書いた。
お子さんも、いるんだ…
希更が首に結んでいる黄色のスカーフの下の、うなじの噛み跡。
「ほんと、そーゆーので、いいよね」
宇宙は言いながら、『空』と書く。
宇宙のボールペンの持ち方に、笙悧は違和感を感じて、左利きであることに気付いた。
自動ドアが開く音に、希更と宇宙と笙悧は振り返った。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
希更と巌と宇宙の声が、ハーモニーを奏でた。――笙悧は、そのハーモニーが、何だか、とてもうらやましかった。
希更と宇宙は、ショーケースの前から離れた。笙悧も離れた。
入って来たのは、会社帰りのサラリーマンだった。
疲れた顔で、ケーキが並ぶショーケースを眺め始める。
「んじゃ、帰りましょうか」
希更が言い出す。
「すみません。いろいろ、ご迷惑をおかけしました」
笙悧は、頭を下げた。
宇宙も希更も、巌もショーケースの向こうで、首を横に振ったけれど、頭を下げた笙悧には、見えていなかった。
笙悧は顔を上げた。
ちょうどショーケースを覗き込んでいたサラリーマンも顔を上げたところだった。
「ショートケーキに、その…チョコのクマ、ふたつ、うーん…ひとつは、シロクマにしようかな……でも、ケンカになるかなぁ…」
「そういう時は、同じ物、買った方がいいですよ」
巌が笑顔で、サラリーマンにアドバイスする。――巌の笑顔は、営業スマイルではない、本物の笑顔だ。
「昨夜ねえ、箱アイスの最後の1本を、私が食べちゃって。お姉ちゃんと弟が取り合いにならないように。って、親心だったんだけど、今朝、どっちからも『自分が食べようと思ってたのに!』って、ブチギレられちゃったんですよ」
「うふふふ」
サラリーマンの悲劇に、希更は思わず笑ってしまった。サラリーマンは振り返って、苦笑する。
「ごめんなさい、笑っちゃって。食べ物の恨みはねえ、恐ろしいですよね」
「そうなんですよ」
希更に、サラリーマンは、大きくうなずく。
「ケーキでも買って帰らないと、本当に、一生、口を利いてもらえなそうで。」
向き直ると、サラリーマンは言った。
「チョコのクマ、4つ、ください」
「そうですね。それが平和的解決ですね」
巌は笑顔で言って、ショーケースの向こう、しゃがみ込み、クマのチョコケーキをトングで取る。
クマのチョコケーキ4つが箱に詰められて、ショーケースに1つだけ、残った。
笙悧は、希更に聞いた。
「ケーキ、買わせていただいていいですか?」
「え?もちろん。どうぞ。」
きょとんとした顔で、希更は答える。
サラリーマンは会計すると、巌からケーキの箱を受け取って、笑顔で、ちょっと頭を下げた。
「お買い上げ、ありがとうございます。仲直りできるといいですね」
「そうですね。ありがとうございます」
サラリーマンは、希更にも、宇宙にも、笙悧にまで、笑顔で、ちょっと頭を下げて、出て行った。
笙悧はショーケースの前へ行き、覗き込むと、突然、希更が言った。
「ちょっと待って!お礼のつもりなら、買わなくていいよ!」
見抜かれてしまった。
「そういうわけではなくて、」
笙悧は言い訳を考えながら、振り返る。
「最後のクマの1匹、欲しくなったんだと思った…」
宇宙が、ぼそっと言った。
「そうなんです」
笙悧は、希更に向かって、うなずいた。
ギターや、金管楽器や、ハーモニカや、リコーダーや、鍵盤ハーモニカなど、ショーケースや棚に並ぶ楽器を、思わず見回してしまう笙悧に、笑って店員は説明した。
「元はね、楽器屋さんなんだよね。庇を借りて母屋を乗っ取ってやりました」
置いてある長椅子に座り、店員に水をもらって、笙悧はマスクを下ろし、抑制剤を飲んだ。マスクを口元に上げる。
目に入る所に、キーボードがある…
「落ち着くまで、いていいよ。横になっちゃってもいいから」
「すみません。ありがとうございます」
「ううん。ゼンゼン。」
ひらひら、手を振って、店員は行ってしまった。
Ωだから、自分の意志に反して発情してしまった時、あれこれ、気を遣われるよりは、放っておいて欲しい気持ちを、わかってくれてる。
笙悧は、グラスの水の残りを飲み干すと、長椅子の端に置いた。プラスチックなので、落ちても、割れることがないのは、安心だった。
リュックからスマホを出して見ると、意外と、料理教室の開始時間6分前だった。
料理教室があるビルは、アーケードを抜けて、左に曲がり、ちょっと行った所だ。今から行けば、多少の遅刻で着ける。
笙悧は、希望して、番のいないΩ男性のクラスに入っていた。これ以上、発情させられることもない。
でも、料理教室までの道で、αに会ってしまったら、
笙悧は、料理教室に、欠席のLINEをした。スマホをリュックに入れ、ファスナーを閉めて、長椅子の端に置いた。逆の端の方に座り直すと、上半身だけを横にして、目を閉じた。
目を開けていると、キーボードが見えて、ふらふらと行って、弾き始めてしまいそうだった。
アーケードを通ると、不特定多数のαのフェロモンを嗅がされるのが嫌で、線路沿いの道を、笙悧は、いつも歩いていた。人通りがなく、線路の安全のためか、夜も街灯が明るかった。
でも、これからは、アーケードを息を止めて、早歩きで、通り抜けよう……
「もしもし、起きて」
知らない声が聞こえて、揺り動かされる。笙悧は、目を開けた。
白い給食帽子をかぶった、まんまるい顔があった。首には、黄色いお花を着けている。
「車で送るよ」
「……………」
笙悧に、ぼんやりとした瞳で見返されて、長椅子の側にしゃがみ込んだ希更は、苦笑した。
「寝ぼけてるな。――落ち着いて、よく聞いてください。あなた、おんぶされて、ここまで、運ばれて来たんです。って、ゼンッゼン、意味わかんないな」
自分ツッコミしてしまう。
「ああ、すみません」
笙悧は、マスクの中、もごもご、言って、体を起こした。掛けられてたタオルケットが落ちかけて、慌てて掴む。
「体、だいじょうぶ?」
希更は立ち上がり、手に持ってた名刺をスモックのポケットに入れると、タオルケットを取って、たたみながら、笙悧に聞く。
「はい…。いろいろ、すみません」
「ううん、ゼンゼン。1時間くらい、寝てたよ」
「すみません」
「ゼンゼン」
希更は長椅子の上に、タオルケットを置き、ポケットから名刺を出した。
「わたくし、こういう者でして、」
両手で名刺を、笙悧に差し出した。
ケーキ屋さん ぽぽんた
店長 ははそ きさら
手書き文字の、たんぽぽのイラストが入った可愛い名刺だった。住所・電話番号・SNSのQRコードが印刷されている。
笙悧は立ち上がり、両手で受け取った。
「手塚笙悧です」
笙悧は名乗って、『しょうり』は、勝ち負けの勝利だと思われているんだろうなと、いつも思う。
「おうちまで、送るよ、車で。」
「そこまで、していただかなくても」
「わたしたちが心配なの。『ちゃんと、おうちまで帰れたかな~』って、心配しちゃうでしょ。わたしたちの安心のために、おうちまで送られてください」
希更は言って、長椅子の端に置かれていたグラスを持って、立ち上がった。
「タオルケットは、そのまんまでいいよ」
「すみません」
笙悧は、名刺をリュックのポケットに入れると、抱えて、希更の後に付いて行った。
希更がドアを開けると、途切れ途切れにコードを弾く、アコースティックギターの音が聴こえた。
ドアを開ける前は、何も聴こえなかった。2階は、楽器の試奏をするために、防音になっているのだろう。
階段で1階へ下りて行くと、ケーキのショーケースの向こうには、給食帽子のような白いキャップをかぶって、スモックを着たメガネの男がいた。
自動ドアの右側の壁際には、ジャージの男が椅子に座って、アコースティックギターを抱え、途切れ途切れにコードを弾いている。
ジャージの上は脱いで、キレイにたたみ、アップライトピアノの前の長椅子の上に置いて、Tシャツになっていた。Tシャツには、ネコが右肩に乗っているようなプリントがあって、笙悧はマスクの中、ちょっと笑ってしまった。
ネコが、飼い主のへたくそなギターを、右肩に乗って、聴いてあげてるみたいで。
イートインスペースには、女子高生たちが、おしゃべりしながら、ケーキを食べ、コーヒーやジュースを飲んでいた。
その中に、子どもが数人いて、女子高生たちに、宿題を教えてもらっている。
「こっちは、うちの旦那、柞巌。漢字は、難しいから、ひらがなでいいよ」
「何だよ、その説明。」
希更の紹介に、ショーケースの向こうから、メガネの男――巌は、ツッコむ。
「あっちは、鷹司」
「名字、言わないでよ…」
顔を上げ、ギターを弾く手を止めて、ジャージの男、じゃなくて、ネコTシャツの男は、希更に言う。希更は、紹介を続ける。
「宇宙くん。『そら』は、青空の『空』じゃなく、宇宙と書いて『そら』と読む」
「普通に『空』で、いいのに…」
宇宙は、ぼやく。
笙悧は、説明必要な名前が自分と同じだなと思いながら、名乗った。
「手塚笙悧です。『しょうり』は、勝ち負けの勝利ではなく、楽器の『笙』に、りっしんべんに、利と書きます」
「え?え?え?どんな字?」
希更は聞き返し、巌も、宇宙も、全くわからないという表情で、笙悧を見返す。
「紙に書いて。紙。」
希更が言うと、巌が、ショーケースの隣にあるレジの奥の電話のメモ用紙とボールペンを差し出した。
笙悧は行って、ショーケースの上で、メモ用紙にボールペンで名前を書いた。希更も、宇宙もギターをスタンドに置いて、見に来る。
手塚 笙悧
「絶対、読めない」
宇宙が力強く断言した。
笙悧は、マスクの中、笑ってしまう。
「ほんとに、ぼくも、普通に勝ち負けの『勝利』でいいのに…と思います」
「名前ねえ、難いよね~。親は、いろいろ考えて、付けるんだけどさ。生まれたばっかの子と、相談するわけにもいかないし。」
希更は腕組みする。
「昔みたいに、幼名で、大人になってから、自分で、付けられれば、いいんだよ。俺も、普通に、『岩の男』で、よかったよ。『巌』なんて、習字の時間が地獄だぜ」
巌は言って、ボールペンを笙悧の手から取って、「手塚笙悧」の隣に、「柞 巌」と書く。
「『柞』の下、にじんだ黒丸だよ」
「俺は、黒丸・司・宇宙。」
宇宙が言う。
「笑わせないで~」
笑いながら希更は言って、巌の手からボールペンを取って、「半田 希更」と、「手塚笙悧」の逆隣に書いた。
「わたしは、若干、『更』の田の部分が、黒くなるね」
「子どもには、そんな苦しみを、俺たちは与えたくなかったんだ」
巌は、苦悶の表情を作って言う。
「だから、大と花。」
宇宙は納得して、希更の手からボールペンを取ると、メモの端に「大」と「花」と書いた。
お子さんも、いるんだ…
希更が首に結んでいる黄色のスカーフの下の、うなじの噛み跡。
「ほんと、そーゆーので、いいよね」
宇宙は言いながら、『空』と書く。
宇宙のボールペンの持ち方に、笙悧は違和感を感じて、左利きであることに気付いた。
自動ドアが開く音に、希更と宇宙と笙悧は振り返った。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
希更と巌と宇宙の声が、ハーモニーを奏でた。――笙悧は、そのハーモニーが、何だか、とてもうらやましかった。
希更と宇宙は、ショーケースの前から離れた。笙悧も離れた。
入って来たのは、会社帰りのサラリーマンだった。
疲れた顔で、ケーキが並ぶショーケースを眺め始める。
「んじゃ、帰りましょうか」
希更が言い出す。
「すみません。いろいろ、ご迷惑をおかけしました」
笙悧は、頭を下げた。
宇宙も希更も、巌もショーケースの向こうで、首を横に振ったけれど、頭を下げた笙悧には、見えていなかった。
笙悧は顔を上げた。
ちょうどショーケースを覗き込んでいたサラリーマンも顔を上げたところだった。
「ショートケーキに、その…チョコのクマ、ふたつ、うーん…ひとつは、シロクマにしようかな……でも、ケンカになるかなぁ…」
「そういう時は、同じ物、買った方がいいですよ」
巌が笑顔で、サラリーマンにアドバイスする。――巌の笑顔は、営業スマイルではない、本物の笑顔だ。
「昨夜ねえ、箱アイスの最後の1本を、私が食べちゃって。お姉ちゃんと弟が取り合いにならないように。って、親心だったんだけど、今朝、どっちからも『自分が食べようと思ってたのに!』って、ブチギレられちゃったんですよ」
「うふふふ」
サラリーマンの悲劇に、希更は思わず笑ってしまった。サラリーマンは振り返って、苦笑する。
「ごめんなさい、笑っちゃって。食べ物の恨みはねえ、恐ろしいですよね」
「そうなんですよ」
希更に、サラリーマンは、大きくうなずく。
「ケーキでも買って帰らないと、本当に、一生、口を利いてもらえなそうで。」
向き直ると、サラリーマンは言った。
「チョコのクマ、4つ、ください」
「そうですね。それが平和的解決ですね」
巌は笑顔で言って、ショーケースの向こう、しゃがみ込み、クマのチョコケーキをトングで取る。
クマのチョコケーキ4つが箱に詰められて、ショーケースに1つだけ、残った。
笙悧は、希更に聞いた。
「ケーキ、買わせていただいていいですか?」
「え?もちろん。どうぞ。」
きょとんとした顔で、希更は答える。
サラリーマンは会計すると、巌からケーキの箱を受け取って、笑顔で、ちょっと頭を下げた。
「お買い上げ、ありがとうございます。仲直りできるといいですね」
「そうですね。ありがとうございます」
サラリーマンは、希更にも、宇宙にも、笙悧にまで、笑顔で、ちょっと頭を下げて、出て行った。
笙悧はショーケースの前へ行き、覗き込むと、突然、希更が言った。
「ちょっと待って!お礼のつもりなら、買わなくていいよ!」
見抜かれてしまった。
「そういうわけではなくて、」
笙悧は言い訳を考えながら、振り返る。
「最後のクマの1匹、欲しくなったんだと思った…」
宇宙が、ぼそっと言った。
「そうなんです」
笙悧は、希更に向かって、うなずいた。
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