βなんか好きにならない

切羽未依

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発情期

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 それでも笙悧しょうりは、お兄ちゃんのやさしさに、甘えるしかなかった。

暖「だいじょうぶ?
  18:30には家にいます」

 月曜日。笙悧の発情期の一日目、いつもと変わらず、だんは、仕事が終わるとすぐに、LINEを送ってくれた。
 笙悧は返信した。

しょうり「行きます」

 暖から即レスで、大盛りご飯のスタンプが返って来た。

 笙悧は、母親に、暖の家へ行って来ることを言って、家を出た。
 同じマンションの上の階の、暖の家に行くと、ドアキーのアプリでロックを解除して入った。
 リビングルームへ行くと、照明を点け、キッチンへ直行する。冷蔵庫に頭を突っ込み、野菜室を引き出し、冷凍室を引き出して、見る。

 笙悧は、きょろきょろ、リビングルームへ歩いて行き、大きな窓の前の室内物干し台に掛かった物干しハンガーから、緑のチェックが薄れたエプロンを取って、掛けた。
 外は、もう真っ暗で、向かいのマンションの窓の明かりが、ぽつぽつ、ともっている。

 笙悧は、室内物干し台の横に立って、見てみた。広いバルコニーがあって、下は見下ろせなかった。


 コンビニが見えたとしても、今日は、月曜日だから、宇宙そらは、いないか。


 笙悧は、カーテンを閉めようとして、室内物干しを動かさないと、閉められないことに気付いた。
 洗濯物は乾いているが、取り込んで、たたんでいる時間はない。
 カーテンを閉めることは、あきらめて、キッチンに戻ると、ハンドソープで、手をしっかり、洗って、料理を始める。




 暖が帰って来るまでの、たった1時間は、あっという間に過ぎ去っていた。
 ドアが開く音に、笙悧が顔を上げると、ダークグレーのスーツのだんが、リビングルームに入って来た。
「ただいま」


 きっちりと前髪を分けて、スーツを着た、ビジネスモードの暖に、今さら、笙悧は、ドキッとしてしまう。
 αのフェロモンの嫌な臭いは、IHヒーターにかけている鍋の肉じゃがの匂いでまぎれて、感じなかった。


「おかえりなさい」
 ちゃんと謝らなきゃ。そう思った分、笙悧は出遅れた。

一昨日おとといは、ごめん」
 先に、暖に謝られてしまった。
 笙悧は、首を横に振り、謝った。
「ううん。ぼくこそ、ごめん」
「笙悧、」
 暖は笙悧を呼んで、何も言わず、黙り込んだ。
 笙悧は、「何?」と聞き返すことができない。



 黙り込んでいた暖が、口を開いた。
「束縛するわけじゃないんだよ。土曜日、宇宙そらくんと、どこに行ってたか、聞いていい?」
「ぼく、言ってなかった?」
「言ってないよ…」
 暗い声と暗い顔で、暖が答える。

 申し訳ない気持ちで、笙悧は、胸がいっぱいになる。
「本当に、ごめん。児童館に行ってたんだ。すぐ近所にあるんだよ。グランドピアノがあって、そこで練習してた」
「『じどうかん』?」
「うん。児童館で、学童保育してて、そこで、宇宙そらが、学童補助員やってて、学童指導員さんもいて、児童館の職員さんもいた」
 決して二人きりではなかったことを、笙悧は、強調する。

「ごめん。『じどうかん』って、何?」
「えーと、……」
 暖に聞かれて、笙悧は、必死に思い出す。
「『児童館』というのは、児童福祉法第40条に規定する児童厚生施設のひとつである」
くわしすぎる説明だな…」
 暖は感心した。笙悧は、ちょっと恥ずかしくなる。
「一応、社会学部だから、こういうの、試験に出るんだよね」
「ご講義を拝聴はいちょうする前に、着替えて来ていいですか?」
 暖が挙手きょしゅして、笙悧に聞いた。
「もお~、お兄ちゃん~」
 からかわれて、笙悧は笑う。

 リビングルームを歩いて行く暖に、笙悧は言う。
「あ。お兄ちゃんのエプロン、借りたよ、干してあったの。」
「笙悧のエプロン、クローゼット開けたら、入ってたのに。」
「あ。エプロン、持って来なくていいからね!」
 声を上げて、笙悧は言った。
 暖は、聞こえなかったふりで、リビングルームを出て行った。


 しばらくして、灰色のネルシャツと黒いパンツに着替えた暖が、やっぱり青いエプロンを持って来た。
「お兄ちゃんのエプロン、使ってるから、いいってば。」
 笙悧が言うと、暖は、自分で、青いエプロンをかけようとして、やめて、たたんだ。

「いっしょに、キッチンに立つイベントは、まだ、とっておこう…」
 暖は、つぶやきながら、キッチンの前のカウンターの椅子に座った。隣の椅子に、青いエプロンを置く。

「お兄ちゃん、心のつぶやきが、ダダ漏れてるよっ」
 笙悧はツッコむ。
 小皿を持って来て、ふきんを使って、としぶたを取り、ちょっと悩んで、調理台に置いた。おたまで、すくった煮汁を、小皿に入れて、暖に差し出す。

「味見イベントする?」
「する」
 即答して、うやうやしく、両手で小皿を受け取る暖に、笙悧は笑ってしまう。

 ゆっくり、味わった後、暖は感想を述べた。
「ちょっと甘いかな…」

 暖から返された小皿を、受け取った笙悧は、言う。
「肉じゃがって、しょうゆ寄りの味付けと、さとう・みりん寄りの味付けがあるんだよね」
 小皿を、調理台に置く。
「料理教室で、調味料の分量は決まってるけど、最終的に、自分で味、決めるじゃないか」
「そうだね」
「先生に言われて、お互いの肉じゃがを食べ合ったら、ほんと、全然、味がちがうの。めっちゃ驚いた」
 話しながら、笙悧は、計量カップに水を入れ、鍋に足して、おたまに、しょうゆを少し出して、鍋に回し入れる。
 鍋の持ち手を持って、軽く揺すり、味を行き渡らせる。
 少し待って、おたまで、すくった煮汁を、小皿に入れて、暖に差し出す。

 再び、うやうやしく、小皿を受け取って、暖は、ゆっくり、味わう。
「これでも、ちょっと、足りない気がするけど…」
「煮詰まると、味が濃くなるから、これくらいでいい、ような気がする……」
「ぼく、分量で味付けなんて、したことないからなあ…『これを何グラム』なんて、明確に指示できない」
 暖は小皿を、笙悧に返す。

 笙悧は、調理台に置いたとしぶたを洗ってから、鍋に入れた。小皿は水で流してから、食洗器に入れる。

 笙悧は、話の続きを始める。
「児童館に、グランドピアノがあるんだよ」
「近所って、言ったよね?」
「うん。マンションの前の道、渡って、右に行って、真っすぐ。ほんと、すぐ近所。」
「そんな近所?」
「知らなかったよね。そんな近所に、グランドピアノがあるなんて。」

 笙悧は、ピアノの調律のこと、宇宙そらが学童補助員をしていること、子どもに勉強を教えたり、ピアノを弾いたりしたこと、お弁当やおやつのことを話した。
――宇宙が、自分がやりたいことを探してるという話は、個人情報なので、話せなかった。

「肉じゃが、もう、いいんじゃない?」
 暖に言われて、慌てて笙悧は、ふきんを使って、落とし蓋を取った。
 菜箸さいばしで、じゃがいもを刺す。菜箸はとおって、煮えたじゃがいもが割れる。にんじんにも、刺す。菜箸はとおった。刺したにんじんから、菜箸を引き抜くと、IHヒーターをOFFにした。

 それから、笙悧は、まな板を置き、冷蔵庫から、なすと油揚げを持って来た。

「ん?まだ?」
 暖に聞かれて、笙悧は、答えた。
「おみそ汁を作ってる間に、冷まして、味をませるんだよ」
「笙悧が、すっかり料理男子になってる…」
 暖は、感動のウソ泣きをしてみせる。
 あきれ顔で、笙悧は、なすを洗う。

 大学の夏休みをダラダラ過ごしていた自分に、
「料理教室でも行ってみたら?」
 そう言ってくれた母親に、今では、感謝する気持ちは、ある。
 でも、言われた時には、昔だったら、「指をケガする」って、ぼくに料理なんてさせようとも思わなかっただろうな。と、笙悧は思っていた。


 笙悧は、おみそ汁を作って、本日2回目の味見イベントを開催した。
「ん。ちょうどいい。美味しい」
 暖から一発合格を勝ち取って、うれしくなる。
 冷ました肉じゃがを煮返にかえす。

 肉じゃが。
 大根とパプリカのマリネ。
 なすと油揚げのみそ汁。
 何の魚かわかんないけど、冷凍庫にあったパックの白身しろみざかなを焼いた。
 炊き立てのごはんを、茶碗に盛る。水は、「少しかため」の目盛りに合わせた。


「いただきます」
「いただきます」
 二人で、手を合わせて、声を合わせて、言った後、食べ始める。

 早速、暖が、肉じゃがを食べる。
 もぐもぐ、暖が噛み締めている間中、笙悧は、ドキドキして、かためのごはんを、噛み締めていた。

 暖が、とても言いにくそうに言った。
「まだ、改良の余地は、あるかな?」
忌憚きたんのないご意見をありがとうございます」
 笙悧は、頭を下げた。
 
「美味しいは、美味しいんだよ。今度、ぼくが作ってみる。味って、難しいね。言葉じゃ、伝えられない」
「そうだね…」
 笙悧も、肉じゃがを食べてみる。
 甘めの味付けで、育って来た笙悧の舌には、物足りない味だった。

 暖は、大根とパプリカのマリネを食べる。
「大根が、シャキシャキしてて、美味しいな。パプリカは、こんな食べ方、あるんだね」
「これね、お兄ちゃんのオリーブオイルが、美味しいんだよ」
 普通に売っているオリーブオイルじゃなく、ラベルが外国語だった。
「そう?何か、どこかで買ったやつだよ」
 記憶があいまいな暖に、笙悧は言った。
「それ、海外だよね?」
「ええ?日本だよ。それは絶対。」

 その答えに、ほんとかなあ?と、笙悧が首を傾げていると、暖は、白身の焼き魚を食べる。
「この魚も美味しいなあ」
「それは、焼いただけ。」
 二人は笑い合う。


 ごはんの後、笙悧は、皿や鍋を食洗器に並べて、洗剤を入れて、開始ボタンを押す。
 暖は、ペットボトルのお茶を、2つのグラスに注ぐ。

 二人は、無言で、お茶を飲み終わると、どちらともなく、ダイニングテーブルに身を乗り出して、唇と唇を重ね合った。

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