βなんか好きにならない

切羽未依

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止まったままの心

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 マンションのエレベーターホールは、混雑していた。
 笙悧しょうりは、混雑から少し離れて、エレベーターを待つ。

 大部分がファミリータイプのマンションで、今の時間は、会社帰りの父親・母親が、ほとんどだ。つまり、番を持つ人たちばかりで、αのフェロモンの嫌な臭いは、感じない。
 実家に住む番を持たない独身のαもいる。中学生や高校生や大学生は、学校の部活、塾、予備校、バイトから帰って来るには、まだ早い時間だが、いないとは言い切れない。

 いつも笙悧は、今、待っている人たちが、ぎゅうぎゅうに乗る次に来るエレベーターには乗らず、その次のいたエレベーターに乗ることにしていた。


 Ωは、αのフェロモンで、突発的な発情を起こしてしまう恐怖や、起こしてしまった経験で、混雑や雑踏が苦手になる。
 笙悧は、αのフェロモンを嫌な臭いに感じる特殊能力のおかげで、αを避けられた。通学・通勤の満員電車は、大体、乗る時間、乗る人、乗る場所が同じなので、立つ場所に注意すれば、どうにか乗っていられた。


 エレベーターが下りて来て、ドアが開き、待っている人たちが乗り込んでいる間に、その次のエレベーターも下りて来て、ドアが開いた。

 どちらのエレベーターも、微妙に混雑していて、笙悧は、乗る気になれなかった。
 後に来たエレベーターは、ドアが閉まって、のぼり始めたが、先に来たエレベーターは、笙悧が乗り込むのを待って、ドアの「開」を押してくれている人がいた。

「ごめんなさい。乗らないです。すみません」
 気付いて、笙悧は声を上げて言うと、頭を下げた。

 顔を上げると、閉まりかけたエレベーターのドアの間に、うんざりした表情の顔が、いくつか見えて、笙悧は、うわ~…と、思う。
 ドアが閉まり、エレベーターがのぼって行く。

 自分のせいで、嫌な気持ちにさせてしまったことに、笙悧は反省して、うつむき、ふうと、ため息をついた。

 エレベーターホールに、独りきり、笙悧は残った。
 顔を上げて、階数表示を見ると、あと3機あるエレベーターは、どれものぼっている最中だった。

 朝も、混雑するが、くだりのエレベーターの行き先は必ず、1階なので、自分の家がある階でエレベーターを待っていても、1階に着いて上って来るまでの時間は、大体、わかる。
 でも、帰宅のエレベーターは、どこまで上って行くか、わからない。
 下の方の階で、自分以外、乗っていた人が降りて、広いエレベーターに、たった一人で、ぽつんと、上って行くことも、よくある。


 これから、母親と対決しなければいけないことを考えると、階数表示の矢印が、下へ変わらないことを祈ってしまう。
 なんとなく笙悧は振り返って、エントラン入口スの方へ向いてしまう。

 大きなガラスの扉の向こう、ここからは見えないけれど、交差点があって、その先に、コンビニがある。宇宙そらがいる。


 市民祭には出られなかったけど、練習だけだったけど、宇宙の歌の伴奏ができて、ほんと楽しかっ
 ってゆーか、この状況、宇宙のせいだよね!自業自得じゃん!市民文化会館のステージで、ヘタクソなギター弾いて、途切れ途切れに歌って、みんなに笑われればいいんだよ!!

 怒ってるのに、目からは涙が出て来て、笙悧は、うつむいて、カーディガンの裾で、ぬぐった。

 きっといわおさんがフォローしてくれる。ちゃんと、宇宙は歌える。
 嫌だ。
「笙悧のピアノじゃなきゃ歌えない」って言って。
 歌わないで、ぼくのピアノ以外で。


 笙悧は、はっとした。
――何で、ぼく、ピアノを弾くこと、勝手にあきらめてんの?お母さんの言うこと、おとなしく聞く年齢としかよ?ぼく、20歳はたちだよ?


 ピアノを弾いていた小学生・中学生のまま、笙悧の心は止まっていた。


 今は、一人で、電車だって乗れる。自分で、ごはんも作れる。お母さんに怒られたって、見捨てられたって、何にも困んない。
「ぼくはピアノを弾く!」って言ってやる!!


 決心したのに、エレベーターが、なかなか来なかった。



 やっと来たエレベーターに乗って、笙悧しょうりは家に帰ると、リビングルームのドアを開け、

「おかえりなさいっ、笙悧」
「おかえりっ、笙悧」
 ソファーに座った母親が背もたれから振り返り、ソファーの肘掛ひじかけに腰掛けた父親が振り返り、二人そろって、引っくり返った声で言った。


 リビングルームのドアを開けるなり、母親の怒り狂った声が響き渡ることを覚悟していた笙悧には、予想外すぎる展開だった。


 父親は会社から家に帰って、すぐに母親に話しかけられると、いつもソファーの肘掛けに腰掛けて聞く。

「着替えてから聞くよ」と言えば、妻の機嫌きげんが確実に悪くなる。でも、帰りの電車で立ち通しの疲れた足で、立ったまま聞いているのは、つらい。けれど、ソファーに座ってしまえば、妻が本格的に話し込んでしまう。
 ソファーの肘掛けに腰掛けるのは、あくまでも、「話を聞くだけ」というポジションだった。


 帰って来たばかりの父親に、母親が何を話しかけたかは、わかっている。


「お父さん、着替えて来ようかな」
 わざわざ宣言して父親は、腰掛けていたソファーの肘掛けを立った。

「ちょっと待って、お父さん」
 笙悧は、父親を呼び止めた。

 父親は困り顔で、ソファーの肘掛けに、横向きに座った。

 巻き込まれたくないよね!でも、お母さんと1対1の対決は、つらすぎるから、そこにいるだけ、いて!!
 と、笙悧は、心の中で、父親に向かって、叫ぶ。


 笙悧は、ソファーの側まで行って、言った。
市民祭しみんまつりで、宇宙そらの歌の伴奏をピアノで弾きます。ひっ」
 決心は、喉に引っ掛かった。息継ぎして、笙悧は言い直した。
「『弾くな』って言っても、ぼく、弾くからっ」

 母親は聞いた。
「宇宙くんと会ったの?」
 責めるとこ、そこかよ…と思いながら、笙悧は答える。
「もう知ってるよね?宇宙は、向かいのマンションのコンビニで、バイトしてるんだよ。会おうとしなくたって、通りすがりに会うよ」
「…お父さんも、見ちゃったんだよね…」
「えっ!」
 笙悧が声を上げて見ると、父親は、背中を丸めて、心の底から申し訳なさそうな顔で、見返す。

「通りすがりに、コンビニの前で、仲良く話してる二人がいて、見たら、うちの子、浮気してる!!って、びっくりして、慌てて家に帰った」
 父親に見られていたことに、笙悧は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「何で家に帰るんだよっ」
「お母さんに相談しようと思って…」
「やってること、子どもだよっ」
 笙悧が叫ぶと、ますます父親は、申し訳なさそうな顔になる。

「浮気なんかじゃなくて。宇宙とは、歌とピアノの練習してたんだよ」
 笙悧が言うと、父親は申し訳なさそうな顔のまま、言う。
「練習してるようには見えなかったけど…。宇宙くんって子、ラーメン、食べてたよね?」
「さっきは、話してただけ。――わかって言ってるよねっ?お父さんっ」

 父親は、ますます申し訳なさそうな顔になった。
「エレベーターで上がってる時に、あの人が、だんくんが言ってた、宇宙そらくんって人か、って気付いたんだけど、そうなると、見たことを、お母さんに言うべきか、言わないべきか、悩んでね…この前、笙悧が、あの人に会いに行くって誤解して、激怒ゲキオコだっただろ……」
 ほっと、短く息をついた。
「そしたら、お母さんの方から、宇宙くんに会った話、始めたから、お父さん、本当に、ほっとした~」

 笙悧は、ソファーの肘掛けに座っている父親と話し続けて、ソファーの背もたれから振り返っている母親の方は見ることもできずにいた。


だんくんは、あなたがピアノを弾いていることも、市民祭に出ることも、知ってるの?」
 聞いて来る母親の方を、笙悧は見られないまま、父親のスーツのジャケットの肩を見つめながら、答えた。
「知ってる」
「この前の土曜日、暖くんと買い物に行ったのも、本当は、宇宙くんと練習」
「そんなことしないって。」
 笙悧は、母親に向かって、否定した。
 母親にまで、そんな嘘をつくと思われたことにムカつく。

「そう…」
 母親は、笙悧の怒った顔を見つめ返し、そして、言った。
宇宙そらくんから、あなたがピアノを弾くことを聞いて、お母さん、ほんとに、うれしかった」

「え…」
 笙悧は、両瞳を見開いて、母親を見つめ返した。
 母親の瞳は、きらきらしていた――今にも泣き出しそうに。

「お母さん…ずっと、後悔してた。ピアノを辞める時、あなたの気持ち、ちゃんと聞かなかったなって。」
 小さく、母親は首を横に振った。
「ううん。ピアノを弾いてる時も。あなたが本当に、どうしたいのか、聞いてなかった」
「……ぼくがピアノ弾くの、めないの?」
「当たり前じゃない」
 笙悧が聞くと、母親は答えて、微笑もうとして、両瞳から涙がこぼれた。

 父親が、座っていた肘掛けから慌てて下りて、ローテーブルの下の棚の箱ティッシュから1枚、取ると、きちんと二つ折りにして、妻に差し出した。

「ありがと」
 母親は受け取って、二つ折りのティッシュを目に当てて、泣き出す。

 父親は、ソファーの隅に積み重ねたソファーの下から、市民祭のプログラムを引っ張り出すと、両手で差し出して、笙悧に見せて、言った。
「知らないふりしてね、こっそり、市民祭を見に行こうかって、お母さんと、話してたんだよ」
 泣いている母親も、二つ折りのティッシュを目に当てたまま、うんうん、うなずく。


 父親が、おずおず、言った。
「でも、このことは、琴音笙悧の妹には、言わないでやってくれないかな?受験で、大変な時期だから。」
「そうだよね…」
 父親に言われて、笙悧は、自分のことだけしか考えていない自分が嫌になる。


 ぼくも「お兄ちゃん」なんだけどな。
 でも、琴音ことねのために、あれこれ、言ったり、やったりしても、全部、邪魔にしかならない絶対の確信がある………


「今だから、言えるけど――」
 けれど、言いかけて父親は、口を閉じる。

 二つ折りのティッシュを目から外した妻に、不安そうな表情で息子に、見つめられて、父親は、作り笑いで、笑い話のように言った。
「お母さんが、笙悧のピアノのレッスンに、ずっと付き添っていた時は、二人きりで、さびしかったんだよ~。琴音は、なんにも言わなかったけれどね。でも、まあ、お父さんなので、娘を見てれば、気持ちがわかるってゆーか。」

 また妻の両目に、涙が浮くのを見て、夫は慌てて付け足す。
「もちろん君は、琴音のために、夕食を完璧に作って、笙悧を学校に迎えに行ってた。母親としての責任は、琴音に対してだって、ちゃんと果たしていたよ」

 息子に向かって、付け足す。
「お父さんだって、がんばっている笙悧を、心から応援していたよ」
「うん」
 笙悧は、うなずいた。必ずコンクールは、父親は平日でも会社を休んで、来てくれた。


「笙悧がピアノをまた弾き始めたと知ったら、琴音が、あの頃の気持ちを思い出してしまうんじゃないかと、お父さんは、思ってしまってね……」
 父親は、市民祭のプログラムを、大切に両手でローテーブルに置くと、両手を伸ばして、母親と息子の頭を、ぽふぽふ、撫でた。

「じゃ、お父さん、着替えて来ていいかな?」
 父親が聞くと、母親が言った。
「本当に、ありがとう。あなたがいてくれなかったら、笙悧と二人で話してたら、ケンカになっちゃってた」

 それを聞いて、笙悧は、父親の冗談交じりの話し方も、母親と自分のあいだのクッションになってくれていたことに気付かされる。

「感謝してもらって、申し訳ないけど、俺、この場から、逃げようしてたからね」
 苦笑いで、父親が言った。

 笙悧と母親は、一番初めに、父親が着替えに逃げようとしていたことを思い出して、いっしょに笑った。


 笙悧は、着替えに行く父親に付いて、リビングルームを出て、自分の部屋へ行き、リュックを下ろして、カーディガンを脱いだ。
 カーディガンをハンガーに掛け、そうだ!お兄ちゃんに、「お母さんに、ピアノ弾くこと、バレたけど、だいじょうぶだった」って、言いに行かなきゃ!と思った。


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