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二冊目 助演の誇り

助演の誇り―1

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 木造二階建ての古民家、その一階に物書き屋はある。通りに面したところに扉と、大きな窓がある。柳は外に出て、朝日を浴びて体を伸ばした。
「よしっ!」

 腰にエプロンを巻き付けると、掃除道具を取り出した。表を箒で掃いていると、三毛猫と目が合った。引き戸の曇りガラスを丁寧に磨き、『物書き屋』と彫られた銅製の看板を綺麗に拭く。軒下にかかったその看板は、朝日を反射して、ゆらゆらと風に揺れる。そして、入り口に『開店』のプレートの代わりに『ご予約』をかけた。

 今度は羽のはたきに持ち替えて、店内のほこりを掃除していく。柳のこの習慣のおかげで本にほこりが積もることもない。八割方、羽が店内を巡ったころ、桜子が顔を出した。

「なんじゃ、早いのう」
「おはようございます。今日は朝に予約が入っているので」
「そうだったか。むー、まだ眠いのじゃ。もう少し寝る」
 覚醒しきらない目をこすりながら、桜子は再び二階へと戻っていった。柳は肩をすくめて笑うだけそれ以上は何も言わずに、開店準備を進めた。



 カウンターで一息ついていると、引き戸が開かれ、背の高いすらりとした女性が入ってきた。黒のスキニーパンツに、ブラウンのロング丈シャツを羽織っているので、よりそのスタイルの良さが際立っている。柳は、立ち上がってお辞儀とともに迎え入れた。
「ようこそ、物書き屋へ」
「予約していた御園みそのすみれよ」
 女性は帽子を目深に被り、マスクをしていた。そのまま席に座ろうとするので、柳は、少し困ったように笑って、控えめに声をかけた。

「あの、お顔が見えないので、外していただけると……」
「ん? もしかして私を知らない? テレビは見ないタイプかしら」
「すみません。ここには、テレビなどは置いていないもので」
 すみれは、驚きと呆れが混ざったため息をつき、それなら仕方ないわね、と呟いた。帽子を取ろうとした手をピタッと止めて、店内を見回している。

「他に、客はいないわよね」
「はい。ご予約のときにそう伺っていましたので」
「いいわ」
 すみれは、マスクと帽子を外した。帽子を取ったと同時に、仕舞われていた長い黒髪がさらりと零れ落ちてきた。透き通る白い肌に、切れ長の目は見た者を射抜くかのように鋭く美しい。

「御園すみれ。女優をしている者よ」
「お綺麗ですね」

 柳は、お世辞の気配が微塵もない表情ですみれに微笑みかけた。すみれは一瞬きょとんとした顔をしてから、ふっと力を抜いて笑った。

「もう、調子狂うわ」
「何か失礼なことを言ってしまいましたか」
「いいえ。言われ慣れた言葉を、言われ慣れていない口調で言われたものだから」
「そういうものですか」
 柳は微笑みをそのままに、すみれを奥のテーブルへと案内した。

「ご依頼と伺っておりますが、物書き屋のことはすでにご存知ですか?」
「ええ。同い年のファンの子からの手紙で知ったわ。双子の姉の結婚式がきっかけでここに来た、ぜひ行ってみてほしい、と。宝物があるって、私が前にどこかの雑誌で話したことを、覚えていてくれたみたいなのよ」
 すみれは、その手紙を思い出すように手元に視線を落として、ぽつりと呟いた。

「結婚おめでとうって手紙を書きたいところだけれどね」
「優しいのですね」
「優しい? 違うわ。許可が降りなければ結局手紙一つも書けないし、書かないわ。応援して、好きだと言ってくれることに返すのは当然のこと。女優はいい演技をして、返すのだとよく言うけれど、それで本当に返したことになるのかしらね……」

 前半は凛として自信を持って言っていたものの、だんだんと勢いをなくし、自問自答のようになっていた。柳は口を挟もうとはせず、わずかに首を傾けただけだった。一拍遅れて、すみれがはっとして椅子に座り直した。

「話が逸れたわね。依頼したいのは、この鏡よ」
 鞄の中から、紫色の花が装飾された折り畳み式の手鏡が出てきた。使い込まれているようで、よく見れば角が少し削れて丸くなっている。

「では、お預かりします。簡単な書類をお書きいただきたいので、少々お待ちください」
 柳は、カウンターへ紙を取りに一度席を外した。入れ替わりで、桜子が二階から降りてきた。

「あ、桜子さん。おはようございます」
「うむ」
 ここで、桜子とすみれの目が合った。お互い突然のことに驚いて目を見開いていたが、先に声を発したのはすみれだった。

「かっ!」
「?」
「可愛い!!」

 先ほどとはがらりと変わり、はしゃいだ声を上げながら、桜子に近づいた。突然、可愛いと褒められて固まっているのには構わず、すみれは桜子の頬を両手で包み込んだ。

「わー、すべすべぷにぷにしてるわ。可愛いすぎる。娘さん……? いや、妹さんかしら」
「大家じゃ!!」

 大声とともに桜子が身をよじり、すみれの手から抜け出した。天敵から逃げるウサギのように、素早い動きで柳の後ろに隠れた。今日の桜子は明るめの赤色に白、黄色、ピンクのパステルな花が咲いている着物だった。組み紐で編まれたバレッタを付けている。

「な、なんじゃ、こいつは!」
「依頼に来られた、御園さまです」
 なおも桜子に構おうとするすみれだったが、我に返って、ごめんなさい、と呟いた。

「私、可愛いものが大好きで。でも普段はあまり表に出さないものだから、不意をつかれた感じで、つい……」
 来た時よりも、すみれの顔が穏やかになっている。こちらの方が素に近いのかもしれない。柳は書類をテーブルに置いた。

「こちらに名前をお願いします」
「分かったわ」
 ペンが動かし、御園すみれと記したとき、桜子がひょこっと顔をのぞかせて不思議そうに言った。

「おぬし、なぜ違う名前を書くのじゃ?」
「!?」
 すみれの反応から察するに、『御園すみれ』は本名ではなく、芸名なのだろう。言っていないのに、桜子に一瞬にして見抜かれて、すみれは驚きと共に興味深くじっと桜子を見つめている。
 桜子の瞳は、幼い見た目にそぐわず全てを見透かしているかのように深く、それでいて澄んでいる。

「あなた、名前は」
 すみれがそう尋ねるが、桜子はまだ警戒しているらしく、答えない。すみれに見られているのに気付いて、柳は苦笑とともに答えた。

「桜子さん、です」
「そう。……ねえ、新しい紙もらえる?」

 柳から新しい紙を受け取ったすみれは、名前の欄に『園田そのだすみれ』と記した。

「園田さまのご依頼、物書き屋が店主、柳が承りました」
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