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六冊目 愛しい名前
愛しい名前―7
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柳に背を向けられて、桜子はその場にぼう然と立ち尽くした。傍に立っていた沙希は、驚かせないように、そっと桜子の肩に手をおいた。
「帰ろう、桜子さん」
「あ、いや、三階に……」
桜子は肩におかれた手で、ようやく沙希の存在を思い出したようで、同時に本来の目的を果たさねば、となんとか声を出した。
「いいよ。帰ろう」
落ち着いた声音で、沙希は同じ言葉を繰り返す。桜子は力なく頷き、沙希の服の裾を小さな手で握り、博物館をあとにした。
桜子と沙希は、ほとんど無言のまま物書き屋に戻ってきた。沙希はもう一度、紅茶を淹れてみることにし、先ほどよりも意識して丁寧に作業をした。自分の分を少し味見してみると、なんとなく味わいが変わったような気がした。ミルクも見つけたので、それも持っていく。
「勝手に道具借りてごめんね。よかったら、どうぞ」
「すまぬ」
肩を落としたまま椅子に座っている桜子は、紅茶を一口飲んだ。美味しいのじゃ、と言ったが、その表情と声には元気がない。沙希は向かいに腰を下ろした。
「どうしたのか、聞いてもいい……?」
「うむ」
喉を潤すためか、桜子はもう一度紅茶を口にした。
「あいつ――柳に秘密にしていたことがあったのじゃが、それが知られてしまったのじゃ」
「それは、柳さんのことが嫌いで秘密にしてたの?」
「違う!」
桜子は机に手をついて、勢いそのままに立ち上がろうとした。その振動で紅茶がわずかにこぼれてしまい、冷静に戻って、座り直した。
「それは、違うのじゃ」
「うん。大切な人だから、そうしたんだね」
桜子は少しの間、無言だったが、ゆっくりと頷いた。
「大丈夫だよ、きっと。桜子さんのその気持ちはきっと伝わってる」
「そうかのう……」
不安そうに呟く桜子の小さな手を、沙希は両手で包み込んで、微笑んだ。
「じゃあ、柳さんに伝えよう。何度でも、伝えよう。会えるところにいるんだもん、それが出来るよ」
「そう、じゃの」
「心細かったら、私も一緒に行くから! ……ん? こういうときは、本人たちだけの方がいいのかな……? うーん」
自分のことのように悩み出した沙希を見て、桜子は余計な肩の力が抜けていた。
「うむ。ありがとう。紅茶を淹れてくれた礼じゃ。おぬしの話を聞こう」
「え?」
「まだ依頼の物を見てはおらぬが、あの博物館にある物たちは、相応の年数、価値のものじゃった。ただ、展示品が好きで、というわけではないじゃろう」
声音が戻ったと思ったら、見透かされたかのようなことを言われ、沙希は驚いて少し息を飲んだ。吸った息を吐いて、沙希は桜子を見つめた。
「ちょっとだけ、自分の話をしてもいい?」
「うむ」
「私ね、俗に言ういい子ちゃんだったの。だった、というか今もかもしれないけど。教科書的で模範的」
自虐的な笑みを浮かべながら、沙希が話し出した。
「それは、いいことでは、ないのか?」
桜子の疑問に、沙希はうーん、と答えに迷ったあと、ぽつりと言った。
「いいことなのかも。でも、生きづらいんだ」
「……」
「それでも、会いたい人がいるの」
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