リュッ君と僕と

時波ハルカ

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四日目

神社三たび

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 山間から太陽が上がろうとしていた。

 ユウキは目を覚ますと、仰向けのまま、しばらくぼんやり空を見つめていた。小さく星が瞬く空は、少しだけ青く明るく日が差し始めていた。

 ユウキは草原がたなびく場所に横たわっていた。

 冷たい風がユウキの身体を撫でていく。しばらくぼんやりとして寝転がっていたユウキだったが、やがて上体を起こして周りを見回した。白い参道の石畳と、その先には、下り坂道に続く鳥居が幾つも重なって、道に沿って並んでいた。反対側には、今までと同じように、もうだれも管理しなくなって久しいと思われる、廃墟と化した神社が見えた。

 ユウキの他には誰もいない。

 黙ったまま、ゆっくりと立ち上がるユウキは、ボンヤリとする頭を動かして、昨日の出来事を思い出していった。



 ダム湖が黒い渦に飲み込まれていく。

 首根っこを白い獣に咥えられ、ぶら下がったまま、ユウキはその様子を見ていた。

「うわああーん!リュッ君!りゅっくううーーーん!」

 獣の口元で激しく泣きながら、沖に消えていくリュッ君に向かって大声で呼びかけるユウキ。ダム湖を逆流し、見る見るその水位を上げていく黒い潮流が、波を隆起させて唸りを上げると、激しい轟音でユウキの声を掻き消して行った。

 黒い潮流には、溺れているかのようにもんどり打って、腕を上げてもがき苦しんでいる人影のようなものが幾つもの流れ、浮かんでは沈みを繰り返していた。うねりと轟音に紛れて、それら水辺に群れている人影が上げる唸り声も、地の底を這うようにユウキ達に届き、響き続けている。

 激しく上下する黒い濁流が足元まで迫ってくると、白い獣は、咥えたユウキの身体を持ち上げて、踵を返し、軽やかに木々の枝を飛び越えていった。そして、ユウキ達が目指していた対岸のロープウェイの駅舎に向かって行った。

 ダム湖の周辺の窪地は日の光を遮られていった。山々の影に隠れていく湖畔の街並みには、ポツポツと街の灯が浮かび上がり、対岸の岸辺には、洪水のように溢れかえる黒い流れを見守るように、黒い人影がその水辺や街中に佇んでいた。

 白い獣は湖畔のウッドデッキや道路を飛び越えると、ロープウェイの上に飛び乗った。ロープウェイの車両には電気が点いて、その周りにも、車両にも黒い人影が揺らいでいた。屋根の上から、ダム湖の方向に向かって白い獣が座ると、駅舎のベルが鳴り響いた。そして、ロープウェイがガクン!と振動を上げると、ケーブルが巻き取られ、動き始めた。

「うわあぁぁーーーん!リュックーーーん!」

 白い獣とユウキの二人を乗せて、ロープウェイがゆっくりと暗い山の傾斜を上がって行った。

 夜の闇が山間に影を落としていくと、ダム湖に流れ込んだ黒い濁流は、まるで闇に通じる巨大な穴のように、ダム湖を黒く染めていった。

 ロープウェイが山頂に近づくと、白い獣はそのまま、駅舎を飛び越えて、山道を駆け上って行った。ユウキは咥えられたまま、わんわん泣いた。白い獣は坂道に並ぶ鳥居をくぐっていくと、参道の脇にその身を横たえて、自分のお腹にユウキをそっと降ろした。

 降ろされたユウキが、声をしゃくり上げ、涙を拭きながら、やっと獣の方を見ると、白い獣も首をひねってユウキを見つめた。泣き腫らしたユウキが惚けたように獣を見つめると、ユウキの顔が徐々に歪んで行き、大きな声を上げて、再び泣き出した。

 獣は、激しく泣いているユウキの顔にごつんと自分の顔を当てると、ゆっくりと身体の向きを変えて、ユウキを包み込むように丸まった。ザワザワとさざめく粒子の波が、柔らかい草原のようにたなびいて、ユウキを優しく包んで行く。

 ユウキは、そんな獣に顔と身体を埋めてわんわんと泣いた。

 神社の境内に夜の闇が落ちていく。

 流れる雲のたなびきが、満点の星空を薄く隠すと、その向こうで月の光がゆらりと揺れた。夜の闇に包まれていく神社の境内で、白い獣に包まれたユウキは泣いて泣いて、泣き疲れて、そのまま眠ってしまった。



 今は、空も青く高く晴れ渡り、夏の虫の声が周りの森の奥から幾重にも泣き声を上げていた。

 誰もいない神社の境内で、当てもなく見回すユウキ。その耳にチョロチョロと水が流れる音が聞こえてきた。

 見ると、手水舎の水桶に水が溜まっていた。

 手水舎に近付いて脇にある手桶を取って水をすくうユウキ。左手、右手、口と拭って、手と口を清めると、手桶を脇に置いた。そしてその後、ザバザバと顔を洗って、ゴクゴクと水を飲む。はたと腕に巻かれた時計に気が付いた。時計の盤上にいるキャラクターは6時10分を指していた。ユウキはそれを確認すると。日の差す方と反対側の、神社の脇の開けた場所に向かって歩いて行った。木が壁を貫いて、崩れた壁のむこうに草原が続いているその向こうには、藍色の空が広がっていた。

 草原を横断して行くと、その先は高台になっていて、下には崖が続いていた。崖から見える遥か下には、昨日、ユウキ達がさまよい歩いたダムと、ダム湖のある場所が見えた。

 巨大で頑丈そうなコンクリート製のダムと、それにせき止められた大量の水を育んだダム湖が、ユウキが見つめる眼下に広がっている。まるで昨日の出来事が嘘のように、差し込む朝日の光を水面に反射させて、さざめく陽光を静かにその湖面にきらめかせていた。

 その様子を惚けた様に見つめるユウキ。呆気に取られたまま立ち尽くしていると、ユウキの背中から、
「ファン!」
と鳴き声が聞こえた。

 ユウキが振り返ると、そこには、白い小さな犬が座り込んでいた。

 振り返ったユウキは、ぱちくりと目をしばたたかせると、不思議そうに覗き込んだ。白いフサフサとした毛の塊のような小さなそれは、ハッハハッハと舌を出して、ユウキのことを見つめている。

 しばらく声もなく向かい合うユウキと子犬。ユウキがゆっくり寄っていくと、しゃがみこんで、その小さな白い犬の風体を覗き込んだ。

 逃げるでも無く、小さな黒い瞳でまっすぐユウキのほうを見ているその子犬の体は、長い白い毛並みに覆われていた。しかし良く見ると、その毛並みはちりちりとしてかすかに蠢いており、細かく小さな粒子がその毛先から千切れて揺れている。草葉に腰を落として舌を出して見つめるその姿を良く見ると、体のあちこちに黒く煤けたような、焼け焦げたような跡がジワジワと赤黒く光っていた。ユウキはその黒く煤けた部分を痛々しそうに見つめた後、その小さな犬の瞳を覗き込んだ。

「君は、あの、お犬さん?」

「ファン!」

 子犬がトットト立って、ユウキの周りをくるりと回った。そして、もう一度ユウキの前に来ると。ファン!と鳴いて、その足元に体を擦り付けた。ユウキはその子犬を抱きかかえると。目の前に持ち上げて笑いかけた。

「やっぱり!何度も助けてくれたんだね!ありがとう!」

 ユウキに抱きかかえられた子犬は、笑いかけるように口をあけて、フガフガッ!っと前に出てくると、ユウキの頬をぺろぺろと舐めた。しばらく、その子犬のじゃれるに任せていると、ふと、ユウキは、沖に流されていくリュッ君のことを思い出した。

 あっ!となった後、気が付いた。そうだ、あの黒い泥に流された時、リュッ君も、そのほかの荷物も流されてしまった!慌てて子犬を降ろして自分のポケットをまさぐる。手のひらにごつごつした感触が合った、それを取り出すと、手の中には、昨日までの道のりでゲットした☆が三つ入っていた。

 それを見て、ホッと胸をなでおろすユウキ。手を広げると、赤、青、黄色の☆が瞬いてふわりと浮かびあがった。そして、ユウキの周りをくるくると回って、右から赤、黄、青とならんでフワフワと浮かんだ。

「よかったー。なくしたかと思った」

 目の前に浮かんでいる☆を見て安心するユウキ。再び、ズボンのポケットをまさぐった。すると、方位磁石が現れた。中を開いて確認すると、方位磁石の針が少し揺れて、南北の方角を指している。ユウキはくるくる回って、その針がちゃんと動くことを確認した。

 方位磁石のふたをぱちんと閉めると、それをもとあったズボンのポケットに戻す。そして、次はパーカーのポケットに手を入れる。すると、中からカンパンの缶詰が出てきた。

「ひようしょくだ!だいじにもっとけ」
 濁流の中で大きく膨れ上がったリュッ君が、苦しそうにユウキに言っていた。

 ユウキはしばらくそれをじっと見つめると、口をへの字に曲げて、息を短く吸い込んだ。がまんしているのに、目から流れ出てくる涙が止められない。しゃっくりのように息が小刻みに止まらなくなって、胸のもやもやが大きく膨れ上がった。

 カンパンの缶詰を持った手で、流れる涙を拭いながら、しばらく泣き続けるユウキ。

「ファンファン!」

 ユウキに向かって、白い子犬が鳴いた。そしてその脇にちょこんと座って、ハッハハッハ!と舌を出してユウキを見つめた。

「大丈夫だあ!お前ならやれる!あとひとつだがんばれい!」
 濁流に飲まれていくリュッ君がユウキに叫ぶ。
「ユウキい!がんばれえ!お前と俺はいつだって…」
「ユウキ、お前と俺は一心同体だ」
「ここは、いっちょ、名前のとおりのユウキを振り絞ってくれねえか!」

 今までの思い出が、ユウキの脳裏をよぎっていった。

 足元の子犬は、そんなユウキを変わらずじっと見つめている。その白い綺麗な体のあちこちに痛々しく散らばっている赤黒いあざのような痕が目に入った。

 ユウキの脳裏に、ユウキとリュッ君を乗せて走っていた白い獣の脇を、黒い槍が何本も掠めて刺さったあの夜の出来事が思い出された。神社の境内で、ユウキとリュッ君を降ろして去っていく際、体に追った痛々しいきずあとが赤黒く変色して、シュウシュウと音をたてて細かい粒子が拡散していた。

 涙をこらえて、白い子犬のほうを見つめるユウキ。子犬は、再びファンファン!と鳴いてユウキに近付いていくと、その足に頭を擦り付けた。

 ユウキは、子犬に向かってしゃがみこむと。その頭とあごを撫でて微笑んだ。

「ありがとう。慰めてくれてるんだね…」
 子犬は、気持ち良さそうに、ユウキのされるがままになっている。

 しばらくの間、子犬の頭を撫でていると、
「まず、お互いの名前を決めよう…、お前の名前は…」
 はじめて会った時にリュッ君が言ったことが頭をよぎった。そうだ、名前を決めなくちゃ。

 撫でる手を一旦止めて、犬を一旦目の前に座らせると、えへん!えへん!と咳払いをして、もったいぶった調子で子犬に向って言った。

「まず、お互いの名前を決めよう…、僕の名はユウキっていうんだ!よろしくね!」

 ファン!とユウキの言葉に答えるように泣く白い子犬。

「お前は、そうだな…、」

 言った後で、あごに手をやって考えるそぶりを見せるユウキ。ややあった後で、

「ポチってのはどうだ?」

 白い子犬は、舌を出したまま、キョトンとしてユウキを見つめている。

「ポチ!」

 白い子犬は、舌を出したまま、キョトンとしてユウキを見つめている。

「ポチ?」再びその名を呼んで見るも、全く無反応なまま、ユウキのほうを見つめていた。その様子を見て、うーん、としばらく考えた後。
「ベス!」
 とユウキが違う名前で呼びかけてみた。しかし子犬は、ツーン!とそっぽを向いて、ユウキのほうを見もしなくなった。
「タロウ!」
 ツーン
「コタロウ!」
 ツーン
「ココ!」
 ツーン
「ダイチ」
 ツーン
「チョコ!」
 ツーン
「ハナ」「チャチャ」「ムサシ」「ポンタ」「キナコ」
 ツーン!ツーン!ツーン!ツーン!ツーン!

 ユウキが、あらん限りのボキャブラリーを使って、犬の名前をひねり出す。しかし、全くどの名前にもいい反応を示さない白い子犬に、困った顔を向けるユウキ。しばらく考えあぐねるユウキに、目の前の子犬は、あいも変わらず舌を出してハッハハッハと、ユウキのことを見つめている。その様子を見て、ユウキは、困ったなーという風に空を見上げてあごをぽりぽりとかいた。

「…ランスロット…」
「ファン!」

 ぼそっと言った名前に、反応するかのように、白い子犬が勢いよく鳴いた。訝しげな顔を子犬に向けて、再びユウキが呟いた。

「…ランスロット?」
「ファンファン!」
 はっはっはっはっはっ!

 白い子犬が反応を示した。すかさず、ユウキが再び白い子犬に呼びかける。
「デンジロウ!」
 ツーン!

 子犬はそっぽを向いてしまった。

 どうやらこの名前がお気に入りのようだと、悟ったユウキが再び子犬に向って言った。
「よし!今日からお前の名前は“ランスロット”だ!」

 そっぽを向いていた白い子犬は、ユウキのほうを向くと勢い良く「ファン!」と鳴いて、尻尾をパタパタと左右に振った。

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