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第1章 少々特殊なキャンパスライフ
第5話 パートナー動物 ④
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呼びかけに従って近づくと、教授は何やらケージに括り付けられていた袋からレポートを取り出した。
「この子は十四歳の雄猫で、さっき言った通り腎不全を患っている。腎臓サポートのフードと、降圧剤、吸着剤はそのための処方物だ。これらを与えて欲しいが、薬を与えるストレスのせいで食欲や飲水が減るのもマズい。その時は治療方針を調節したいから無理はしないように」
猫の好みを調べるためにもと、腎臓サポートという種類のフードが渡される。
駄菓子で見るサイズの小袋が複数――それも『試供品』と書かれている点が少し気になった。
「こんなに種類があるんですか?」
「ああ。この他にも消化器疾患や腎臓病、尿石のコントロールのためのフードだってある。各会社がいろんなコンセプトで作ってくれるから選択肢は多いんだ。営業はそういうもののサンプルを置いていってくれることもある」
知らない世界の話にへええと深く関心を抱いていたが、続きが多く控えていることもあるので教授は話を脱線させない。
軽く話が終わると、手にしていたレポートを渡してきた。
それはこの猫の基礎情報と、同じ症例を扱った先輩のレポートだ。
どのような工夫をして投薬したかなどが事細かに記されており、とても心強い。
「世話に関してはレポートを作った上級生が細かいことを教えてくれるので、連絡を取るように。腎不全は腎臓のろ過機能が落ちて、尿毒素を排出しきれなくなる病だ。その尿毒素が体内に溜まるほど体が辛くなっていく。だから症状を少しでも緩和するためにも、君には飲水管理のほか、自宅点滴をしてもらう」
「えっ、そんな医療行為をいきなりですかっ……!?」
「心配するな。人がインスリン投与を自分でするのと同じ。一部にはしてもらう自宅療法だ。飼い主の時間と金銭的負担を減らすための手段でもある」
続けて手渡されるのは、テレビなどでも見たことのある点滴のパックとそれに繋げるための輸液セット、それに翼状針だ。
「動物は人と違って皮がよく伸びて、大量の皮下点滴をしやすい。ろ過機能が落ちているなら、できるだけ水分を与えて尿を出してもらうことで症状を緩和しようという処置だ。これに関しても、上級生がやり方を見せてくれる。あとは貧血にならないように定期的なヘマトクリット値の測定と、エリスロポエチンの投与があるから――」
「はっ、はっ、はい……!?」
生理学や薬理学などはまだまだ未修の身。教授がざっと説明をしてくれても理解が及ばない。日原は聞き逃すまいとしながらもあたふたした。
知識不足な点については教授も承知の様子だ。静かに頷きを示してくる。
「落ち着きなさい。今ここで理解する必要はない。レポートと上級生のレクチャーを参考にして、順々に押さえていけばいいんだ。わからなければ即座に聞くように。その子の命に関わることだからな」
「そ、それは重々承知しています……!」
「よろしい」
心して答えると、教授も認めてくれた。
まだ聞き足りない気もするけれど、待っている生徒も多いのでひとまずここで終了だ。
日原は猫が入ったケージを渡されると、ラウンジを出た。
このラウンジは獣医学生用の寮と、共同飼育の大動物がいる畜舎の間に位置している。
寮は各階十室あり、四階建てで余っている部屋は学習室として利用可能。
女子部屋は三・四階で、境界にはオートロックが設置された男子禁制の空間になっている。
日原の部屋は二階の端っこだ。
レイアウトは1LDKで、玄関左手は六畳程度の寝室兼勉強部屋。
右手側にはトイレ、洗面所と浴室があり、廊下を抜けると十畳程度のリビングがある。一人暮らしにしては十分な広さだろう。
ケージをリビングに置いた日原は水やフードなどを準備し、いざ猫と対面する。
猫はケージの奥で縮こまり、目を大きく見開いて緊張していた。
「えっと、名前は……」
猫についての基本情報が記された紙に視線を落とす。
幸せの一字から取った『幸』に、コウと読み仮名が振ってあった。
新たな飼い主に出会うのは難しそうだったところ、この場に来たのだ。
境遇としては恵まれた方かもしれない。
うん。それならば名実共に『幸』であってもらいたいものだ。
猫を過去に飼ったことのある人に比べ、自分は理解が及んでいないことだろう。
だからこそ、日原は未熟さを認めた上でできる限りの努力を決意した。
「コウ、だね。よしっ。コウちゃーん……?」
小さく呼びかけてみる。
すると、意外にも反応があった。名前を呼ばれ慣れていたのか、ナーオと鳴いて返してくるではないか。これは非常に嬉しい。
警戒はされているものの、そこまで酷い様子はなかった。
日原はそろそろとケージの戸を開け、その場から遠ざかって座り込む。
まずは刺激をしないように、お互いの様子見を試みた。
しばらくこちらに注意を払っていたコウは視線を外すとリビングを歩いて室内の調査を始める。
見回し、臭いを嗅ぎ、手頃な高さに跳び乗ってきょろきょろし――。
そして、五分も経過した頃には日原のもとに寄ってきて足の上に座り込んだ。
随分と人懐こい猫だったらしい。
接触するにしても友人宅の猫ばかりだった日原からすると、うずうずと堪えきれない感動が沸き上がってしまう。
けれどそこはグッと我慢した。
「よ、よろしくお願いします」
足の上で香箱座りをしてこちらを見つめてくるコウの様子を窺いつつ背中をひと撫で。反応は悪くないので頭も指で撫で、最後には顎下を掻いてやる。
すると、ごろごろと喉を鳴らしてきた。
ひとまず接触は成功と見ていいだろう。
まだまだ環境に慣れないはずだ。日原は逸る気持ちを抑えてコウとある程度の距離を置き、なるべく落ち着けるように取り計らって一日を過ごすのだった。
「この子は十四歳の雄猫で、さっき言った通り腎不全を患っている。腎臓サポートのフードと、降圧剤、吸着剤はそのための処方物だ。これらを与えて欲しいが、薬を与えるストレスのせいで食欲や飲水が減るのもマズい。その時は治療方針を調節したいから無理はしないように」
猫の好みを調べるためにもと、腎臓サポートという種類のフードが渡される。
駄菓子で見るサイズの小袋が複数――それも『試供品』と書かれている点が少し気になった。
「こんなに種類があるんですか?」
「ああ。この他にも消化器疾患や腎臓病、尿石のコントロールのためのフードだってある。各会社がいろんなコンセプトで作ってくれるから選択肢は多いんだ。営業はそういうもののサンプルを置いていってくれることもある」
知らない世界の話にへええと深く関心を抱いていたが、続きが多く控えていることもあるので教授は話を脱線させない。
軽く話が終わると、手にしていたレポートを渡してきた。
それはこの猫の基礎情報と、同じ症例を扱った先輩のレポートだ。
どのような工夫をして投薬したかなどが事細かに記されており、とても心強い。
「世話に関してはレポートを作った上級生が細かいことを教えてくれるので、連絡を取るように。腎不全は腎臓のろ過機能が落ちて、尿毒素を排出しきれなくなる病だ。その尿毒素が体内に溜まるほど体が辛くなっていく。だから症状を少しでも緩和するためにも、君には飲水管理のほか、自宅点滴をしてもらう」
「えっ、そんな医療行為をいきなりですかっ……!?」
「心配するな。人がインスリン投与を自分でするのと同じ。一部にはしてもらう自宅療法だ。飼い主の時間と金銭的負担を減らすための手段でもある」
続けて手渡されるのは、テレビなどでも見たことのある点滴のパックとそれに繋げるための輸液セット、それに翼状針だ。
「動物は人と違って皮がよく伸びて、大量の皮下点滴をしやすい。ろ過機能が落ちているなら、できるだけ水分を与えて尿を出してもらうことで症状を緩和しようという処置だ。これに関しても、上級生がやり方を見せてくれる。あとは貧血にならないように定期的なヘマトクリット値の測定と、エリスロポエチンの投与があるから――」
「はっ、はっ、はい……!?」
生理学や薬理学などはまだまだ未修の身。教授がざっと説明をしてくれても理解が及ばない。日原は聞き逃すまいとしながらもあたふたした。
知識不足な点については教授も承知の様子だ。静かに頷きを示してくる。
「落ち着きなさい。今ここで理解する必要はない。レポートと上級生のレクチャーを参考にして、順々に押さえていけばいいんだ。わからなければ即座に聞くように。その子の命に関わることだからな」
「そ、それは重々承知しています……!」
「よろしい」
心して答えると、教授も認めてくれた。
まだ聞き足りない気もするけれど、待っている生徒も多いのでひとまずここで終了だ。
日原は猫が入ったケージを渡されると、ラウンジを出た。
このラウンジは獣医学生用の寮と、共同飼育の大動物がいる畜舎の間に位置している。
寮は各階十室あり、四階建てで余っている部屋は学習室として利用可能。
女子部屋は三・四階で、境界にはオートロックが設置された男子禁制の空間になっている。
日原の部屋は二階の端っこだ。
レイアウトは1LDKで、玄関左手は六畳程度の寝室兼勉強部屋。
右手側にはトイレ、洗面所と浴室があり、廊下を抜けると十畳程度のリビングがある。一人暮らしにしては十分な広さだろう。
ケージをリビングに置いた日原は水やフードなどを準備し、いざ猫と対面する。
猫はケージの奥で縮こまり、目を大きく見開いて緊張していた。
「えっと、名前は……」
猫についての基本情報が記された紙に視線を落とす。
幸せの一字から取った『幸』に、コウと読み仮名が振ってあった。
新たな飼い主に出会うのは難しそうだったところ、この場に来たのだ。
境遇としては恵まれた方かもしれない。
うん。それならば名実共に『幸』であってもらいたいものだ。
猫を過去に飼ったことのある人に比べ、自分は理解が及んでいないことだろう。
だからこそ、日原は未熟さを認めた上でできる限りの努力を決意した。
「コウ、だね。よしっ。コウちゃーん……?」
小さく呼びかけてみる。
すると、意外にも反応があった。名前を呼ばれ慣れていたのか、ナーオと鳴いて返してくるではないか。これは非常に嬉しい。
警戒はされているものの、そこまで酷い様子はなかった。
日原はそろそろとケージの戸を開け、その場から遠ざかって座り込む。
まずは刺激をしないように、お互いの様子見を試みた。
しばらくこちらに注意を払っていたコウは視線を外すとリビングを歩いて室内の調査を始める。
見回し、臭いを嗅ぎ、手頃な高さに跳び乗ってきょろきょろし――。
そして、五分も経過した頃には日原のもとに寄ってきて足の上に座り込んだ。
随分と人懐こい猫だったらしい。
接触するにしても友人宅の猫ばかりだった日原からすると、うずうずと堪えきれない感動が沸き上がってしまう。
けれどそこはグッと我慢した。
「よ、よろしくお願いします」
足の上で香箱座りをしてこちらを見つめてくるコウの様子を窺いつつ背中をひと撫で。反応は悪くないので頭も指で撫で、最後には顎下を掻いてやる。
すると、ごろごろと喉を鳴らしてきた。
ひとまず接触は成功と見ていいだろう。
まだまだ環境に慣れないはずだ。日原は逸る気持ちを抑えてコウとある程度の距離を置き、なるべく落ち着けるように取り計らって一日を過ごすのだった。
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