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第2章 テストに向けて紆余曲折

第18話 ニクダシと謎の儀式 ①

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 六月中旬。
 梅雨入りし、むんむんと熱気も高まって夏の気配が漂ってきた。

 大学前期のテストといえば八月第一週から二週にかけておこなわれ、それが終われば晴れて夏休み。
 八、九月は丸ごと休みという特大の長期休暇となる。
 授業も後半に差し掛かり、終わりが見えてきた。

 というわけでいよいよ渡瀬の計らいによる獣医遺伝育種学対策と、『ニクダシ』とやらの正体がわかる。
 これからいつものメンバーと合流し、生化学の研究室に行く予定だ。

 日原はコウのご飯を用意した後、身支度を始めた。
 ぴろんと電子音を立てた携帯に目をやると、渡瀬らも準備完了のようである。

 すぐさま行くと返したいところだが――ひとまず保留。日原はリビングに戻ってコウの様子を確かめた。

「……ああ、また飽きが来ちゃったか」

 フードは今まで通りにあげていた。
 だが、このところ食欲が落ち気味で自分から食べないことが増えてきている。

 腎臓は老廃物の排出だけではなく、水の再吸収に関しても重要だ。
 腎機能の低下が進めばより一層喉が渇く上、尿毒症の症状も強まって体調が悪くなる。それで飲水量も減ればさらに尿毒症の症状が重くなるというデフレスパイラルだ。

 緩やかに体調が悪化に向かっているのは間違いない。
 まだ体重には響いていないものの、このまま食欲と飲水量が落ちるのは避けたいところだ。

「現状だともうステロイドを使わない方がいいって話だったもんなぁ……」

 炎症の抑制でよく使われるステロイドは副腎のホルモンで、食欲と飲水量を増やすという良い意味での副作用も持つ。
 衰弱していく動物にはまさに与えたい効果だ。

 ただし良くも悪くもその効果範囲はとても広く、胃潰瘍の他、免疫低下による膀胱炎を招く危険性もある。
 また、慢性腎不全にはあまり効果が見られないという研究結果もあり、コウの場合は努力で食欲等を維持する方が賢明ということになっていた。

 少し遅れるとメンバーにSNSで返答した日原は別の腎臓サポート食を取り出し、コウが食べてくれるか試す。
 皿をいくつも並べ、ちょっとした試食会状態だ。

 くんくんと皿を嗅いで回ったコウは一つの皿に口を近づける。

「今日はカリカリの気分だったんだねえ」

 ふやかすばかりでは飽きも来るらしい。幸いなことにすんなりと食いついてくれた。

 本当は少しでも水分を取ってほしいところだが、食べないよりはマシである。
 腎不全に著効を示す薬も処置もない。
 コウを受け取る際に教授も言っていたが、体力を保つための食欲維持が重要なのだ。

 出していた分を平らげたコウはにゃーおと鳴きながら皿をひっかき、おかわりを催促してくる。
 ある程度食事を見届けたところで日原は仲間との合流に向かった。
 どうやら三人は鹿島の部屋で待機してくれているらしい。

「ごめん、お待たせ。待った?」
「んんっ。全然っ!」

 早足でリビングに向かったところ、渡瀬が何かを頬張ったまま答えた。

 三人が囲む机を見ると、黄金色の蜂蜜を入れた小瓶二つとクラッカーが確認できる。
 渡瀬は指についた蜂蜜を舐め取ると、二枚のクラッカーにそれぞれの蜂蜜を乗せてこちらに近づいてきた。

「これね、日本ミツバチと西洋ミツバチの蜂蜜。外国産の蜂蜜と違ってすんごく風味豊かで美味しいの!」

 美味しすぎる点が困るらしい。
 彼女は眉を寄せて主張し、日原の口にクラッカーを突っ込んできた。

 確かに風味が違う。
 西洋ミツバチの蜂蜜より、日本ミツバチのそれの方が鼻に抜ける風味が強く、味わい深かった。

 この団欒に朽木はテグーを連れてきていたらしい。
 鹿島は大きなピンセットでテグーに野菜を与えつつ、こちらに目を向けてくる。

「蜂が羽ばたきで水分を蒸発させつつ、じっくり熟成させた差だな。日本ミツバチは巣の成長が遅いし、ほぼ野生種だから下手にいじると逃げかねない。だから年に一度くらいしか採蜜の機会がないが、その分、熟成期間も長くなるんだ。あとは何の花から蜜を採取したかでも蜂蜜の味や風味、色合いが変わって――」
「給餌中によそ見はダメ。指に食いつかれたら大ごと」
「ぐおっ!?」

 日原が関心を示そうとしたその時、鹿島によるテグーの給餌をじっと観察していた朽木は彼の首を強引に戻した。

「いくらベタ慣れしても犬猫とは違う。本能が刺激された時とか本当に注意が必要。そこはちゃんと把握しておいて」
「ぐぁぁぁ。……ハイ」

 眠たそうな顔をよくしている朽木も、こういう時はきっちりとスイッチが切り替わるらしい。彼女の指摘に鹿島は大人しく頷いていた。

 そんな一幕もあったが、ゆっくりしていると先輩との約束に遅れかねない。
 朽木にはテグーを連れ帰ってもらい、生化学研究室の学生部屋に向かう。

 その道中、鹿島は首を傾げた。

「生化学って俺たちはまだ習っていない分野だろ。前に聞いた気がするんだが、一体どういうことをする学問だっけ?」

 その程度は日原が予習済みだ。聞いたことも含め、定義は覚えている。

「生理学研究室の栗原先輩がちらっと言っていたね。名前からして生理学に凄く近いんだけど、いろんな合成や分解みたいな生体システムの研究をするんだって。高校生物の範囲で言うと呼吸の解糖系とかクエン酸回路、肝臓のオルニチン回路とかの研究。あとは遺伝子の発現とか機能の分野もやっているみたいだね」
「分子生物学か。核酸の代謝とかDNAのメチル化とか聞いていて頭から煙が出たぞ。面白そうな分野なんだが、理解するまでが難儀だな……」

 ちーんと効果音が出そうな様子で明後日を見つめる鹿島。
 そんな彼と同様に渡瀬も頭を抱えていた。朽木はその辺り、諦めの境地に入っているらしく項垂れもしなかった。
 彼女は二浪していることを考えるに、きちんと助け上げないと危険かもしれない。

 少なくともこの機会は無駄にするまいと日原も肝に銘じて生化学の学生部屋を前にする。
 そこには実験室にいますとの札がかかっていた。

「あらら。それじゃああっちだね」

 こんな場合もどうすればいいか聞いていたらしい。
 渡瀬は先導し、すぐ近くの生化学実験室をノックした。

 はーいという声の後に開けてみると、中では数人の上級生が作業中だった。
 赤い液体が入ったプラスチックのボトルにピペットを差し込んで何かしらの操作をしていたり、箱に氷を満載してその上に立てたチューブにピペット操作をおこなったりとまさに実験室の雰囲気である。
 その中の一人がこちらを確認するなり立ち上がった。

「ああ、一年か! ちょっと待ってろ。今そっちに行くから!」

 実験室入り口はすのこで仕切られており、実験室用の履物との履き替えエリアが設けられている。
 それも単なる仕切りではなく、ネズミ捕りのような粘着マットも備えられていた。
 繊細な実験だけに、細かな塵が立つのも望ましくないのだろう。

 赤い液体の操作をしていた男性の先輩は冷蔵庫のような機械にボトルを返すと、こちらにやってくる。

「生化学の分野を教えるかわりにニクダシをやってもらうって約束な。いやぁ、助かる助かる。あれ、割と重労働だから」

 先輩はフランクに言うと、学生部屋に向かって歩き始める。

 ニクダシ。重労働。
 そんなキーワードを耳にしつつも、実態が掴めない日原は前を歩く先輩に疑問を投げかけた。

「そのニクダシって一体何なんですか?」

 それはこの四人共通の疑問だ。
 その音からしてどんなものなのかはおぼろげに連想できるものの、やはり聞いた方が正確である。

「おん? あー、そうか。入学してすぐだと見る機会もなかったか。一年は授業も多いし、ばったり出くわさないよなぁ」

 ニクダシについて説明がなかったのも、言わずとも知っているものと思っていたからのようだ。
 先輩はひとまず学生部屋に案内し、空いている勉強机をあてがった後に切り出してくる。

「まあ、読んで字の如く肉を出す作業で、産業廃棄物のトラックに乗せるだけ――……」

 すらすらと説明をしようとしていた先輩は、ふと何かを思い出した様子で顎を揉む。彼は少々唸った後、再び切り出した。

「おう、やっぱ内緒だ。内緒。その時はもう旅行の予定を入れちまったから気が変わられても困るし。研究室によっちゃあ一度も体験せずに終わるかもしれないからな。見てのお楽しみってことで!」
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