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第2章 テストに向けて紆余曲折

第22話 氷砂糖の儀式 ①

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 七月初旬。
 前期テストが一ヶ月後に迫ってくると受講科目数が多い一、二年生はこぞって試験勉強を開始し、大学図書館は徐々に席取り競争となってきた。

 余裕がない教科ほどじっくりと時間をかけたいもの。
 そのためにも教材はそろそろ手元に揃えておきたいので、心情的にも時期的にも例の儀式にちょうどいい頃合いだ。

「時は満ちた……!」

 こんな言葉を発したのは朽木だった。

 別に中二病というやつではない。
 生化学の先輩に教えられた儀式――解剖学の加藤教授に氷砂糖を献上するのは試験一ヶ月前がいいだろうとのことだったので、その時とかけた言葉と思われる。

 教授の部屋に向かう前に日原たち四人は寮の一階に集合した。
 さて、教えられた儀式の条件は何だったかをおさらいだ。

「そうだね。勉強シーズンというわけなんだけど、例の氷砂糖は持った?」
「もち。忘れてない」
「抜かりなく」

 当然、これがなければ始まらない。
 目を向けると朽木と鹿島はそれぞれ一キロの氷砂糖を掲げる。

 何に使うのかはわからずじまいだが、流石に全員一袋ずつは多いだろう。
 そこで生化学の先輩と話を繋げてくれた渡瀬と、試験勉強を教えることが多い日原はなしということになった。

 そして時計を見れば時刻は午後五時。

 時間の指定なんて本当に儀式じみている。
 正確な時刻は言われていないが、これから獣医学部棟の教授部屋を尋ねればちょうどいい時間になるはずだ。

「言われたとおりに用意したものの、一体何が待っているんだか」
「教授の好物ってだけならこんな時間の指定なんてないはずだもんね」
「案外、ガチで謎の儀式だったりしてな?」

 氷砂糖の袋を摘まみ上げる鹿島に、日原は苦笑を返す。

 まあ、想像では答えを見つけようがない。
 悩んで時を逃す方が困るので四人はすぐに教授部屋に向かった。

 獣医学部棟を訪れるのはもう何度目になるだろう。
 それほど数はないが、以前は生理学など同じ分類の基礎系研究室を訪問した。
 そちらはこざっぱりとしていたが、解剖学教室と病理学教室は特色が強い。

 まず実験室には四角い容器やパックが無数に置かれていた。
 中には臓器などが入っており、いわゆるホルマリン漬けの品々だと予想が付く。まさに想像通りの要素と言えよう。

 さらに病理学研究室と解剖研究室の前には所属学生のものなのか、論文のポスターが飾られていた。
 鹿島はそれをしげしげと見つめる。

「ふむ。そういえば病理学って何をする学問なんだ?」
「読んで字の如く病気の理屈解明に関するものっぽいよね。病気の診断とかをテーマにした医療作品を見た覚えがある気がする」

 疾病の診断、原因の解明を行う学問であり、診療や検死といったシーンでも重宝されるはずだ。
 日原がそれらを思い浮かべていると、朽木が口を開いた。

「正常な組織と病気の組織を見比べる学問って聞いた。例えば病院で腫瘍の一部を取って良性と悪性を判断するとかそういう学問のはず」

 まさにそういうものなのだろう。
 飾られている論文も腫瘍を様々な染色法で染め上げ、その性質を調べたものだった。

 歩を進めて、解剖学のエリアに入る。
 ポスターを見るに、こちらは様々な動物の組織構造の分析の他にも、行動学や免疫学に関する研究もおこなっているようだ。
 想像より幅広いことに驚いたのか、朽木は珍しく目を見開いている。

「解剖学研究室っていうから、するにしても解剖学とか組織学だけかと思ってた」

 渡瀬は呟く朽木に並んで眺め、彼女の意見に同意する。

「うん、意外! 授業があるからって研究室訪問をしていなかったし、どんなことをしているのか教授に聞くのもいいかもね!」
「そうする……!」

 このエリアには研究発表のポスターだけでなく、骨格標本や動物のなめし皮、飾りものもある。
 朽木はそれらも興味深そうに目移りさせていた。
 そうこうしているうちに教授部屋に到着する。

 教授は在室との札が出ている。
 朽木が先頭に立ってノックをするので、返事を受けてから入室した。

「おや、一年生か。どうしたね。授業の質問かい?」

 教授は帰る準備をしていたところらしい。
 手にしていたカバンを置き、こちらに視線を投げてくる。

 答えるまもなく、教授は氷砂糖を手にしているところに注目してきた。
 彼はそこに答えを見つけたらしい。

「おお。そうか、そうか。そういう時期だったね。学生もよくそんなことを引き継いでやるもんだ。君たち、今日はもうこの後の予定はないのかい?」

 教授は半ば呆れつつも楽しそうに笑う。
 一体どういうことなのかは読めないが、日原は頷きを返した。

「はい。先輩に言われたので一応この後には何も予定はないです。でも何があるのかは聞いていなくって」
「ははは。単に年寄りの長話だ。私は退官間近だからね、意気込んでする研究もないし、あとは家に帰って家内と顔を突き合わせるくらいだ」
「え。そしたら帰り際はお邪魔なんじゃ……?」

 もう少し早く、仕事終わりくらいに来た方がよかったのでは。
 そんなことを思って日原が出直す話でも切り出そうとしたところ、教授は「いやいや」と手を振った。

「退官してからは嫌でも家内と顔を合わせる。むしろ外に出ておけと言われているくらいだから気にすることはない。老人の長話に付き合えばテストの重要単語を教えようというだけのものだ。さて、君たち。とりあえず後ろのパイプ椅子に座って。二十歳になった人はいるかい?」
「ウチ、二浪です」
「あ、俺も先日誕生日だったので二十歳です」

 浪人生の割合が多い獣医学科ならではのもので、一年生の内に酒を飲めるようになる人は多い。
 これはまさにそれに関する問いだったらしく、教授は手を上げた朽木と鹿島の二人に小さめのコップを渡した。

 海外のものが多く飾られた棚から陶器の瓶を手に取った教授は二人のコップにカラメル色の液体を注ぐ。
 筆記体で読みにくいのだが、ラベルに記された『興酒』の二字だけは辛うじて読めた。

「紹興酒という中国のお酒でね、聞いたことがあるかい?」
「名前だけはちらっと聞き覚えがあります」

 酒なんて口にしない年齢なので、日原が知るのはビールや日本酒、その他有名どころの蒸留酒くらいだ。
 しかし一体何故こんなものを持ち出してくるのだろうか。

 その理由はじきに語られるらしい。
 教授の表情は意味ありげに緩んでいる。

「まあ、ちびちび飲んでみなさい。私がする話は別に老人の愚痴じゃあない。獣医学科の教授としての思い出話だよ。紹興酒自体もそれに関連するものでね」
「お酒が、ですか?」

 海外の製品ではあるが、鹿島が飲むそれを見る限りは特別な代物とは思えない。
 お酒を飲めるようになってからというもの、彼はチューハイもしくはビール派だ。
 紹興酒の独特な風味が苦手なのか、何度も匂いを嗅いでいる点以外に妙なところはない。

 一体どのような繋がりがあるのかと、関心の目を向ける。
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