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第3章 志の原点
第30話 とうとう訪れるもの ②
しおりを挟む今まではベランダ前で日向ぼっこをしていたコウの姿はない。
最近は日光浴が辛くなってきたのか、寝室で寝ることが増えたのだ。
ツナギを取った日原は寝室に向かう。
そこにいることは重度の尿毒症特有のアンモニア臭でわかっていた。
動物病院の教授や上級生によると、腎不全猫はこのような臭いがよくするらしい。
「コウ、ただいま。もう一つ用事を済ませたら帰ってくるからね」
足腰が弱ってきたコウは今までジャンプ一つで登ったベッドにも、体一つ分高い段差も登らなくなった。
そのためにベッド脇にはティッシュ箱やケージなどの上に毛布を敷いて作ったスロープを備えている。ここがコウの最近の定位置だ。
眠っていたコウは音に気付いたのか、少しばかり目を開けてこちらを見てくる。
顔が上がりきらないことや小刻みな震えがあるとおり、身体的にかなりきつい状態なのは確かだろう。
少し血の気がないこと、臭いも合わせて腎不全が悪化している証拠だ。
危惧していたとおりに飲食が減り、トイレ以外には起きることも減った。
水分摂取量が減ったせいで、便も固くなって便秘気味になっている。
その結果、ご飯には多少の下剤を混ぜるのがもう定番になってしまった。
――ああ、いよいよか。
否応なく、それとは向き合わなければならない。
こんな状態なのだ。
喜んでご飯やおやつを求めるならともかく、日々の強制給餌や皮下点滴は単に苦しみを長引かせるだけなのではと思うようにもなってきた。
残った寿命は、一体どこまで追求するべきなのだろうか?
胸に疼きを抱えながら見つめていると、にゃーおと鳴き声が一つ。
再燃した悩みに意識を持っていかれていた日原はコウの頭を撫でた。
毛並みは多少、ごわついている。
栄養状態が悪化したためか、艶も少し悪くなっていた。毛繕いの頻度が減ったために残った汚れもあるのだろう。
「今日あたり、温かいタオルで体を拭いてあげようか」
溜まったヤニを取ってやり、顎も撫でる。するとごろごろと喉を鳴らしてきた。
目を細め、頭をしきりにこすりつけるその仕草を見ると、やはり少しでも長生きしてもらおうという今の生活が最善という気もしてくる。
「よし、待っていてね。行ってきます!」
日原はそこで切り上げると、家を出た。
時間をかけてしまっただけに廊下にはすでに渡瀬たちが集まっている。
よく家に出入りする彼女らにはコウの容態を改めて説明するまでもない。察した様子でこちらに目を向けていた。
「家を離れて大丈夫? 牛の世話なら羊と一緒だし、私たちでパパッと終わらせちゃうよ?」
渡瀬は気遣って問いかけてくれる。
「大丈夫だよ。コウはよく寝ているから付きっきりもかえって睡眠時間を削らせてしまいそうだし。四人で素早く終わらせちゃおう」
グッと拳を握ってみせるが、これは少しばかり空元気でもある。
本当は片時も離れずにいるのが望ましいのかもしれない。
だが、それで答えも出せない悩みで気落ちし続けるのもまた辛いのだ。これは少しばかりの気分転換でもある。
飼育経験が多い仲間はそれを思ってくれたのか、敢えて否定してくることはない。
遅れてしまったこともあって、四人は少しばかり足早に解剖室へと向かった。
するとニクダシの際に見た研究室生が獣医学部棟の外付け階段から下りてくるところに出くわした。
「おお、一年生か。ちょうどよかった。あと数分で教授が牛を連れて戻ってくるところだから、早めに着替えてくれ。男子は実験室の端、女子は学生部屋に鍵をかけてツナギに着替えるといい」
ツナギや白衣を着た肉体派の上級生がぞろぞろと続く。
ただの偏見かもしれないが、解剖と臨床繁殖研究室は牛や肉体労働と関わりが強いためか、たくましい男子が多めな印象だ。
平均よりは体格がいい鹿島も、この光景には戦力外通告じみたものを感じたようである。
肩を竦め、日原たちに目を向けた。
「もう上級生だけでいいんじゃないか?」
「僕らの出番は世話って話だけど、どうだろうね。ロープの結び方はわからないから、任せられたらきついそうだよ」
遠い目をして呟く鹿島に相槌を打つ。
牛の世話ではもやい結びなど結びつけられた動物が身を引いても解けないが、ロープの末端を引けばしゅるりとすぐに解ける結びを覚えるのが重要だ。
それは自分と牛、お互いの事故を防ぐために必要な知識らしい。
日原は視線で問いかける。
無論、蜂を飼う鹿島はまだ覚えていないので首を横に振られる。
テグーを飼育している朽木に関しても「ムリ」と腕を×字にして返された。
羊を相手にする渡瀬はどうだろうか。
「ごっ、ごめんね!? 羊にはあんまりロープワークを使わないからできないの」
「了解。必要になったら皆で教えてもらおうね」
うむうむと日原は頷き、上級生の指示通りに分かれて着替えを急いだ。
部屋の配置は以前、教授部屋を訪問した時に覚えたので問題ない。トラックのエンジン音がしたのですぐに階下に向かった。
道を曲がってきたトラックがセンサー式の消毒ゲートを通ってくる。
窓を開け、後方確認しながらバックしてくるのは解剖の加藤教授だ。
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