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第3章 志の原点

第32話 とうとう訪れるもの ④

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「どれも牛で見られる病気でね。鎖肛は直腸が盲腸みたく外に繋がらずに閉じていて、肛門の穴もない珍しい奇形だよ。奇形症例全体の約二パーセントしかないと言うね。ハイエナ病はビタミンAのやりすぎで骨端軟骨板という骨の成長点に異常を来たしたもの。特に後肢が障害されて短くなるその見かけがハイエナに見えたからこの名前になっている。牛白血病はレトロウイルスが起こした牛の白血病だよ。通常は高齢の牛しかならないんだが、ウイルス量が多い農場だと若い牛もなることがあるんだ」

 ということらしい。

 見るからに生まれたばかりの鎖肛牛。
 ぜぇぜぇと苦しそうに咳をする肺炎牛。
 後肢が明らかに短く、内股気味に骨が変形したハイエナ病牛。
 ほぼ正常そうだが、肩の前方と腿の付け根に拳大の腫瘤を持つ白血病牛。

 様々な病状の牛が一堂に会したものだ。
 日原たちとしては全てが初めて目にするものである。

「こ、この牛たちを実習に使うんですか?」

 元からそういう話だったのだ。当然そうなるのだろうが、聞かずにはおられない。
 日原が問いかけると、教授は頷く。

「そうだね。まずは一週間ももちそうにない鎖肛と肺炎の二頭。一週間後にハイエナ病と白血病の二頭だ。安楽殺から目の前で見せる実習になるね。体表の筋肉から見ていくから、予習をしておくといいよ」

 やはり間違いはないらしい。

 犬から人間程度のサイズもある生き物を実習で使う。それも四頭だ。
 その事実を目の前にしてみると、日原は息を飲まずにはいられない。何だろうか。上手く言葉にできないが、それは胸に重く響く事実である。

 もーもーと鳴く牛に釘づけとなっていたところ、教授は何かを察したのだろうか。ぽんと肩に手を置いてくる。

「日原君。言っておくが、これは理科で食用カエルを解剖するのとは意味が違うよ。実験動物ではない通り、君たちの勉強のためだけに用意された動物ではないからね。その意味については実習の時などに改めて説明するので、今はしっかりと世話をしてあげなさい。この子たちもまだ生きているんだからね」
「は、はい……」

 気圧されながらに応答すると、教授は「よろしい」と頷いてトラックに乗り込んだ。恐らくは所定の場所に返しに行ったのだろう。

 命そのものから学び取る。
 その理念自体は寮で飼育するパートナー動物と同じだが、安楽殺というものが絡むとまた違った衝撃だ。

 この言いようのない気持ちは、果たして本当に教授から説明を受ければ消えるのだろうか。
 去り行くトラックをそんな思いで見送っていたところ、先輩がパンパンと手を叩いた。

「じゃあ注目! 子牛にやるミルクの場所と、乾草の場所から教えていくぞ」

 実習までの数日と、さらに一週間。
 計十日ほどになる世話の説明だ。

 けれど、パートナー動物としての大動物の育成と違って草と穀物の配分調整などの難しいことはない。
 要はちゃんとご飯を与え、床は掃除しましょうというだけの話である。
 多くは必要なものがある場所の説明だ。

 そして最後に子牛へのミルクだけは量の加減もあるので目の前で実例を見せてくれる。

「解剖室内に粉袋と給湯器がある。あとは人肌くらいの湯でミルクを溶かしてあげればいい。とりあえず女の子がやってみよっか」
「あっ、はい! じゃあいいですか!?」

 子牛を見てうずうずとしていた渡瀬が手を上げると、説明ながらに作られたミルクが渡される。
 それでもいいだろうか、と彼女は期待たっぷりの様子で伺いの目を向けてきた。

 日原たち三人にしても異論はない。
 どうせまだ機会はあるのだ。最初の給仕係は渡瀬に任された。
 彼女だけが牛房に入り、子牛に近づく様を枠の外から見守る。

「難しいことなんかない。見ての通りミルクを欲しがっているから、落とさないように保持しておくだけでいいぞ」
「わかりました……!」

 すでに十分に成長しているハイエナ病と白血病の牛は乾草を食み、こちらに目を向けるだけだ。
 サイズ的にはまだミルクを欲しがりそうな肺炎の牛は苦しさのために元気がないらしく、その場に座り込んだままである。

 渡瀬は近づいてくる子牛に哺乳瓶を向けた。すると子牛は警戒することもなく哺乳瓶に口をつける。

「わっ、激しい!?」

 もっと乳が出るようにと、子牛は時々首で思いきり突き上げるようにしながらミルクを飲みきった。
 それでもまだ足りないのか、渡瀬に擦り寄って彼女の服や指に吸い付いてくる。

 その仕草に思いをくすぐられるのだろう。彼女はおずおずとこちらを振り返った。

「あ、あのぅ……、おかわりは……」

 元から少なめに与えていた以上、それはないとわかっている。
 渡瀬の控えめな問いに対する答えは無論、ノーだ。

「いや、脱水とかを防ぐための最低限だけだ。ほら、腹を見てみろ」
「うっ……」

 先輩が指差す子牛の腹はガスが溜まったように膨れ気味だ。まだパンパンというわけではないが、余裕があまりないのはわかる。

「確かにミルクは水分がほとんどだけど、胎便も溜まったままだし、剥がれた腸粘膜とガスも溜まる。あんまりあげすぎるとかえって苦しませかねないからな」
「ですよね……。はい、お腹の張り具合を確かめつつ、配分します」
「そうした方がいいな。じゃ、解散。あとのことはよろしく!」

 そう言って先輩が獣医学部棟の学生部屋に帰っていくのを見届け、日原たちも寮への帰路に就いた。
 ミルクを与えたことでより一層牛への愛着が湧いたのか、渡瀬は眉をハの字に寄せている。

「連れて来られた牛、重病なのばかりだったね」
「うん。実験犬のビーグルとか、マウスやラットみたいに元気なのが来るかと思ったよ」

 日原も彼女が抱えていそうな思いは何となくわかった。
 教授が言うとおり、実験動物ではないという事実にこそ意味が隠れているのだろうが悩ましいものだ。
 特にコウの看病をしている日原からすると、肺炎の牛などは見ていて居た堪れない。

 けれども、自分たちに出来ることは決まっている。しっかり世話をすることと、教授に言われた体表の筋肉の予習をすることだ。後ろめたく思うだけでは意味がない。
 得意教科ということもあり、その切り替えが早いのは朽木だった。

「言われた通り、予習する?」
「そうだね。しよっか!」

 朽木の提案に渡瀬がすぐに乗る。
 二人はこちらを見つめ、「えっと……」と考える仕草を見せた。

「ふむ、勉強する部屋だな。日原はどうする?」

 女性陣の視線を受けた鹿島は日原に目を向けた。

 いつも通りであれば日原の部屋で勉強となる。
 だが――。

「ああ、ごめん! ちょっとしばらくは部屋を長く留守にしそうな勉強はやめておこうかな。今日はコウをタオルで拭いてやって、ブラッシングもしてあげようかなって思っているし」

 流石に人が多い状況も、勉強で数時間留守にするというのもコウのためには気が引けることだ。
 授業での留守が多い以上、できるだけ時間は確保しておきたい。
 すると渡瀬と朽木もその点に気付いたらしく、盛り上がりは見るからに控えられた。

「そっか。そうだよね。それなら何か困ったことがあったら連絡してね。私たちができるだけ何とかするから」
「うん、ありがとう」

 気を利かせて申し出てくれる渡瀬たちに礼を言って寮の二階で別れる。

「ただいまー。おっと……?」

 日原は一人で自室に帰ると普段と何も変わらない感覚で靴を脱ぎ、玄関の明かりをつけようとした。
 その時、不意に気付く。驚いたことに玄関マットの上でコウが待ち構えていた。

「にゃーお」
「あらら、どうしたの? 最近は寝ていたのに珍しいね」

 ベランダ前で日向ぼっこをしていた頃は夕方になると暇を飽かして帰宅を待ってくれていたものだ。
 にゃーにゃーと鳴きながら足元で体をこすりつけてきたのは良い思い出である。

 腎不全が進行するにつれてそれもなくなったと思っていたが、今日は珍しく元気があったらしい。
 いや、もしかすると普段の予定とは違う外出で寂しかったのだろうか。

 いじらしい気がして日原は口元を緩めた。

「今日はもう出かけないからね。じゃあ、ブラッシングをしようか」

 日原はコウを抱き上げると、ぐるぐると鳴りっぱなしの喉音を聞きながら温かい湯を用意した。

 タオルと洗面器、ブラシとおまけ程度に爪切りを用意してリビングに座り込む。搾ったタオルで体を拭いて綺麗にしてやった後はブラッシングだ。
 ゆったりと梳いてやると、自然に香箱座りの足も解けて横倒しに寝てくる。そうして出てきた足の爪をできれば切ろうとするのだが――これは引っ込められて香箱座りに戻る。そんな繰り返しをしながら時間を過ごしていた。

 時刻は十一時。まだ眠るには早い時間だが、たまにはそれもいいだろうか。
 爪切りを諦めたためにそのまま寝こけてしまったコウを抱いてベッドに向かう。

「おやすみ、コウ」

 スロープ上に置かれたクッションの上にコウを優しく降ろす。その後、日原も眠りにつくのだった。

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