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第4章 命の意味

エピローグ こうして僕らは

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 秋の気配が漂ってきたある日の授業終わりに、日原は獣医学部棟にある武智教授のデスクを訪ねようとしていた。

 授業もテストもひととおり行われ、大学生活にも馴染んでくる頃合いだ。
 そこで特に問題は発生していないかという簡易的な個人面談がなされているのである。

 多くの生徒はほんの数分で終わってしまう確認なのだが、日原は新たなパートナー動物選択の件もあって少し長めの時間が予定されていた。
 それを前に日原は渡瀬たち三人に確認する。

「この後、面談が待っているんだ。時間が少し掛かりそうだし、皆は先にご飯に行ってくれればいいよ。僕の方は適当にするから」
「多少長くなっても皆がやった面談と大きな変わりはないんでしょう? 日原君がいないと寂しいし、私たちはデスクの外で待ってるよ」
「でも本当に数分で終わるかはわからないよ?」

 渡瀬たちはその予定に付き合ってくれる気らしい。そう言ってもらうのはありがたいが、思わぬ形で長引く可能性はあるのでこちらとしてはなんとも言いにくい。

 一度や二度くらいは別にいいのにとも考えていたところ、鹿島が肩を竦めた。

「いやいや、気にすんなって。それに三人だけだとふとした拍子で会話が途切れて朽木が今日のテグーの様子を実況しだすからな。延々と愛を語り続けるのは日原も知っているだろう? あれは――」
「悪い? ねえ、それって悪い?」

 鹿島の発言に不満を呈した朽木は彼の顔を平手で押し上げる。
 事細かなテグーの行動解説は勉強にもなるものの、知識として役立つ部分は限られるために一度始まってしまうと苦笑で耐え凌ぐこととなるのだ。

 大学周辺の飲食店は食べ飽きてしまったため、時間がある時は四人で車を運転して味自慢の店に行くことが増えている。
 これは地味に影響のある要素だ。

「確かに今日は確認程度しかしない予定だし、多分大丈夫だとは思うよ。じゃあ、お願いしようかな」

 少し過ぎた危惧でもあっただろう。
 日原は苦笑ながらも彼らに感謝し、武智教授のデスクに向かう。

「失礼します」
「おお、日原君が来たか。では面談を始めよう。今のところ、何か生活で気になることはあるか?」
「いえ、親元を離れた生活にも慣れてきたところです」

 三人と別れて入室すると、普通通りの面談が早速開始された。
 日原はこうして向けられる基礎的な質問に答えていく。

「――ふむ、単なる面談はもう十分だろう。あとはパートナー動物のことだな。資料を読んで何か気になることはできたか?」

 ざっくりと数分ほど質疑応答したところ、本題に移った。

 実のところ、日原としても前向きに取り組もうと考えてはいたのだが一つ気がかりな点があったのだ。
 頷きを返し、問いかける。

「それなんですけど、ここに挙げられている候補は少し特殊じゃないですか?」

 日原は件の資料を取り出す。

 パートナー動物といえば大動物の共同飼育か、エキゾチックアニマルなどの飼育、そして最も選択されるのは保健所から訳ありの動物を引き取るというものだった。
 以前のパートナーであるコウは腎不全を患った高齢猫であり、その代表例と言えるものだった。

 けれども今回案内された動物はどれも毛色が違ったのだ。
 具体的に言うならば、この資料に記されたペットは比較的若いものが多い。
 そして適切な治療を施せば普通のペットと同様の生活を送れそうなものばかりなのである。

 問いかけてみると教授は肯定した。

「うむ。重病の動物を引き受けて勉強熱心になるというのも生徒としては大変望ましい姿ではあるが、ある意味修羅の道だからな。そういうものだけ見続けると視野が狭まることもあると考えたのだよ。それは私からのお勧めの経験を特集させてもらった」
「修羅の道、ですか」

 何気なく放たれた言葉は身に覚えがあり、日原は苦笑を浮かべる。

 渡瀬や鹿島には、そんなに勉強をするの!? と若干引いた目を向けられることがしばしばある。
 小テストの勉強をサボろうとする彼らを逃すまいと勉強の道に引きずり込んだ際には確かに勉強の鬼という扱いを受けたのだ。

 そんなひと幕をふと思い出して笑ってしまった。

「具体的にはどういう意図なんですか?」
「重病の動物から学べることは確かに多い。だが、治療して復帰する動物を見るのが本来の喜びではある。まずはそれを知ってもらうのがいいだろう。そう思ったからこそのラインナップでな」

 やけに症状が偏っているなと思ったら、そんな意図があったらしい。
 日原は改めて資料に目を向ける。

 まず、最初のページに記載されているのは生まれて二ヶ月の動脈管開存症の犬だ。

 例えばこの犬はいわゆる先天性の心臓の奇形である。
 胎児だった際に肺動脈と大動脈を繋いでいた血管が自然に閉じなかったため、酸素を含んだ血と酸素を消費した後の血が日常的に混ざり合ってしまう。
 そのため、運動をするとすぐに息切れをしてしまうという病気だ。

 ただしこれは問題を引き起こしている動脈管という血管を手術で閉じれば、以後は健康な犬として生きられるのである。

「こういう動物はペットショップやブリーダーで見つかるんだが、そのままでは売れないから身内で里親を探したり、動物病院などと提携して治療をした後に売られることがある。今回は大学で治療をした後に里親に引き渡そうという運びになっているんだ」
「なるほど。そういうことでしたか」

 その答えに日原は逡巡した。

 確かに教授が言わんとすることはわかる。
 この資料に列挙された動物が偏っていると考えるのなら、コウのような重病の動物を引き取り続けることもまた偏りだろう。
 提示された案でしか経験できないことも多いはずだ。

 よし、と日原は決意する。

「はい。それならこの子たちのいずれかを引き取る方向で考えたいと思います」
「そうか。では引き続きこちらでも最新情報を取り寄せておこう。吟味した後に最終決定をしようか」
「よろしくお願いします」

 獣医学科の一年目。獣医となる上では専門科目にちょっと足を突っ込み始めたくらいだ。
 けれども、着実に前進していることだろう。
 この面談では、日原としても改めてその確認ができた。

 話が終わると、日原はお辞儀をして部屋を退室する。
 そこでは例のごとく研究室周囲に張り出された研究発表のポスターに目を通して待っている渡瀬たち三人の姿があった。

 今後五年と数ヶ月は共に歩む大切な学友である。
 助けもするが、大いに助けられもする掛け替えのない仲間だ。

「ごめんお待たせ。じゃあ行こうか」
「うん、行こっか!」

 まだまだ小さな一歩だが、一緒になって着実に踏み出していく。

 これは自分たちの経験と進歩の話だ。
 だからこそ、その軌跡を振り返ればこう言えるだろう。

 こうして僕らは獣医になる、と。
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