女神様は黙ってて

高橋

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一章 パンドラ

第十三話 初めての……

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 空腹。
 それは、戦神の巫女にとって初めての感覚だった。
 生きているのだから腹は減る。だから、彼女も空腹になったことはある。
 が、今感じているのは、今までの空腹をはるかに越える。
 それでも彼女はましな方だ。
 彼女の部下、第七騎士団の面々は飢餓に苦しんでいた。
 先程見回った陣内の士気は、最低と言って良い状態だった。

「それで? 食料はいつ届くんだ?」

 若い兵に問う。新兵だ。何度か実戦を経験したので新兵扱いをするべきか悩むが、第七騎士団の精鋭達と比較すると新兵としか言えないので、新兵として扱っている。

(名前は……なんだったかな?)

 聞いたのだが、最近は睡眠時間も食事も満足に摂れていない。聞いた記憶はあるのだが、名前が出てこない。
 もう一度名前を聞けば済む話なのだが、これでは災厄の巫女にまた鼻で笑われてしまうような気がして、意地でも思い出してやろうと聞かずにいる。

「も、申し訳、ありません!」

 セシリアの前で跪く新兵を見下ろしながら難しい顔をしていると、痩せこけた新兵が突然謝りだした。

「ん?」

 なぜ謝られたのかわからない。

「私は、輜重隊の到着がいつになるか聞いたのだが?」

 優しく問いかけたつもりだったが、セシリアを見上げる新兵の顔は、恐怖で引き攣っていた。満足に食事を摂れていないせいでこけた頬が、余計に恐怖の表情を強調する。
 こんな時、スイルかクルツが居てくれると助かるのだが、生憎二人は遊撃隊を率いて各戦線を飛び回っている。
 スイルであれば、資料や断片的な情報から予想してくれるだろう。
 クルツであれば、上手く宥めて聞き出すだろう。クルツは乱暴な口調からがさつに見られがちだが、周囲に気を配れる奴だ。あれで兵卒からの信頼が篤い。

(さて、どうしたものか)

 天を仰いで途方に暮れていると「失礼します」という一言と共に、幕舎に誰かが入ってくる。
 本来であれば、何者であろうと、戦神の巫女の幕舎に勝手に入るのは無礼討ちされてもおかしくない非礼だ。しかし、セシリアにはこの新兵をなんとかしてくれる存在のような気がしたので、非礼をあっさりと流した。むしろ、スイルかクルツであってほしいと思っていた。

「スイルか。ご苦労」

 期待通りの美青年に笑顔で労う。
 しかし、問題があった。

「アドラー伯爵領はどうなった?」

 スイルには、分隊を率いてローラント王国の南西、アドラー伯爵領攻めの援軍に向かってもらったはずだ。この陣を出たのが二日前だから、丁度今頃、前線に到着したくらいだと思っていた。

「は。状況が変わりましたので、急ぎ引き返してまいりました」
「聞こう」

 この辺りは長い付き合いだ。その一言だけで説明が始まる。新兵は脇に避け、なぜか俯いている。
 新兵との、遅々として進まないやり取りから一転、立て板に水の如くスラスラとスイルの報告は続く。
 心地の良いテンポで報告は進むが、その内容は気分が悪くなるようなものばかりだった。

「……つまり、輜重隊は来ないと?」

 チラリと新兵を見ると、目が合った途端、ビクリと体を竦ませる。そんなに怖がらないでほしい。ちょっと悲しい。

「それどころか、旧カロッテ村の兵站が壊滅していると?」
「はい。三ヶ月も前に」
「災厄の巫女の神託魔法か?」

 三ヶ月前と旧カロッテ村。この二つの情報からでは、それしか心当たりがない。

「おそらくは」
「なにがあった?」
「情報が錯綜していますが、旧カロッテ村に魔獣が現れたようです」

 スイルの報告によると「旧カロッテ村の生き残りが兵站を襲撃した」とか「ローラントの精鋭部隊が強襲した」とか、様々な報告の中でありえない情報を除外した結果、これが残ったという。

「しかし、魔獣だけで壊滅するか? ガレイア卿の息がかかった者とはいえ、仮にも第七騎士団に長く籍を置いていた連中だぞ?」

 その質問に、スイルはフルフルと首を横に振る。

「守備隊長以下、戦える連中はアロイの町に行っていたようです」

 アロイは、カロッテ村周辺では一番大きな町で、カロッテ村からは旧国境にあった村二つ挟んだ西にある。

「アロイに? なにかあったのか?」

 打てば響くはずのスイルも、この質問には言葉を濁しながら目を逸らす。

「その……娼館めぐりをしていたようです」

 意を決したように報告するスイルの言葉を、セシリアは理解できなかった。いや、意味はわかる。セシリアもお年頃だ。義姉から色々聞いているので知識はある。既に嫁いだ貴族学校の同期からも色々聞いている。だから男性がそういう場所を必要としていることにも理解はある。むしろ、占領地で好き勝手されると、戦後処理が面倒になるので積極的に店で発散してほしいと思っている。
 だが、今?
 前線では同僚が戦っているのに、今?
 後方だから安全だと思ったのか?
 安全だとしても、守備隊長が持ち場を離れても大丈夫だと思ったのか?
 大丈夫だとしても、戦闘員が挙って持ち場を離れても良いのか?
 なんとなくではあるが状況を理解し始めると、怒りが沸々と湧き上がる。

「ひっ!」

 新兵が腰を抜かした。

(おっと、いけない。殺気が漏れた)

 怯える新兵を尻目に深呼吸。

「それで? なぜ、三ヶ月も情報が伝わらなかったんだ? それに食料だ。三ヶ月もどこから運んでいたんだ? 頭から報告しろ」

 空腹も相まって、イライラを抑えられない。

「まず食料ですが、生き残った輜重隊が、壊滅した兵站からかき集めて前線に届けたようです」
「それでは足りんだろう」
「それは……」

 バツの悪そうな顔に察した。

「よい。略奪だろう?」
「その……」

 スイルほどではないがセシリアも潔癖だ。戦に付き物ではあるが略奪は好みではない。それでも、セシリアは必要であれば略奪を命じる。今回のこともそうだ。今回はセシリアが命じたわけではないが、そうしなければ軍が成り立たないのなら、それを命じていただろう。しかし、潔癖なスイルが泥をかぶってくれた。神託の巫女の名を汚さないように。
 泥をかぶってくれたのなら、礼を言うのはやめておこう。心の中でだけ感謝しておく。

「好みではないがこれも戦の倣いだ。続けろ」
「は。旧カロッテ村の調査に向かわせた兵からは、異常無しと報告を受けましたが、その時の兵の様子が引っ掛かっていたので二十日程前に新たに調査に向かわせたところ、既に壊滅していました」

 そこからその兵達が独自に調査した結果、守備隊長以下守備隊の不在と魔獣の発生が重なって、一方的に蹂躙されたことがわかる。状況確認のために、問題の守備隊長を探しに西に向かったところ、アロイまでの村は全て魔獣の被害を受けており、壊滅していた。アロイはかろうじて生き残りがいたが、守備隊長以下守備隊の姿はなく、生き残りの町人に話を聞いた話だと、魔獣襲来の報告を受けたらすぐに町から逃げたそうだ。
 セシリアの殺気に当てられて、新兵の歯がカチカチ鳴っていたのがうるさい。気を利かせてスイルが新兵の肩に手を置くと。

「ひゃう!」

 余計にうるさかった。

「続けろ」

 話が進まない。多少うるさくても無視することにした。

「魔獣の群れはアロイを」
「待て。群れ? 魔獣は群れになったのか?」
「はい。繁殖力が強いらしく、現在では大群となっているようです」

 災厄の巫女が言った言葉を思い出す。

「今すぐ帝都に引き返せば、被害を最小限にできるよ」

(これのことか)

 確かに、あのタイミングで帝都に戻れば、発生直後の魔獣を群れになる前に殲滅できただろう。
 しかし、それは兵站の状況を確認してからでも遅くはなかったはずだ。

「後で旧カロッテ村の状況を確認しに行った兵を、処罰しておけ」

 スイルの視線が横に動く。横の新兵に。

(なるほど。さっきの謝罪はこれか?)

 思わず舌打ちしてしまった。舌打ちにもいちいち怖がる新兵を、意識の外に追いやる。

「続けろ」
「アロイを壊滅させた魔獣は、そのまま季節風に乗り帝都に向かいました。帝都防衛に就いている第一騎士団の奮戦により壊滅は免れましたが、帝都に相当な被害が出たようです」
「殲滅は?」

 第一騎士団は貴族のボンボンが多い。しかし、人材は期待できないけど、装備と兵数は充実しているはずだ。
 淡く期待したが、スイルは首を横に振った。

「追い払うのが精一杯だったようです。というより、魔獣が勝手に移動した、というのが正確でしょう」
「食料となる人間がまだいるのにか?」
「学者の話だと、季節風の向きが変わったことで魔獣が移動したのではないか、と。それと、雑食のようで人間や動物以外にも、野菜や穀物も食べます」
「では、まだ国内に?」
「はい。南西のグロセット平原へ」

 全て繋がったような気がした。
 兵站が壊滅したくらいで食料が届かないのはおかしいと思っていた。守備隊長が逃げたとしても輜重隊の生き残りはいる。生き残りがいて任務達成可能なら、任務を果たそうとするのが軍人だ。報告によると、食料と情報を輸送するだけの人員は生き残っているようだから、少量の食料だけでも届いていてもおかしくはない。ようやく腑に落ちた。食料を集めようにも、その食料がない。収穫直後の穀倉地帯が魔獣に襲われているのだから、集めようがない。むしろ、魔獣から穀倉地帯を守るための兵の食料すら困っているだろう。それ以前に、主力は北東に集まっているので兵が足りないのかも。

(そりゃあ、来ないわね)

 腑に落ちた。が、スッキリはしない。むしろ、気分が沈んだ。わからないこともあるし。
 沈んだ気分を振り払うために、天を仰いで息を吐き出す。

「なにがベースの魔獣かは?」
「なにかしらの虫が魔獣化したようです」
「虫?」

 内心で災厄の巫女を「虫けらにはお似合いの神託魔法だ」と嗤ってやりたかったが、生憎こちらに予想以上の被害が出ているので、嗤えないし笑えない。被害が大きすぎる。
 スイルと新兵に背を向けて、報告書の束をテーブルに広げる。

(さて、ここからどうすれば巻き返せる)

 理性はもう答えを出している。撤退だ。
 しかし、自覚していない災厄の巫女への嫉妬心が理性を否定する。
 広げた書類の中から起死回生のヒントを探すが、目に止まるのは不利な状況を示す情報ばかりだ。

(女神様に助けていただければ)

 ありえない話だ。セシリア自身が最も理解している。
 それでも、心の中で祈らずにはいられない。
 そもそも、この二ヶ月半ほど一切話しかけてくれないし、リンクも切られているようだ。
 せめてリンクを繋いでくれていれば、こちらの窮地を知ってもらえる。

『わたくしの巫女。久しぶりですね』

 頭に響く久しぶりの女神の声に、一瞬、願いが通じたのかと思った。

『そのような場所でなにをしているのです』

 が、違った。むしろ、状況を全く理解していないようだ。

「女神様。今の状況をごぞん」
『構いません。戦場に出れば神の威光が敵を滅ぼします』
「し、しかし、兵の士気が」

 生まれて初めて神の言葉に意見した。思ったより抵抗はなかった。

『わたくしの名を冠しながら敗れるのは、貴女達の信仰心が足りないからです』

 それはつまり、この戦に負けても女神の責任ではないという意味か。まあ、そうだろう。そもそも、戦は人の欲で始めるものだとセシリアも理解している。それなら、その勝敗の責任を神に押し付けるのは筋違いだろう。
 それでも、神に責任を押し付けたい。
 戦場で死にかけたことはあったが、負けたことはない。
 その自分が負けたらどうなるのか。
 二十歳になったばかりの小娘が、騎士団の団長を勤めていられるのは自分が戦神の巫女だからだと、セシリア自身もちゃんと理解している。だからこそ、常に前線に出て兵からの支持を集めたし、面倒な書類仕事もスイルに丸投げせずに、必要なことは自分でやっていたし、それが必要か不要かもわかるようになった。その甲斐もあって、第七騎士団の団長は名実共にセシリアこそ相応しいと言われるようにもなった。まあ、その第七騎士団の精鋭の半分を政敵に奪われてしまったので、兵からの支持は、またやり直しだ。
 そんなセシリアが、今、負けたら。

(二度と再起のチャンスがないだろうな)

 騎士団は取り上げられ、自分は実家に帰され軟禁。もしくは、婚約者と結婚させられ一生を婚約者の領地で生きることになる。結局、軟禁か。
 しかし、軟禁なら、まだましかもしれない。
 責任を取れと首を刎ねられたら……いや、仮にも神託の巫女だ。そうそう死罪にはならないだろう。

「姫様!」

 自分の世界に入り込んでいたセシリアが、スイルの叫び声に現実へ引き戻される。誰かが真後ろに迫っていることに気づいて振り向く。
 そこには涙と鼻水で濡れた新兵が、剣を振りかぶっていた。
 咄嗟に腰に手を伸ばすが、愛剣は机の上に置いたままで伸ばした手は宙を掴む。

「がっ!」

 振り下ろされた剣を、上体を半身に逸らすが、顔に鋭い痛み。
 致命傷は避けたが顔が熱い。
 手探りで机の上の剣を手繰り寄せ、鞘ごと横薙ぎに振るう。

「ぶべっ!」

 顔に走る痛みに目がチカチカして見えてはいないが、手応えはあった。
 痛みに慣れ始めたが、左目に血が入り、右目だけの視界で油断なく剣を構える。
 構えたものの、左頬が切れた新兵は既にスイルによって捕縛されていた。

(首を狙ったつもりだったんだがな)
「姫様お怪我を!」
「大事無い。それと、その呼び方はやめろ」

 よほど慌てていたのだろう。スイルのセシリアへの呼び方が出会った頃のものに戻っていた。

「お顔に傷が、すぐに衛生兵を」
「よい。それより、そやつから話を聞きたい」

 スイルの表情からなにか言いたそうな雰囲気は伝わるが、無視して後ろ手に縛られ床に倒れている新兵の顔の前にしゃがむ。

『顔を斬られるとは、なんと情けない』

 頭の中に女神の嘆きが聞こえる。
 普段であれば心が痛み、ただひたすら女神に謝罪するだろうが、今はそんな気分になれない。
 初めて女神の言葉を無視したが、なにも感じなかった。感じなかった自分に、少し驚いた。

「それで? なんのつもりだ?」

 左目に流れる込む血を袖で拭いながら新兵に問いかける。

「俺は悪くない!」

 涙声の叫びは聞きたい答えではなかった。ため息を吐く。

『そのような虫の話を聞く必要はありません』

 女神の言葉にもため息を一つ。

「黙ってれば金をくれるって言うから! 金が必要なんだよ! 兄さんも戦死したのに、俺まで徴兵されたんじゃ畑は誰が耕すんだよ!」
『耳障りです』

 新兵の言葉に苛立っているのか、女神の言葉に苛立っているのかわからないが、とにかくイライラする。イライラするが、女神の話はともかく、この新兵の話は聞かなければいけない気がする。

「貴族に言われたら受け取るしかないだろ! 黙ってるしかないだろ!」
『早く首を刎ねなさい』

 心の中で「あんたの言葉の方が耳障り」と、思える程度の反抗心が芽生える。

「あんたはいいよな! 公爵家に生まれて!」
『鬱陶しいですね』
「飢えたことなんかないんだろうな! 木の根で飢えをしのいだことなんか、ないんだろうな!」

 叫び続けて喉を痛めたのか新兵が咽る。

「家族を養うために受け取った賄賂は、悪いことなのか?」

 掠れるような声で問われた。

『悪です』
「痩せた土地を耕しても、あんたが、公爵家が食べる一食分の食費すら稼げない俺達が金に釣られるのは、そんなに悪いことなのか?」
『あたりまえです』
「俺達は、普通に生きて、普通に寿命で死ぬことも許されないのか?」

 いつかどこかで聞いたような気がする話だ。

(そうか。あの巫女か)

 前髪で顔半分を隠された巫女の顔が、新兵の顔に重なる。

『不愉快です。さっさと』
「女神様は黙って下さい!」

 唖然とした表情で見上げる新兵。
 もうムカつく巫女の顔はダブってないが、鼻水が半開きの口に流れ込んでいる。
 信じられないものを見るようなスイル。
 災厄の巫女が、自分の担当神を呼び捨てにした時と同じ表情だと気づいて、少しイラッとした。
 初めて女神に怒鳴った。
 あの巫女と同類になるのは業腹ではあるが、これは思ったより気分が良い。
 心臓が早鐘のように鳴るが、頭は冷えた。空腹で回らなかった脳が動き出す。

「スイル。この者の処分は任せます」

 返事がない。

「スイル!」
「はっ!」

 スイルはビクッとなった後、姿勢を正し頭を下げる。

「それと陣払いを。帝都に引き返します。全軍に令を」

 この言葉にはスイルも反論しようとしたが、起死回生の策もないのか開きかけた口を閉じる。

『なにを言っているのです。先程の無礼は許しますから』
「女神様。私達の負けです」
『貴女が戦場に出れば』
「半分は新兵。いえ、新兵の穴を埋めるため、多くの精鋭が犠牲になりましたから、大半が新兵です。そして食料は届かない。空腹で士気が上がらない。矢も、もう一戦したら無くなるでしょう」

 一つ一つ状況を噛みしめる。

「それでも勝てる要素があると?」

 セシリアの問いかけに、スイルが縋るような目を向ける。女神ならこの状況を打開できると思ったのだろうか。

『神の威光で』
「現実を見て下さい!」

 頭の中に息を飲む音が聞こえる。

「私達の……負けです」

 現実を見ていても認めたくはない。
 あの巫女に負けたと思うと気が狂いそうだ。
 スイルは俯いて肩を震わせている。顔は見えないが泣いているのだろうか。
 乾き始めた血を手で落としながら、幕舎内を見渡す。

「まずは別働隊に連絡を。災厄の社の東で合流だ。細かい場所は任せる」

 また、返事がない。

「スイル」
「はっ! 直ちに」

 立ち上がり顔を上げたその目尻には涙がたまっていたが、セシリアは指摘しなかった。

(泣きたいのはこっちだ)

 未だ呆然とした新兵を立たせて、幕舎から連れ出すスイルの背中に小声で言う。

「すまない」
『なんということを。そのような勝手は』

 女神が頭の中でブツブツとうるさい。

(これからは、剣を手放さないようにしないとな)

 剣を剣帯に。
 机に散らばった書類を片付けようとして、眉間がチクリとした。

(そういえば傷は)

 普段はあまり使わない鏡が、行李の中にあったのを思い出して取り出す。ついでにタオルも。
 水差しの水でタオルを湿らせて傷を拭う。鏡を覗き込むと、左目の上から眉間を通って右目の下にまで赤い線が傷口に浮き上がる。

(出血量は多かったが、それほど深くないな)

 それでも痕が残りそうな傷だ。
 戦神の巫女として戦場に出ていても、そこは女性らしく落ち込む。

(むー。婚約者殿がうるさいかな)

 それほど気にしていないかった。

「そういえば……あの新兵の名は、なんだったか」

 まだ思い出せない。
 てか、頭の中で女神がうるさくて思考の邪魔だ。

(まあ、いいか)

 それよりも、やるべきことがある。
 思い出せない新兵より、名前を知っている精鋭達と、名前も知らない新兵達を、故郷へ返すために色々と考えなければいけない。
 頭をフルフルと振り、これから首を刎ねられる新兵を頭の中から追いやる。
 なにせ、これから初めての撤退戦だ。

(今日は初めて尽くしだな)

 まずはなにをしようかと思案して。

「女神様。そろそろ黙ってください」

 手始めに、女神を黙らせてみた。
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