星の継承者(仮)

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第十二章 パンドラの箱

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 第十ニ章 パンドラの箱






「紫苑を避けて遠回しに責めるのはやめてくれないか、蓮華?」

 幼い頃から変わらない姿の憧れの君に、斜め上から見下ろされ、冷やかな声を投げられた。

 紫苑を見るときには、いつも優しい黒い瞳は、彼に対して悪意を持つ者には冷酷な色を宿す。

 断罪する神そのもののように。

 少女めいた容貌に、斬れるような鋭さを秘めて見下ろす惺夜に見返す蓮華――彼らが身を寄せる部族の王女――は、青ざめた唇を引き結ぶ。

「なんのことなのか、わからないわ、惺夜。わたしが紫苑になにをしたと?」

 未だ幼い少女が精一杯の虚勢を張っているのだと、惺夜にもわかりすぎていた。

 年齢ではだれよりも年上なのだ。

 幼い少女の脅えがわからないわけではない。

 だが、彼女を気づかうよりも、今は怒りの方が強かった。

「言いたいことがあったら、ぼくに言ってほしい。紫苑を責めるのは筋違いだよ。彼はなにもしていないんだ。彼を大切だと想い優先するのはぼく自身の意思だよ。別に紫苑に頼まれたわけじゃない。
 そのことで彼を恨むのは、きみの逆恨みじゃないのかい? 恨むならぼくを恨めばいい。責めるならぼくを責めればいい。ぼくのことで紫苑を責めるのはやめてほしいんだ」

 いつも穏やかに笑っている惺夜の笑顔。

 それだけが見たくて、幼い頃から憧れてきた蓮華は、今、底知れぬ絶望を噛みしめる。

 惺夜の心には紫苑以外の者は住めないのだと。

「そんなにぼくが紫苑を優先するのが我慢できないの、蓮華?」

 すこし困ったような問いかけは、惺夜にも多少の後悔があるからなのか。

 だが、蓮華は知っている。

 彼に後悔があるとすれば、それは紫苑に累が及んだことだろう、と。

 惺夜の心は紫苑を基準にしているから自分のことなどで、すこしでも動揺してくれるはずがない。

 ましてや後悔など期待してはいけなかった。

 その証拠に彼はすぐに科白を続けた。

 微塵のためらいも感じさせず。

「きみがどんなに特別な扱いを望んでも、どんなに特別な位置を望んでも、ぼくにはそれを与えることはできない。紫苑よりきみを優先させることは、ぼくには絶対にできない。たとえ傲慢だときみに……周囲の者に責められようと」

 これだけは譲れないと突きつける惺夜に、泣きたいのに泣けない辛さを、どうやって訴えればいいのかがわからない。

 言い返したい言葉はあるのに、それは声になることなく、胸で詰まって嗚咽になる。

 涙を浮かべ肩を震わせる蓮華に、惺夜はほんのすこし痛ましい顔をした。

 それだけが彼の誠意だったのかもしれない。

 或いは「継承者」に繋がれた運命を持たぬ、惺夜自身の本心だったのかもしれない。

 惺夜が「守護者」でなければ、与えることのできた絶対の位置。

 それを与えることのできぬ恋人に対する偽りのない。

 けれど、それを受け止めるには蓮華は幼すぎた。

 また彼らとの常識が違いすぎた。

 彼女はこのときの惺夜の宣言の意味すら、正確には理解できなかったのだから。

 種族が違いすぎたために。

「それが辛いときみがそう言うのなら、ぼくらは別れた方がいい。これ以上、ぼくらの問題に紫苑を巻き込みたくないんだ、ぼくは。これ以上、彼が傷つくのは見たくない。見たくないんだよ、蓮華」

 瞳を伏せて別れ話を切り出しながら、惺夜は心でしか言えない科白を重ねる。

 どうにもできない現実に傷つく蓮華を見たくないから、もうそんなふうに泣かせたくないから、関係は清算した方がいい、と。

 一番大切だと言えないことで、蓮華が傷つくなら、惺夜以外に大切な相手を見つける方が、彼女のためだとそう思った。

 これだけは建前じゃなく本心で。

 惺夜には生涯かけても与えてやれない幸福だから、己の絶対の位置に「継承者」を置く「守護者」には。

 だが、彼女のためにと切り出した別れ話で、蓮華は大粒の涙を零し、初めて怒りの表情を見せていた。

「あなたはわたしのことなど、その程度にしか思っていなかったの、惺夜? それほどまでに紫苑が大切なの? 紫苑のためなら、あっさり別れを言えるほどっ」

 涙を流しながら怒りを瞳に宿す蓮華に惺夜は口許だけに笑みを刻む。

「そうだと言ったら?」

 たった一言の反問。

 蓮華は二の句が継げないまま、言い逃れすらしない惺夜の、真摯な黒い瞳を見返した。

「本当は紫苑に対するきみの態度がぎこちなくなったときに彼に言われたんだ。自分のことなんて後回しでいいから、蓮華を優先してやれ、と。蓮華を泣かせるなと」

「……紫苑……」

 虚ろな声で名を呼ぶ蓮華に、惺夜は皮肉に口許を歪める。

 紫苑の人の好さと己の傲慢さを噛みしめるように。

「彼らしいなと思って、ぼくは聞いていたけど、すぐに言い返したよ。蓮華とのことできみが距離を置くなら、蓮華が妨げになるなら別れると。ぼくには紫苑以上に大切な相手はいないからと」

 屈辱なのか絶望なのか、それもわからないほどの衝撃に蓮華はただ惺夜を睨む。

 どんな言葉も彼の心まで届かないと知りすぎて。

「彼は言ったよ。どうしてそこまでおれを優先するんだと。これにはぼくも答えられなかったけど、要するに紫苑はぼくのすべてだってことだよ。誇張ではなく彼がぼくの魂なんだ。
 優先するという名目で、二者択一を迫られるなら、ぼくは紫苑を選ぶ。そう言ったら、彼はすごく動揺した顔をして、すぐに撤回したよ。もう二度と言わないから、そんなこと言うな、とね。
 だから、別れを考えたのは、なにも最近のことじゃない。もっと以前から考えていたよ。ただ紫苑に制止されていたから考慮していただけで」

 なにもかも紫苑を中心に考える彼に、すぐには言い返す言葉が出なかった。

 どうすればこの絶望が伝わるのか、それさえもわからない。

 唯一絶対だと紫苑を求める彼を前にして、どんな言葉も絵空事のようだ。

 惺夜の現実はたったひとつ。

 紫苑という少年だけなのだと思い知らされる。

 こんな別れ話の局面で。

「蓮華。きみの望むものは、どうしても手に入らないんだよ。ごめんね。ぼくらが惺夜と紫苑であるかぎりできないことだから」

 陰りを帯びた声に含まれる微かな自嘲。

 しかし蓮華が彼の本心に気づくことはなかった。

 淡々とした態度で冷やかな表情を浮かべたまま、惺夜は動揺したようにも見えない。

 冷やかな態度の裏側で、惺夜がどんな気持ちで突き放したのか。

 このときの蓮華には理解できないことだった。

「どうしてそんなに紫苑を大切にするの?」

 もう動揺しすぎて泣けない蓮華に感情の消えた声で訊ねられ、惺夜は少しだけ困ったような顔で笑った。

 答えずに曖昧に微笑むだけの惺夜に蓮華の苛立ちが更に高まる。

 親しくなってから気づいた惺夜の迷いを知っているからこそ、彼のこの態度がごまかしにしか思えなくて。

「あなたはずっと紫苑の眼を意識しているわ。どうして? あなたはいつも迷っていた。わたしが気づかないと思っていたの……?」

 消えかかりそうな問いかけを受けて、不意に惺夜が表情を改めた。

 言い訳をするためではなく、彼女の叱責の意味がわかるから、ごまかすことができなくなって。

 たしかに紫苑の眼を意識して、蓮華への態度を抑制していたのは事実だ。

 どちらをより強く求めているか。

 それは今更確かめるまでもなく紫苑なのだ。

 彼を得ることができるなら、これほどまでにためらわなかっただろう。

 迷わなかっただろう。

 それが許される関係であるなら。

 男同士だとか、そういう禁忌以上に大きな禁断の事実がある。

 紫苑が「継承者」である以上、伴侶になれない同性の「守護者」は、対象から外される。

 歴代の継承者と守護者は、異性であれば例外なく婚礼を挙げている。

 だれよりも必要とし、だれよりも大切にする関係だ。

 異性であるなら最高の伴侶になれる。

 それが禁じられるのが同性で生を受けた者たちだった。

 妃を迎えなければならない「継承者」は、常に「男性」として生を受けるのだ。

 つまり惺夜が同性として生を受けた時点で、歴代の皇帝に習い、伴侶の対象からは外されるのが仕来たりである。

 すべてを知り尽くした「守護者」には、もしも想いに迷うことがあっても、禁じられた感情でしかない。

 お互いにそんな宿星を背負っていなければ、この星に降りなければ、避けられたかもしれない事態。

 けれど、それを招いた今、惺夜は己を自戒するしかない。

 この想いは禁断のものなのだと。

 ましてや、秘める想いが自然なものなのか、種族的な必然なのか。

 その判断さえないとしたら、どうやって素直になれる?

 どうやって紫苑に本当のことが言える?

 彼への想いに迷う証のように、蓮華にも惹かれる心を抱えて、どうしろと?

 惺夜の苦悩は穏やかな表情にかき消され、蓮華には読み取れない。

 彼の落ち着いた態度は、事実を認めたようにしか見えず、蓮華は密かに紫苑への嫉妬で悔しさを噛みしめた。

 惺夜の心を独り占めして離さない、無邪気な守護神に抑えきれない羨望と嫉妬を抱えて。

 やがて憎悪に変わるまで。

「きみ……それを紫苑に言った?」

 すこしだけ掠れた声に訊かれ、蓮華はためらいながらも首を振る。

 まさか自分から、そんな屈辱的な事実を、紫苑に告げられるはずもない。

 彼女の返答に惺夜はホッとした。

 自然に口許が綻んでくる。

 紫苑が事実を知らないと知って安堵する惺夜に蓮華は思う。

 これほど知られるのを恐れるのなら、事実を紫苑に告げてみようか?

 それで彼の態度が変わって、惺夜が困るのを見てみたい。

 振り向いてくれない彼に、同じ悔しさを与えることができるなら、どんなに‥…。

 けれど、そんなことをしても惺夜は振り向いてくれないと、蓮華は言われるまでもなく知っていた。

 知っていても紫苑の名ひとつで動揺する彼に意趣返しをしたかった。

 だれからも全身全霊で愛される紫苑が、動揺して傷つくなら、それもいいと思った。

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