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第八章 白昼夢
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しおりを挟む第八章 白昼夢
『わたしのことはどうかもう忘れてほしい』
ビクトリアが言ったというその言葉にランドールは今も打ちのめされている。
このところ毎晩深酒をしていた。
臣下たちには心配されているが、あまりやめようという気にはならない。
飲まないと眠れないのだ。
本当はあのとき、逢いたいと言うつもりだった。
生きているなら名が違ってもいい。
姿が多少変わっていてもいい。
例えビクトリアとフィオリナで、気性がすこしくらい違ってもいい。
ただ生きているなら逢いたかったのだ。
ランドールは彼女がどんなに変わっても受け入れるくらい、それくらいでは気持ちが変わらないくらい彼女を愛していた。
だが、彼女が伝えてきたのは別離の言葉だった。
「忘れろというのか、ビクトリア!! こんなにもそなたを愛しているというのに、そのわたしにそなたを忘れろとっ!! ……どうしたら忘れられるとっ」
泣き出しそうになってまた酒を煽る。
そうして夜を明かすようになって、ランドールは寝台で眠らないことも多くなった。
気が付いたら長椅子に腰掛けて泥酔したまま寝ていることがあるのだ。
だから、こんなふうに飲んでいたら、今日もまたここで寝るのだろう。
『お酒はもうやめてくださいな、ランディ』
突然の声にランドールが身を強張らせた。
彼をそう呼ぶのはビクトリアだけだ。
顔を上げるのが怖い。
でも、傍にだれかが立っている気がする。
『もうお酒はやめて。あなたになにかあったら、あの子たちはどうなるの?』
細く華奢な白い手が酒の入ったグラスを取り上げる。
見るともなしにその手を眺める。
俯いたまま。
視界の隅に白いドレスが揺れている。
思い切って顔を上げた。
「っ」
振り向いたその視線の先には懐かしいビクトリアの顔があった。
ランドールを叱りつけるときの顔をして愛しそうに覗き込んでいる。
「ビクトリア」
彼女は確かに白いドレスを着ていたが、よく見てみればそれは戦装束だった。
目の前にいるのはフィオリナだ。
確かにビクトリアなのに完全には彼女ではない。
そのことが涙を流させた。
『……ランディ』
近付いてきたフィオリナがそっと彼を抱き締める。
その腕は愛しい人を抱いていた。
愛しい夫を抱いていた。
どんなに変わってもビクトリアなのだ。
そう思ったが別離を言われたことが引っ掛かって、どうしても手を伸ばすことができない。
彼女の腕の中で泣くだけで。
情けないと思うのに涙は止まらない。
『泣かないで、ランディ。あなたに泣かれるとわたしも辛い』
「ビクトリア……何故わたしに忘れろと?」
『そうね。わたしも辛かったわ』
「だったらそんなことを言わなければっ」
激昂するランディを抱いて、フィオリナは小さく微笑んだ。
「ビクトリア?」
『気付いていないの? あの子を愛し始めているくせに』
「わたしはっ」
取り乱すランドールの背を抱いたまま、フィオリナは彼をきつく腕の中に閉じ込める。
今は顔を見られたくなくて。
泣いているところなんて見たくないし、見られたくもない。
フィオリナの瞳からも涙が幾筋も伝っていた。
『あなたはまだわたしを愛してくれている。それはこれからも変わらないわ。でも、そんな心の片隅でもうあなたは違うだれかを愛し始めている』
「違うっ。わたしはっ。わたしはっ」
これ以上言葉にならないのにランドールは何度も拒絶した。
彼女の言葉を。
『あの子がだれを愛するのか、それはわたしにもわからない。でも、今のあなたの傍にいて微笑みかけてあげられるのは……わたしじゃない』
「ビクトリア!!」
それ以上言うなとランドールが声を荒らげる。
『責めているわけではないのよ? 母親として怒っているわけでもない。あなたはわたしを忘れない。それだけでもう十分』
「ビクトリア!!」
『この8年あなたはわたしを愛し続けてくれた。わたしはだれよりも幸せな妻だったわ』
「別れの言葉など……聞きたくない。8年前だけでなく、そなたはまたわたしを置いていくのかっ!?」
不思議なことを言われたとばかりにフィオリナは笑った。
『わたしがあなたを置いていく? どうして?』
「ビクトリア?」
『あなたがわたしを置いて逝くのよ』
死という終着点のない神であるフィオリナ。
短命の種族である人として生まれたランドール。
どんなに愛し合っても、その生は重ならない。
その現実を突きつけられてランドールは言葉をなくす。
『もう……自由になって』
「ビク……」
名を呼び掛けたとき、フワリと彼女が身を寄せた。
柔らかく唇が触れる。
狂おしいほどに重なり合い求め合うふたり。
だが、その想いは決して実を結ばない。
ランドールはただ感じていた。
彼女のぬくもりを。
『もう……わたしを忘れていいの。もう十分。わたしは十分愛されたから幸せだったから、だから、今度はあなたが幸せになって』
「でき……ない」
キスの合間に囁かれた言葉にランドールも囁き返す。
忘れていいというのなら、十分幸せだったというのなら、どうして泣いているっ!?
ランドールの前で一度も泣いたことのない彼女が泣いている。
その現実にランドールの胸が締め付けられる。
その背に腕を回そうとした瞬間、彼女が薄れはじめた。
消えていく。
消えていく。
最愛の女性が消えていく。
ぬくもりを抱いていたくて、ランドールは夢中で彼女を抱こうとした。
だが、それも虚しくフィオリナは消えていく。
『ごめんなさい。もう時間みたい。でも、逢えて嬉しかったわ、ランディ。愛して……』
言葉は最後まで聞き取れなかった。
「愛している」と言いたかったのか、それとも「愛していた」と過去形で言いたかったのか。
ランドールには確かめる術がない。
消えていく彼女を追いかけて腕を伸ばし名を呼ぶ。
「ビクトリア!!」
その瞬間ハッと意識が現実に戻った。
どうやらランドールは寝台で眠っていたようである。
腕を両方とも天蓋に向かって伸ばしている。
その手が虚しくて両手を握り締めた。
「ビクトリア」
久し振りに逢った彼女。
夢だったのか現実だったのか、ランドールにはわからない。
でも、現実だった気がして仕方がない。
だってまだこの身に残っている。
彼女のぬくもりが。
触れた唇の熱さを今も覚えているっ!!
でも。
彼女は泣いていた。
ランドールを思って泣いていた。
『ランディ』
そう名を呼んでは花のように笑っていた彼女。
今は戦装束を身に纏い気高い戦女神。
その女神が泣いていたのだ。
ひとりの人間の男を想って。
『あの子を愛し始めているくせに』
「わたしの心の変化などお見通しだな、ビクトリア」
確かにランドールは透を愛し始めている。
存在を無視するには彼はあまりにもビクトリアに似すぎていた。
無視できるわけがないのだ。
そうと意識しないままに視線は彼を追っていた。
でも。
「そなたを愛する心もまた現実なのだ。わたしはどうすればいい? そなたになにをしてやれば報いてやれる? そなたひとりを置いて逝くわたしに」
フィオリナ。
ビクトリア。
どちらも彼女なのだとランドールは今更のように噛み締める。
どちらの彼女も自分は愛せる。
でも、彼女はランドールが自分に縛り付けられることを望んでいない。
泣きながら身を切られるような想いをしながら、それでも忘れていいと言った。
そんな切ない彼女の愛情を無視できない。
「わたしは……真実そなたに愛されていたのだな、ビクトリア。もしかしたらわたしの方がそなたの気持ちに負けていたのかもしれない」
ずっとランドールは彼女が自分を想ってくれる心より、きっと自分の方が何倍も彼女を愛していると思っていた。
そう自負していたのだ。
でも、もうわからなくなった。
どちらがより愛しているかなんて。
ただ自分に素直になろうと思った。
愛し始めている相手は彼女に1番よく似た彼女の最初の息子だ。
誠実さを忘れてはいけない。
そう思った。
「済まない、エド。わたしはそなたを苦しめるかもしれない」
そう呟いて寝台から抜け出した。
食堂へと行くと息子たちと一緒に透が待っていた。
傍を通りかかると彼が手を伸ばす。
服を掴んだ手に立ち止まると心配と不安を浮かべた目を向けていた。
ビクトリアと同じその眼差しを。
「お酒……また呑んでたのか?」
「どうして?」
「酒臭い」
一言言われて苦笑する。
「そうか。臭いが残っているか。済まない。嫌な思いをさせて」
「嫌な思いっていうか……そう毎晩呑むなよ。酒の呑みすぎは身体に悪い」
透は真剣に身体を気遣ってくれているようだった。
つい笑みが浮かぶ。
「笑うなよっ!!」
「済まない、つい」
ビクトリアも昨夜酒を止めていた。
このふたりは本当に似ているらしい。
「それに……」
「どうした? そろそろ席につきたいのだが?」
「いや……もしかして泣いた?」
「……」
ランドールが黙り込むと食堂にいた面々が、驚いたように透とランドールを見ていた。
どうやらそう思ったのは透だけのようである。
「どうしてそう思うんだ、トール? 父上は酔ってはいるみたいだけど、それを除けばいつもと同じに見えるけど」
「なんで、かなあ? 泣いたような気がして仕方がない。昨夜またフィオリナが夢に現れて泣いていたせいかな」
「フィオリナが?」
ランドールが驚いて問いかけると、透は「あっ」と口許を押さえた。
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暁が驚愕の声を投げる。
隆も疑問の視線を投げている。
しかし透には答えることができない。
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