1 / 1
第一章
1/24(土)
しおりを挟む
第一章 1/24(土)
Spotifyで今の状況に合う曲を選ぶ、ということはなかなか楽しい。プレイリストの中の宝物たちのことを真摯に考え、自分と向き合い、真に自分に合う楽曲を選ぶ。気分は音楽プロデューサーである。
バス停のベンチに座り、「ロック」と名付けたプレイリストを寒さに震える右の人差し指でタップして、プレイリスト内の検索欄を開く。なんの曲にしようかな?
今の僕は、外目から見れば「2月の粉雪が舞う冷え込む深夜に、藍色の厚いコートと紺のマフラー、黒の革手袋、ニューバランスの黒いスニーカーを着用し、厚手のトートバッグをすぐ隣に置き、バス停のベンチに足を組んで座り、スマホを真剣に見つめる若い男性」だ。
午前2時にバスなんか来るわけがないから、午前2時にここら辺の道をほっつき歩いている……露出狂か、徘徊老人か……にしたって変な人が僕のことを見た時、その人は僕のことを「変なやつだ」と思うはずだ。
つまり、今の僕は社会の中でも「変なやつ」扱いされて然るべき男だ、ということになるのだ。
「変なやつ」と「冬の夜」に合うロックミュージックはなかなか少ないからな。絞られて選びやすくなった、と言える。
僕の頭の中に、3曲のロックミュージックが浮かんだ。
1つ目はガンズ・アンド・ローゼズの「November Rain」だ。この曲は全体的に「聖らかさ」があって、主張が強いながらも腹の底から支えてくれるようなバスドラムのリズムと、ローズの癖のある、それでいてどこか寄り添うようなボーカルが特徴で、なにより終盤のエレキギターとストリングス、そして雨音の締めが余韻に浸らせてくれる。
2つ目はパール・ジャムの「Black」だ。寂しさと強さを感じさせるヴェダーの生々しい歌声は、オルタナティブロックそのものを耳に届けてくれる。そしてクリーントーンのシンプルなリズムギターと歪んだリードギターが暴れる後奏は思わず涙を誘う。
3つ目はレミオロメンの「粉雪」。この曲もクリーントーンのギターが素晴らしく、過ごしたことのないはずの雪国の青春の情景を僕の頭の中に浮かばせる。僕はこの曲を聞く度に、受験シーズンに突入し、彼女の部屋に案内されてドギマギしながら暖かい部屋で青チャートを解く高校生の男女カップルと、窓の外に好き勝手に舞い、コンクリートを白黒のまだら模様にする粉雪のことを考えてしまうのである。
数秒悩んで……これだけ評論しておいて、結局、検索欄に「November Rain」を入力し、ベンチから立った。
すぐに聖歌隊のコーラスのような聖らかな前奏が始まって、僕を東京の冬の深夜の、その中の寂しい住宅街の中に馴染ませた。
今夜僕が伺う家は、調べたところ、積水ハウスの「コモン」という住宅街モデルの中にある一際大きい一棟であり、二階建てで、オートロック。いわゆる「夢の一戸建て」なわけである。家具や照明、趣味なんかにもお金がかけられる裕福な家庭なんだろう。地図アプリを見ると、あと十五分で彼らの家に着くことになっていた。
その十五分の間、僕はまだ見ぬ大黒柱の「夢の一戸建て」を想像しながら歩いた。
多分、普段は成城石井や久世福なんかでご飯を買っているのだろう。子どもらも普段から高級なものを食べているに違いないし、私立の中学か高校に通わせていたりするのだろう。塾にも家庭教師にも金をかけているはずだ。朝飯ひとつとっても、僕が毎朝食っているものとは比べ物にならない豪華さを持っているはずだ。晩御飯も相当なものが日常的に出てくるのだろう。晩酌には10数年ものの赤ワインかウイスキーと、スモークチーズなんかをつまみにしてちびちびやるのだ。
いやはや本当に羨ましい。俺が幼少期失った贅沢さはああいった家庭にこそある。だからこそ僕は、こんなことがやめられないんだ。
イヤホンから流れるフランツ・フェルディナントの「Take Me Out」の再生を止めて、イヤホンをトートバッグの奥深くにしまった。落としてしまえば最後だからだ。
目的の「眺田」という表札が掲げられている一戸建ての正面から右側の側面へ歩き、僕は塀の際に置かれている高級住宅街に特有の、いやに仰々しそうな仕組みを持っている、灰色で金属製のゴミ捨てを目にとめた。そして、閑静な住宅街で深夜に自分の歪んだ性欲を満たそうとするような変なやつがいないことを確認して、ゴミ捨てに足をかけて一戸建ての敷地内に侵入した。
僕だって悪いことをやっている自覚はあるのだ。だが仕方ないではないか。露出狂であれ僕であれ、自分を振り回してしまいそうなほどの、社会的な地位やイメージを壊しかねないほどの、強くて大きい欲を抑えるために、こういうことをわざわざ自分からやっているのだから。褒めて欲しいくらいだ。
僕は頭の中で悪態をつきながら裏庭に来た。ざっと見渡して、監視カメラはどこにもない。ピットブルを飼っているわけでもない。現代人は金持ちになると防犯意識が甘くなるのだろうか?
逆だと思うけどなぁ。
庭とリビングルームを繋ぐ大きな窓から暗いリビングを見る。街灯に照らされて明るく、逆光のせいか家具の輪郭だけしか捉えられない。耳をすませると、中からシャワーの音が聞こえた。もしや、セックスの後に来てしまっただろうか?
それなら申し訳ないが……まあ、夫婦で愛とムードに満ちたセックスをした後に殺される、というのは幸せなもんではないだろうか。同じ日、同じ時に殺されるわけだからな。
大きい窓に手をかけると、軽い抵抗の後、開いた。
入った途端、だだっ広いリビングの中にただよう温さに筋肉が弛緩するのを感じた。
暖房をつけているのか?誰もいないのに?マジで?嘘だろ?
これまた広いテーブルの前にあるL字のソファを見ても、誰か寝ているわけではない。見渡す限り人はおらず、リビングの奥の廊下の、そのまた奥から光が漏れているのが見えた。多分あそこが風呂場なのだろう。
多分、彼らは2度目のシャワーだ。このまま寝室に移動して、同じベッドで(もう一回「やる」のかは知らないが)寝るはずだ。
用のないリビングの暖房をつけている?金持ちってこんなアホなのか?普通、電気代を抑えるために消してからシャワーを浴び、もう一回パジャマ服を着て就寝するのではないか?
こんなにアホな金持ちは初めてだ、ちくしょうめ!
やる気が失せたわけではないが、なんだか殺し甲斐が減った気がするぞ。
溜息をつき、足元と2階に続く階段に注意を向けながら、僕はキッチンへ歩を進めた。
キッチンとソファの間には物干し竿が鎮座しており、幼児サイズの冬服や下着、大小様々な靴下が数足、あまりセクシーではないブラジャーやパンティ、そして数着の同じデザイン同じサイズの白地に黒の横縞のボーダーシャツがあった。サイズ的に夫のものだろう。
僕は芸人の家に来たのだろうか?でも、こんな豪邸を建てられるほどの仕事が舞い込んできて、ボーダーシャツが特徴の芸人なんて見たことがない。僕は夫の素性にもやもやしながらキッチンへ歩を進めた。
キッチンには、数々のお高そうなスパイスや子供が飲んでいるであろうMILOの袋、観葉植物、Nestleのコーヒースタンド、その他もろもろのアメトークで紹介されていそうな白物家電たちがあった。何より僕の目を引いたのは、リビングに面する形で小さめのワインクーラーが置かれていて、それが発する淡い光の中に所狭しと赤ワインがしまわれていたことである。
僕はワインが趣味ではなく、なんなら初めて飲んだ時も好きになれなかったので(僕が飲酒に求めている「苦味」と、大前提として「大衆性」「粗雑さ」が無かったので、僕はワインはキライ。飲める人は大人っぽくてカッコイイ)よく知らないが、これだけの豪邸を建てられる資産がある以上、名と歴史のあるワインたちなのだろう。うらやましい限りだ。冷蔵庫の中にもいくつかお酒とつまみが入っているかもしれない……ビールはあるのかな?サラミはどうだろう?叫ばれることなく殺せたら、探してみようっと。
キッチンに入り、見渡す。包丁を外に出して立てている家ではないのか。幼い子供がいるからだな。
シンク前のスライドする棚を開けると、やはりサランラップとかアルミホイルとか布巾とかに混じって包丁が数丁取りやすい形で保管してあった。左から三徳包丁、柳刃包丁、切りつけ包丁、中華包丁。4丁全てが暗闇の中で窓から差し込む街灯の強い光を反射し、反射光で僕の顔や肩を照らしている。
かなり料理にこだわっている家庭とみえる。夫は釣りも趣味にしていて、釣果を家に持って帰っては捌き、振る舞うとか?それとも、妻がエスニック料理に挑戦していて、様々な種類の包丁があった方が都合がいいからとか?
ま、僕の知ったことではないな。ごちそうになる機会なんて今後一切ないのだから。
いちばん刃長が長い柳刃包丁を手に取り、キッチンを後にする。そして、脱衣所へ続く扉の前に立った。柳刃包丁をフローリングへ置き、肩にかけているトートバッグからCICAの30枚入りフェイスパックを取り出し、前髪を手で浮かせて押えながら、静かに冬の夜のせいで冷えきったフェイスパックを装着した。顔の皮膚に冷たい美容液に乗ってツボクサの成分たちが移り、密かに僕の顔の乾燥具合を和らげ、頬や鼻先、おでこに潤いを与えているのを感じる。
「サタデーナイト・フィーバー」の始まりである。
僕は柳刃包丁を持ち、反射光をみとめ、冷たい空気を鼻から吸い、口から吐いた。
シャワーの音が止んだ。扉の奥から「ガラリ」と音がして、夫が何やら喋っているらしい声と、妻の笑い声が聞こえてきた。
「そう、だから明日は俺仕事で同僚とか後輩に「自分のコラボカフェがあったらこんなメニューがあるよね」っていう話を聞かされて、メニューを見せられなきゃいけないのよ」
「うふふふ……変な事考えるよね~、ほんとに……とりあえず、ボーダーは絶対にネタにするでしょ」
「するよ。あいつらはする」
何の会話なんだ?YouTuberなのか、こいつは?家に帰ったら調べてみようかな?ボーダーシャツのYouTuberグループ……つまんなそうだな~……
その後も数分、夫婦間にしか伝わらないつまらない会話があり、夫がドアノブに手をかけた。今だ。殺してやる。
ドアが開くと、真正面にパジャマ姿のおじさんらしい「崩れてはいないが健康でもない」体が見えた。そして、まず肩をつかみ、ボクサーが右フックを決めるように、柳刃包丁の切っ先で90°の扇形を描く。腰から肩に、肩から腕にかけての力の流れ、適切な手首の角度を考えながら、首の右側を斬る。
刃が頚椎に届く手応えがあり、刃を止めた。そして、そのまま包丁をこちら側へ縦に抜いた。刃こぼれがなくて良かった。
血が白い壁紙に、キル・ビルの演出の如く吹き出し、へばりついた。
「ふう~っ」僕はキスする時くらいの力を唇に入れながら、息を吹いた。不意に天井を向く。
脳の奥と副腎髄質から快楽と熱狂のホルモン達が分泌されているのを感じる。大脳皮質の表面で「松重豊さんが肩に痛み止めを塗って「じんじんきたきたー」と叫び、肩の周りに縛り付けられた鎖が破壊されるCM」が再生される。始まった。俺の「サタデーナイト・フィーバー」は血、頸動脈を切断した手応え、アドレナリンとβエンドルフィン、そして松重豊さんの叫び声によって始められる狂宴なのだ。
悦に浸る僕の耳を叫び声がつんざいた。眺田家の大黒柱と思しき人物が首を抑えて倒れ込み、わけも分からず茫然自失としている妻が奥に見える。
「うあっ、なっ、うあああああううううああ……っ!」
何か喋りたそうだな。そして声がでかい。
僕は「話が通じない狂人」の演技のための精神的なスイッチをオンにして(外見は既に「殺人鬼」にふさわしい格好なので)、ふざけてこう言った。
「へへ、おコンバンハ」
次に妻だ。ちょうどブラジャーをつけて、背中のホックを閉めているところだったので、両手が不自由だ。都合がいい。
彼女の元へ走って薄い肩を掴み、風呂場の扉に体を押し付け、同様にした。洗濯機、洗濯カゴ、床に血が吹き出し、滴り落ちる。
もう一回洗濯しなきゃいけなくなったな。
妻は夫とは違い、息を漏らし呻くだけでうるささはない。
僕は振り向き、外の人間に警察を呼ばせるために叫び散らす夫に聞く。
「警!……察、警察呼んで!殺ぉ、殺される…」
「眺田さん、遺言をお聞きしても?」
「警、さ、警察~!警、げほ、ううう、察」
「眺田さん!往生際が悪いと妻からのイメージが悪くなりますよ?YouTubeも人気落ちちゃうかもしれない」
「ううう、ころ、殺される!警、察……」
「はぁ~……俺の話聞けって~。ダサいよ眺田さん」
抵抗する気も話を聞く気もないらしく、仕方ないのでほふく前進する体の背中側からちぎれかけた首をつかみ、左側も斬って両方の頸動脈を切断した。
またしても叫び声が数十秒あったのち、僕の方を向いて「地獄に堕ちろ」みたいなことを小声で囁いて、血の池の中に沈んだ。呪ったつもりか、クソ野郎め。また振り返って妻の方を見ると、妻も意識が朦朧としているようだ。垂れた血が垂れた乳を紅く染め、輝いている。
「誘ってんのかよ、痴女の未亡人め」
嫌だなあ。俺はリョナラーでも熟女好きでもないのだ。そんなに誘われても困るぞ。
「奥さんは?喋れる?意識ある?」
「ううふ、ふ、殺さ、はっ、殺さない、で」
「それは奥さんがかかる医者に言ってくれないと。俺は医師免許持ってないんだからさ」
英検は2級あるよ。高校の時に取ったんだ。
「むす、息子は、息子だ……けは」
その言葉を聞いた時、僕は感動した。夫はただ呪詛を言い放って死んだのに対し、妻は最後の最後まで子供の心配をし、命を乞うた。素晴らしい母性だ。子への愛とはこうあるべきだ。
「わかった。いいだろう、奥さんの子どもさんは殺さないことにしよう。約束するよ」
実際子どもは姿を見せると本当に本当にうるさいから、姿を見せる隙もなく去るのが得だ。殺す殺さないは関係ないのだ。
奥さんに拍手を送ってやった後、殺した。
二人とも抵抗せずに殺されてくれた。なんという甲斐のない金持ちなんだ。過去には首を切られた後に、近場にあった壺で反抗しようとした金持ちさえいたと言うのに。本当に殺し甲斐ってものがない。正直今までの殺人経験のなかで最悪の家かもしれないぞ、眺田家は。
眺田夫の心臓に包丁を突き刺し、彼の瀕死の叫び声が誰かの耳に届き、警察を呼ばれている可能性を考慮してすぐに窓から脱出した。正面の門から出るのは監視カメラに捉えられる可能性があるので裏庭から出たいのだが、あいにく仕切りのための壁を越えられそうなバーベキューセットやらゲートフェンスなんかが見つからない。
ここは、俺の身体能力を信じることにしよう。トートバッグを壁の外に投げ、庭の中で精一杯の助走をつけて跳び、壁の外に手を、内に足をつけることに成功した。醜い方法だが、壁をよじ登り、コンクリートの歩道の上に着地した。トートバッグを回収して前を向く。
すると、視界の左端に白い光が見えた。赤い光でないし、サイレンも聞こえないから警察車両ではないが、にしても「目撃者」がいるのはマズイ。人の記憶は無くしやすいようで保持される期間は長い。「深夜2時に歩道にトートバッグを持ってしゃがみこみ、フェイスパックをしているコート姿の成人男性」は印象に残りやすいだろうからなあ。
フェイスパックを額から顎に向かって剥がし、トートバッグに突っ込んだ。
白い光が俺を照らし、すぐ通り過ぎて行った。僕は車の方を見た。もしかしたら僕のことを怪しむ連中が乗っているかもしれないからだ。が、特に呼び止められることもなく、白いレクサスは右折して行った。「あぶねぇ」無意識にそうつぶやいた。今更、心臓の早い鼓動と、死体に化粧水を塗り忘れたことに気づいた。
街灯に照らされた暗い帰路の中で、僕は殺人の快楽に溺れていた。イヤホンからはビートルズの『Hey Jude』の最後の合唱の部分が流れる。大団円にふさわしいハーモニーは、『劇場版エヴァンゲリオン Air/まごころを君に』の最後を思い起こさせる
殺した。人を殺したのだ。僕が殺した。
ふたつの多大な資産を持ち、資本主義社会の中流以上の地位に居座る命を僕が奪った。
これは社会にとってでなく、僕にとっての善行でしかないのだが、にしたって人を殺すのは気持ちがいい。
なぜこんな映画のような凶行を繰り返しているのか、僕は僕の思考を読んでいるかもしれない上位存在のために頭の中で説明し始めた。やっぱり変な奴じゃないか。
事の発端は9歳のときの、冬と春の間の夜だった。土曜日だった。たしか僕は母と一緒にリビングの机で英検4級取得のための参考書を解いていた。カッコの中の英語を選択して、問題の日本語の文を英訳する問題だった気がする。父は隣の引き戸で区切られている書斎で、パソコンを触って何がしかの仕事をやっていた気がする。
僕も集中して問題を解いていたし、母もその頃読み進めていた小説を読んでたから、家の中は本当に静かだった。
ある時、ドアがガチャ、と鳴る音がした。全員いるのに。父が僕と母を二階奥の両親の寝室に隠し、ドアを閉めた。
そこからのことは、申し訳ないけど、断片的にしか覚えられなかった。父が怒鳴って……父以外の男が怒鳴って……唸り声が聞こえて……母が警察を呼んで……母が泣きながら「あなたはもう立派なお兄ちゃんだから」と言ってドアから飛び出して……サイレンが聞こえて……警察のお兄さんが僕を抱いてパトカーに乗せ……知らぬ間に帰省した時に遊んでくれた父方の叔父の家で育つことになった。
そこまでの僕の世界は、当たり前だがルールが骨組みになって作られていた。勉強をして、テストで良い点をとったら褒められる。お手伝いをしたら100円が貰える。ありがとうとごめんなさいをきちんと言う。いたずらや汚い言葉を言ったら叱られてしまう。人を傷つけてしまうことはしない。お金を払ったら物が手に入る。どんな方向であれ、きちんと努力していれば、立派なお兄さんになれる。
しかし、その夜入ってきた目出し帽と黒いダウンを着て右手にハンマーを握る男には、そのルールの全てに縛られていなかった。
彼はただの強奪者だった。僕のお父さんとお母さんを、家の中の静かさの全てを奪い去って刑務所に行った。
後から叔父含め大人たちは「不幸だった」「運が悪かったよ」「またあんなことにはならないよ」と、頼んでもないのに僕に行ってきた。それが心遣いというものなのだろうが……そんな説明はあの頃の僕には焼け石に水。全くもって意味を成さなかった。
僕が彼から感じ取ったのは恐怖や嫌悪でなく、憧れだったからだ。ルールに縛られることなく人の人生を破壊できる強さを見てしまったからだ。酒鬼薔薇聖斗に憧れる男子中学生に等しい。絶対にそんなこと思ってはいけない。
あれは悪だ。憎むべきだ。禁むべきものだ。
それでも……たった一人の無法者が二人の成人の人生を終わらせ、一人の幼い子供の人生を歪める。大人たちが自分を必死こいて律して作った数々の法律、財産、地位をたった一人の狂人が踏み潰してコンクリートの上の糞みたいな色のシミにしてしまう(これは誇張表現だが)
なんて恐ろしくて、なんて強大なのであろうか。
僕はやがて成長し、社会に適合する方法を覚えていった。勉強して大学に入り、心理を学び、大手のコンサル企業に入り、安定した生活を手に入れた。
スーツの着方から人の心の読み方、組織の動かし方、信頼の得方。僕は社会に適合するための全てを得た。
そして、ほんの少しの間だけ社会秩序から抜け出すことの楽しさも覚えた。あの事件のせいか、金曜日の夜になるとわくわくする。明日の深夜には僕は人を殺すんだ。僕と同じお金持ちの家に侵入して、偉い人の首元を包丁で切り裂いたり、寝ているところを首を絞めて殺すんだ。
でも、誤解しないで欲しい。血が見たいんじゃなくて、社会秩序から抜け出す快感を得たくてやっている。社会秩序に囚われて、人に強制するような偉い大人をぶっ殺してやりたいだけなんだ。
復讐にはなる訳もない。確認なんだ。あの強盗が僕に見せた無秩序さを確認して、快感を得たいだけなんだ。
Spotifyで今の状況に合う曲を選ぶ、ということはなかなか楽しい。プレイリストの中の宝物たちのことを真摯に考え、自分と向き合い、真に自分に合う楽曲を選ぶ。気分は音楽プロデューサーである。
バス停のベンチに座り、「ロック」と名付けたプレイリストを寒さに震える右の人差し指でタップして、プレイリスト内の検索欄を開く。なんの曲にしようかな?
今の僕は、外目から見れば「2月の粉雪が舞う冷え込む深夜に、藍色の厚いコートと紺のマフラー、黒の革手袋、ニューバランスの黒いスニーカーを着用し、厚手のトートバッグをすぐ隣に置き、バス停のベンチに足を組んで座り、スマホを真剣に見つめる若い男性」だ。
午前2時にバスなんか来るわけがないから、午前2時にここら辺の道をほっつき歩いている……露出狂か、徘徊老人か……にしたって変な人が僕のことを見た時、その人は僕のことを「変なやつだ」と思うはずだ。
つまり、今の僕は社会の中でも「変なやつ」扱いされて然るべき男だ、ということになるのだ。
「変なやつ」と「冬の夜」に合うロックミュージックはなかなか少ないからな。絞られて選びやすくなった、と言える。
僕の頭の中に、3曲のロックミュージックが浮かんだ。
1つ目はガンズ・アンド・ローゼズの「November Rain」だ。この曲は全体的に「聖らかさ」があって、主張が強いながらも腹の底から支えてくれるようなバスドラムのリズムと、ローズの癖のある、それでいてどこか寄り添うようなボーカルが特徴で、なにより終盤のエレキギターとストリングス、そして雨音の締めが余韻に浸らせてくれる。
2つ目はパール・ジャムの「Black」だ。寂しさと強さを感じさせるヴェダーの生々しい歌声は、オルタナティブロックそのものを耳に届けてくれる。そしてクリーントーンのシンプルなリズムギターと歪んだリードギターが暴れる後奏は思わず涙を誘う。
3つ目はレミオロメンの「粉雪」。この曲もクリーントーンのギターが素晴らしく、過ごしたことのないはずの雪国の青春の情景を僕の頭の中に浮かばせる。僕はこの曲を聞く度に、受験シーズンに突入し、彼女の部屋に案内されてドギマギしながら暖かい部屋で青チャートを解く高校生の男女カップルと、窓の外に好き勝手に舞い、コンクリートを白黒のまだら模様にする粉雪のことを考えてしまうのである。
数秒悩んで……これだけ評論しておいて、結局、検索欄に「November Rain」を入力し、ベンチから立った。
すぐに聖歌隊のコーラスのような聖らかな前奏が始まって、僕を東京の冬の深夜の、その中の寂しい住宅街の中に馴染ませた。
今夜僕が伺う家は、調べたところ、積水ハウスの「コモン」という住宅街モデルの中にある一際大きい一棟であり、二階建てで、オートロック。いわゆる「夢の一戸建て」なわけである。家具や照明、趣味なんかにもお金がかけられる裕福な家庭なんだろう。地図アプリを見ると、あと十五分で彼らの家に着くことになっていた。
その十五分の間、僕はまだ見ぬ大黒柱の「夢の一戸建て」を想像しながら歩いた。
多分、普段は成城石井や久世福なんかでご飯を買っているのだろう。子どもらも普段から高級なものを食べているに違いないし、私立の中学か高校に通わせていたりするのだろう。塾にも家庭教師にも金をかけているはずだ。朝飯ひとつとっても、僕が毎朝食っているものとは比べ物にならない豪華さを持っているはずだ。晩御飯も相当なものが日常的に出てくるのだろう。晩酌には10数年ものの赤ワインかウイスキーと、スモークチーズなんかをつまみにしてちびちびやるのだ。
いやはや本当に羨ましい。俺が幼少期失った贅沢さはああいった家庭にこそある。だからこそ僕は、こんなことがやめられないんだ。
イヤホンから流れるフランツ・フェルディナントの「Take Me Out」の再生を止めて、イヤホンをトートバッグの奥深くにしまった。落としてしまえば最後だからだ。
目的の「眺田」という表札が掲げられている一戸建ての正面から右側の側面へ歩き、僕は塀の際に置かれている高級住宅街に特有の、いやに仰々しそうな仕組みを持っている、灰色で金属製のゴミ捨てを目にとめた。そして、閑静な住宅街で深夜に自分の歪んだ性欲を満たそうとするような変なやつがいないことを確認して、ゴミ捨てに足をかけて一戸建ての敷地内に侵入した。
僕だって悪いことをやっている自覚はあるのだ。だが仕方ないではないか。露出狂であれ僕であれ、自分を振り回してしまいそうなほどの、社会的な地位やイメージを壊しかねないほどの、強くて大きい欲を抑えるために、こういうことをわざわざ自分からやっているのだから。褒めて欲しいくらいだ。
僕は頭の中で悪態をつきながら裏庭に来た。ざっと見渡して、監視カメラはどこにもない。ピットブルを飼っているわけでもない。現代人は金持ちになると防犯意識が甘くなるのだろうか?
逆だと思うけどなぁ。
庭とリビングルームを繋ぐ大きな窓から暗いリビングを見る。街灯に照らされて明るく、逆光のせいか家具の輪郭だけしか捉えられない。耳をすませると、中からシャワーの音が聞こえた。もしや、セックスの後に来てしまっただろうか?
それなら申し訳ないが……まあ、夫婦で愛とムードに満ちたセックスをした後に殺される、というのは幸せなもんではないだろうか。同じ日、同じ時に殺されるわけだからな。
大きい窓に手をかけると、軽い抵抗の後、開いた。
入った途端、だだっ広いリビングの中にただよう温さに筋肉が弛緩するのを感じた。
暖房をつけているのか?誰もいないのに?マジで?嘘だろ?
これまた広いテーブルの前にあるL字のソファを見ても、誰か寝ているわけではない。見渡す限り人はおらず、リビングの奥の廊下の、そのまた奥から光が漏れているのが見えた。多分あそこが風呂場なのだろう。
多分、彼らは2度目のシャワーだ。このまま寝室に移動して、同じベッドで(もう一回「やる」のかは知らないが)寝るはずだ。
用のないリビングの暖房をつけている?金持ちってこんなアホなのか?普通、電気代を抑えるために消してからシャワーを浴び、もう一回パジャマ服を着て就寝するのではないか?
こんなにアホな金持ちは初めてだ、ちくしょうめ!
やる気が失せたわけではないが、なんだか殺し甲斐が減った気がするぞ。
溜息をつき、足元と2階に続く階段に注意を向けながら、僕はキッチンへ歩を進めた。
キッチンとソファの間には物干し竿が鎮座しており、幼児サイズの冬服や下着、大小様々な靴下が数足、あまりセクシーではないブラジャーやパンティ、そして数着の同じデザイン同じサイズの白地に黒の横縞のボーダーシャツがあった。サイズ的に夫のものだろう。
僕は芸人の家に来たのだろうか?でも、こんな豪邸を建てられるほどの仕事が舞い込んできて、ボーダーシャツが特徴の芸人なんて見たことがない。僕は夫の素性にもやもやしながらキッチンへ歩を進めた。
キッチンには、数々のお高そうなスパイスや子供が飲んでいるであろうMILOの袋、観葉植物、Nestleのコーヒースタンド、その他もろもろのアメトークで紹介されていそうな白物家電たちがあった。何より僕の目を引いたのは、リビングに面する形で小さめのワインクーラーが置かれていて、それが発する淡い光の中に所狭しと赤ワインがしまわれていたことである。
僕はワインが趣味ではなく、なんなら初めて飲んだ時も好きになれなかったので(僕が飲酒に求めている「苦味」と、大前提として「大衆性」「粗雑さ」が無かったので、僕はワインはキライ。飲める人は大人っぽくてカッコイイ)よく知らないが、これだけの豪邸を建てられる資産がある以上、名と歴史のあるワインたちなのだろう。うらやましい限りだ。冷蔵庫の中にもいくつかお酒とつまみが入っているかもしれない……ビールはあるのかな?サラミはどうだろう?叫ばれることなく殺せたら、探してみようっと。
キッチンに入り、見渡す。包丁を外に出して立てている家ではないのか。幼い子供がいるからだな。
シンク前のスライドする棚を開けると、やはりサランラップとかアルミホイルとか布巾とかに混じって包丁が数丁取りやすい形で保管してあった。左から三徳包丁、柳刃包丁、切りつけ包丁、中華包丁。4丁全てが暗闇の中で窓から差し込む街灯の強い光を反射し、反射光で僕の顔や肩を照らしている。
かなり料理にこだわっている家庭とみえる。夫は釣りも趣味にしていて、釣果を家に持って帰っては捌き、振る舞うとか?それとも、妻がエスニック料理に挑戦していて、様々な種類の包丁があった方が都合がいいからとか?
ま、僕の知ったことではないな。ごちそうになる機会なんて今後一切ないのだから。
いちばん刃長が長い柳刃包丁を手に取り、キッチンを後にする。そして、脱衣所へ続く扉の前に立った。柳刃包丁をフローリングへ置き、肩にかけているトートバッグからCICAの30枚入りフェイスパックを取り出し、前髪を手で浮かせて押えながら、静かに冬の夜のせいで冷えきったフェイスパックを装着した。顔の皮膚に冷たい美容液に乗ってツボクサの成分たちが移り、密かに僕の顔の乾燥具合を和らげ、頬や鼻先、おでこに潤いを与えているのを感じる。
「サタデーナイト・フィーバー」の始まりである。
僕は柳刃包丁を持ち、反射光をみとめ、冷たい空気を鼻から吸い、口から吐いた。
シャワーの音が止んだ。扉の奥から「ガラリ」と音がして、夫が何やら喋っているらしい声と、妻の笑い声が聞こえてきた。
「そう、だから明日は俺仕事で同僚とか後輩に「自分のコラボカフェがあったらこんなメニューがあるよね」っていう話を聞かされて、メニューを見せられなきゃいけないのよ」
「うふふふ……変な事考えるよね~、ほんとに……とりあえず、ボーダーは絶対にネタにするでしょ」
「するよ。あいつらはする」
何の会話なんだ?YouTuberなのか、こいつは?家に帰ったら調べてみようかな?ボーダーシャツのYouTuberグループ……つまんなそうだな~……
その後も数分、夫婦間にしか伝わらないつまらない会話があり、夫がドアノブに手をかけた。今だ。殺してやる。
ドアが開くと、真正面にパジャマ姿のおじさんらしい「崩れてはいないが健康でもない」体が見えた。そして、まず肩をつかみ、ボクサーが右フックを決めるように、柳刃包丁の切っ先で90°の扇形を描く。腰から肩に、肩から腕にかけての力の流れ、適切な手首の角度を考えながら、首の右側を斬る。
刃が頚椎に届く手応えがあり、刃を止めた。そして、そのまま包丁をこちら側へ縦に抜いた。刃こぼれがなくて良かった。
血が白い壁紙に、キル・ビルの演出の如く吹き出し、へばりついた。
「ふう~っ」僕はキスする時くらいの力を唇に入れながら、息を吹いた。不意に天井を向く。
脳の奥と副腎髄質から快楽と熱狂のホルモン達が分泌されているのを感じる。大脳皮質の表面で「松重豊さんが肩に痛み止めを塗って「じんじんきたきたー」と叫び、肩の周りに縛り付けられた鎖が破壊されるCM」が再生される。始まった。俺の「サタデーナイト・フィーバー」は血、頸動脈を切断した手応え、アドレナリンとβエンドルフィン、そして松重豊さんの叫び声によって始められる狂宴なのだ。
悦に浸る僕の耳を叫び声がつんざいた。眺田家の大黒柱と思しき人物が首を抑えて倒れ込み、わけも分からず茫然自失としている妻が奥に見える。
「うあっ、なっ、うあああああううううああ……っ!」
何か喋りたそうだな。そして声がでかい。
僕は「話が通じない狂人」の演技のための精神的なスイッチをオンにして(外見は既に「殺人鬼」にふさわしい格好なので)、ふざけてこう言った。
「へへ、おコンバンハ」
次に妻だ。ちょうどブラジャーをつけて、背中のホックを閉めているところだったので、両手が不自由だ。都合がいい。
彼女の元へ走って薄い肩を掴み、風呂場の扉に体を押し付け、同様にした。洗濯機、洗濯カゴ、床に血が吹き出し、滴り落ちる。
もう一回洗濯しなきゃいけなくなったな。
妻は夫とは違い、息を漏らし呻くだけでうるささはない。
僕は振り向き、外の人間に警察を呼ばせるために叫び散らす夫に聞く。
「警!……察、警察呼んで!殺ぉ、殺される…」
「眺田さん、遺言をお聞きしても?」
「警、さ、警察~!警、げほ、ううう、察」
「眺田さん!往生際が悪いと妻からのイメージが悪くなりますよ?YouTubeも人気落ちちゃうかもしれない」
「ううう、ころ、殺される!警、察……」
「はぁ~……俺の話聞けって~。ダサいよ眺田さん」
抵抗する気も話を聞く気もないらしく、仕方ないのでほふく前進する体の背中側からちぎれかけた首をつかみ、左側も斬って両方の頸動脈を切断した。
またしても叫び声が数十秒あったのち、僕の方を向いて「地獄に堕ちろ」みたいなことを小声で囁いて、血の池の中に沈んだ。呪ったつもりか、クソ野郎め。また振り返って妻の方を見ると、妻も意識が朦朧としているようだ。垂れた血が垂れた乳を紅く染め、輝いている。
「誘ってんのかよ、痴女の未亡人め」
嫌だなあ。俺はリョナラーでも熟女好きでもないのだ。そんなに誘われても困るぞ。
「奥さんは?喋れる?意識ある?」
「ううふ、ふ、殺さ、はっ、殺さない、で」
「それは奥さんがかかる医者に言ってくれないと。俺は医師免許持ってないんだからさ」
英検は2級あるよ。高校の時に取ったんだ。
「むす、息子は、息子だ……けは」
その言葉を聞いた時、僕は感動した。夫はただ呪詛を言い放って死んだのに対し、妻は最後の最後まで子供の心配をし、命を乞うた。素晴らしい母性だ。子への愛とはこうあるべきだ。
「わかった。いいだろう、奥さんの子どもさんは殺さないことにしよう。約束するよ」
実際子どもは姿を見せると本当に本当にうるさいから、姿を見せる隙もなく去るのが得だ。殺す殺さないは関係ないのだ。
奥さんに拍手を送ってやった後、殺した。
二人とも抵抗せずに殺されてくれた。なんという甲斐のない金持ちなんだ。過去には首を切られた後に、近場にあった壺で反抗しようとした金持ちさえいたと言うのに。本当に殺し甲斐ってものがない。正直今までの殺人経験のなかで最悪の家かもしれないぞ、眺田家は。
眺田夫の心臓に包丁を突き刺し、彼の瀕死の叫び声が誰かの耳に届き、警察を呼ばれている可能性を考慮してすぐに窓から脱出した。正面の門から出るのは監視カメラに捉えられる可能性があるので裏庭から出たいのだが、あいにく仕切りのための壁を越えられそうなバーベキューセットやらゲートフェンスなんかが見つからない。
ここは、俺の身体能力を信じることにしよう。トートバッグを壁の外に投げ、庭の中で精一杯の助走をつけて跳び、壁の外に手を、内に足をつけることに成功した。醜い方法だが、壁をよじ登り、コンクリートの歩道の上に着地した。トートバッグを回収して前を向く。
すると、視界の左端に白い光が見えた。赤い光でないし、サイレンも聞こえないから警察車両ではないが、にしても「目撃者」がいるのはマズイ。人の記憶は無くしやすいようで保持される期間は長い。「深夜2時に歩道にトートバッグを持ってしゃがみこみ、フェイスパックをしているコート姿の成人男性」は印象に残りやすいだろうからなあ。
フェイスパックを額から顎に向かって剥がし、トートバッグに突っ込んだ。
白い光が俺を照らし、すぐ通り過ぎて行った。僕は車の方を見た。もしかしたら僕のことを怪しむ連中が乗っているかもしれないからだ。が、特に呼び止められることもなく、白いレクサスは右折して行った。「あぶねぇ」無意識にそうつぶやいた。今更、心臓の早い鼓動と、死体に化粧水を塗り忘れたことに気づいた。
街灯に照らされた暗い帰路の中で、僕は殺人の快楽に溺れていた。イヤホンからはビートルズの『Hey Jude』の最後の合唱の部分が流れる。大団円にふさわしいハーモニーは、『劇場版エヴァンゲリオン Air/まごころを君に』の最後を思い起こさせる
殺した。人を殺したのだ。僕が殺した。
ふたつの多大な資産を持ち、資本主義社会の中流以上の地位に居座る命を僕が奪った。
これは社会にとってでなく、僕にとっての善行でしかないのだが、にしたって人を殺すのは気持ちがいい。
なぜこんな映画のような凶行を繰り返しているのか、僕は僕の思考を読んでいるかもしれない上位存在のために頭の中で説明し始めた。やっぱり変な奴じゃないか。
事の発端は9歳のときの、冬と春の間の夜だった。土曜日だった。たしか僕は母と一緒にリビングの机で英検4級取得のための参考書を解いていた。カッコの中の英語を選択して、問題の日本語の文を英訳する問題だった気がする。父は隣の引き戸で区切られている書斎で、パソコンを触って何がしかの仕事をやっていた気がする。
僕も集中して問題を解いていたし、母もその頃読み進めていた小説を読んでたから、家の中は本当に静かだった。
ある時、ドアがガチャ、と鳴る音がした。全員いるのに。父が僕と母を二階奥の両親の寝室に隠し、ドアを閉めた。
そこからのことは、申し訳ないけど、断片的にしか覚えられなかった。父が怒鳴って……父以外の男が怒鳴って……唸り声が聞こえて……母が警察を呼んで……母が泣きながら「あなたはもう立派なお兄ちゃんだから」と言ってドアから飛び出して……サイレンが聞こえて……警察のお兄さんが僕を抱いてパトカーに乗せ……知らぬ間に帰省した時に遊んでくれた父方の叔父の家で育つことになった。
そこまでの僕の世界は、当たり前だがルールが骨組みになって作られていた。勉強をして、テストで良い点をとったら褒められる。お手伝いをしたら100円が貰える。ありがとうとごめんなさいをきちんと言う。いたずらや汚い言葉を言ったら叱られてしまう。人を傷つけてしまうことはしない。お金を払ったら物が手に入る。どんな方向であれ、きちんと努力していれば、立派なお兄さんになれる。
しかし、その夜入ってきた目出し帽と黒いダウンを着て右手にハンマーを握る男には、そのルールの全てに縛られていなかった。
彼はただの強奪者だった。僕のお父さんとお母さんを、家の中の静かさの全てを奪い去って刑務所に行った。
後から叔父含め大人たちは「不幸だった」「運が悪かったよ」「またあんなことにはならないよ」と、頼んでもないのに僕に行ってきた。それが心遣いというものなのだろうが……そんな説明はあの頃の僕には焼け石に水。全くもって意味を成さなかった。
僕が彼から感じ取ったのは恐怖や嫌悪でなく、憧れだったからだ。ルールに縛られることなく人の人生を破壊できる強さを見てしまったからだ。酒鬼薔薇聖斗に憧れる男子中学生に等しい。絶対にそんなこと思ってはいけない。
あれは悪だ。憎むべきだ。禁むべきものだ。
それでも……たった一人の無法者が二人の成人の人生を終わらせ、一人の幼い子供の人生を歪める。大人たちが自分を必死こいて律して作った数々の法律、財産、地位をたった一人の狂人が踏み潰してコンクリートの上の糞みたいな色のシミにしてしまう(これは誇張表現だが)
なんて恐ろしくて、なんて強大なのであろうか。
僕はやがて成長し、社会に適合する方法を覚えていった。勉強して大学に入り、心理を学び、大手のコンサル企業に入り、安定した生活を手に入れた。
スーツの着方から人の心の読み方、組織の動かし方、信頼の得方。僕は社会に適合するための全てを得た。
そして、ほんの少しの間だけ社会秩序から抜け出すことの楽しさも覚えた。あの事件のせいか、金曜日の夜になるとわくわくする。明日の深夜には僕は人を殺すんだ。僕と同じお金持ちの家に侵入して、偉い人の首元を包丁で切り裂いたり、寝ているところを首を絞めて殺すんだ。
でも、誤解しないで欲しい。血が見たいんじゃなくて、社会秩序から抜け出す快感を得たくてやっている。社会秩序に囚われて、人に強制するような偉い大人をぶっ殺してやりたいだけなんだ。
復讐にはなる訳もない。確認なんだ。あの強盗が僕に見せた無秩序さを確認して、快感を得たいだけなんだ。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる