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戻らない過去
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――パーティーから1カ月後――
王宮画家たちは、パーティー会場で貴族たちから絵画の依頼を受け忙しさを増していた。パーティーが行われた春先の季節から、温かい日が増えてきている。柔らかい陽射しの中、侍女たちは絵画のための花々を持ち、アトリエへと向かう。抱えている花々は、チューリップがメイン。ブリューワー派の絵画の多くは、チューリップが多い。昔、ブリューゲル一家の絵画の中に、チューリップがあった。そして、その当時にしては珍しい花も静物画の中に含まれていた。
アトリエで絵画制作の準備を進めている画家とは違い、1人、花々を生育している庭園をスケッチブックを片手に歩いている画家がいた。黄金色の髪の毛が、太陽の陽射しで光を反射し、少し日焼けした肌が健康的で逞しい身体を引き立たせている。
庭園からアトリエへと歩いている侍女の中では、ほぅっとため息をついて見惚れている者もいるほど。そんなことは気にせず、モーネスは庭園を歩き、時折、足を止めてスケッチをする。鉛筆が激しく優しく線を描き、濃淡を鉛筆でつけ指の腹でさらに色付けをする。それを何枚もの花々を幾重にも描き、スケッチブックは1日で半分を消費する。
陽射しが強くなりだす昼前に、アイリスは王宮画家の絵画が飾られている美術回廊へと歩いていた。時間を間違えてしまうと、回廊の窓から強い陽射しが入り絵画の絵の具に亀裂が入り込む原因になる。1度、ヒビが入ってしまうとそこから湿気を吸い亀裂が悪化していく。修繕画家もいるが、現状保管が厳しく言われているため、絵画担当を任される者に関してはそれだけ重い責任を問われる。
いつもなら、近道をすることもなく回廊へと続く渡り廊下を歩くが……その日は、ふと庭園が目に入り近道を思いだした。庭園の入り口から、8の字の花壇を抜けると回廊への近道へとなる。
花壇に咲く、赤や黄、赤交じりの黄色、オレンジ……様々な色のチューリップが目に入る。懐かしい、という感覚も忘れている彼女の心に何か引っかかりを覚え足が思わず止まる。
「……チューリップ……」
ポツリと呟き、ほんの数分。見ていた。
さぁっと柔らかな春先の風に、彼女のメイドリボンがふわりと揺れる。アイリスは侍女たちの中で、首に付けるメイドリボン。ソンラル王国独特の王宮画家居住区の侍女の印であるリボンの色が少し違っている。他の物は、藍色と通常の居住区侍女。同室で同僚のハル・マーモットは王宮画家のアトリエ担当である印の朱色。そして、アイリスは、藍色の地に朱色の外二本線に間に、金の絹糸が縫い付けられている。
結い上げ纏めている髪の後ろ毛のように、リボンを後ろで結ばれており、風や侍女たちが動くことでふわりと揺れる。一部の王宮画家や王宮に出入りする貴族。また、騎士の中には、その画家居住区の侍女との縁を求める者も多い。そのリボンの代わりに、休日の日に、自分の贈ったリボンが付けられることで相手の心を貰えた証拠。贈った者も「貴女に心を渡す」という、愛の告白の印でもあった。
苛烈なリボン競争は、モーネスもアイリスにも関心はなかった。
ただ、今、このチューリップを見ているアイリスの姿をたまたまモーネスの視界に入り彼のスケッチブックに描かれた。数分、彼女は気づくことなく庭園に佇み去って行ったが。彼にとっては、その日のスケッチブックを全て埋め尽くすことになった。
いつもの美術回廊に、陽射しが強くなる前にカーテンを閉め、ランプの調整をする。絵画がある場所には、特別なランプが置かれている。照光鉱石という、鉱石から発する明かりを調整できるランプ。絵画用に使われることが多かったが、最近では、読書用のランプとしても使われている。小さな照光鉱石は、国民でも手が入りやすい。ただ、ランプの大きさは日常生活に支障があまりない程度。
明かりを付けていないランプの内側の埃を取り除き、外側も磨く。そして、次のランプへと手入れをする。回廊の手入れは、ランプの手入れも含まれている。
回廊全てにランプの明かりがつき、一つひとつ確認する。途中、アイリスの足が、踏みとどまる。静物画だらけの回廊に、彼女はひとつだけ惹かれる絵画があった。ただ、「……ここに……」としか言えなかった。
あの日感じた、心の欠片がまたひとつ。彼女のなかに落とし込まれる。頬を伝うものに、気が付き思わず手をやると涙だった。分からない。ただ、涙が零れた。
「……な、み、だ……」
教会に居た時には、泣き叫んでいたが涙は出ていなかった。声だけが泣き叫び、涙は枯れ果てていた。どこかに、置き忘れている感情と共に。
「アイリス、どうした?」
「っ、トーナル様」
「……泣いて、いるのか?」
「泣く?」
「あぁ、涙が出ている」
「やはり……涙、なんですね」
アイリスは何かを確認しようと、思いだそうと必死になり始めるも何か苦しい表情になっていく。トーナルが彼女の肩を軽くたたき、「無理しないで今日は上がっていい」と優しく微笑んだ。まるで、祖父が孫を心配するように優しく微笑み頭を軽く撫でる。
美術回廊を歩いている後ろ姿をトーナルは心配でならなかった。彼女を紹介した侯爵の手紙によると、あのチューリップの絵画以外で心を動かされたような言葉は発することなく……ただただ、毎日仕事をこなしていた。教会の保護院での彼女の感情は、欠落していたままだった。気が付いたのがあまりにも遅すぎ、そして、彼女の失った感情の欠片を取り戻すのは難しかった。治療院の医師ですら、『手の施しいようがない』としか言えず……かと言って、彼らは彼女に対して匙を投げたい訳でもなかった。他の保護され育った子どもたちも、同様に治療を受けある程度は回復はした。その希望を捨てきれていない。
ただ、彼女、アイリスが失った過去を取り戻すことはできない。それは、彼女自身が認識していない状態のなかでも理解はしているようだった。もう、自分には……感情というモノをもつことは、できない。と……。
マーブルはトーナルから今日の美術回廊でのアイリスの涙の話しを聴き、少し気持ちが期待に傾いた。それが、彼女をどんなに苦しめ辛くもがきながら取り戻す時間になると思いもよらず……。
部屋に戻ると、育った教会からの手紙が届いていた。侯爵様の計らいで、教会のシスターたちが、手紙を送ってくれる。
侯爵様、王宮の画家居住区勤めを勧めてくれた彼からも届く。他愛のない手紙かもしれない。侯爵邸の執事長や料理長は、アイリスがいなくなって寂しがっているので休みがとれたら顔を見せて欲しい。君の探していた美術歴史書が手に入ったので、是非、貸したい……料理長は新しいレシピを教えたい。
教会や侯爵邸での日々が懐かしいというのも分からない。アイリスの感情は浮きも沈みもせず、ただただ……霧の濃い中、靄の中にいて何も見えず感じる事ができない。まれに生じた感情というのを、『感情』と認識がうまくいかない。
読み終えた手紙を丁寧にたたみ、手紙を入れている箱にしまう。執事長から頂いた、彫りが綺麗な木箱で手紙や大事な物をしまって欲しいと貰った。侯爵様から直接贈り物を受けることは、侍女として立場上はばかられる。そのため、執事長や料理長がアイリスが使ってくれそうな物を代わりに見繕い贈っていた。
侯爵の計らいであることは、アイリスは感の鋭いところもあり気が付いた。直接は礼を言えないが、執事長達には感謝の言葉を彼女なりに……ただ台本を読んだような言葉だろうと……。
庭園でのスケッチを天気が良ければおこなうモーネス。あの日、スケッチに描いた侍女。不思議な、彼女が気になった。チューリップを見ている時の瞳が揺れていた。なにか、感情が揺さぶられているわけでもないが、その花を見ることで彼女の心の欠片を集めている。と、いうような。
スケッチに描かれた彼女の表情、ひとつひとつ。チューリップと彼女の姿。モーネスは、ひとつの絵にしたいと考えた。ブリューワー派の絵画の描き方に反してしまうが、彼にとって、今、描きたい絵画がデッサンの量と比例して気持ちが昂る。
己の描きたい絵画を彼女が、自分のデッサンにエネルギーを与えていく。アトリエで、何枚、何十枚と描く。
同じアトリエには親友のヴォルフも居る。彼も自身の絵画制作に集中している。1つのアトリエには、2人が割り当てられている。その場所の管理の侍女がハル・マーモット。
鉛筆が激しく、時に優しく、リズムを刻み音楽を奏でる。ハルはその鉛筆の音の心地好さの中、2人の邪魔をしないようアトリエに画材を届けては出ていく。画家たちの描く絵画に口出しをしない、暗黙の了解をハルはしっかりと守っている。その仕事ぶりも、彼らの信頼と、王宮画家長からの信頼も厚い。ただ、むくれたりした時の表情が、あまりにもリスが口の中に食べ物を包ばっている表情。リズという、【小動物】という愛称を与えられている。ヴォルフは、アトリエに来るリズを時折からかってちょっかいを出しては楽しんでいる。そのやり取りに、モーネスは「ほかでやってくれ」と毎回言うが、心底嫌になっていたりはしていない。ただ、彼らのやりとりは些細な愛情表現と気持ちを確かめ合うような……小さな芽生えがある。
アイリスは、美術回廊で涙を流した日以来なにかが心の揺さぶりを受ける。自身のなかに、とうになくなっている心。感情。なにか、靄の中でわずかに見え隠れする影が2つ。人のカタチ。回廊に仕事で同じ時間に来て、ぼんやりとしていた。
『ねぇ、コレはなにをかくの?』
『そうだな……とお前を描こう!!』
『ほんとう?!』
『……には内緒だぞ?』
『うん!!』
――ズキッ――
小さな痛みと記憶の奥底から湧き出る言葉。幼い子どもと大人の会話。小さな約束。あぁ、アレは何の約束だったかしら? 何かを描いて……。何かを……。
――ズクッ――
『アイリス』
『部屋に……来てはダメだ』
『お部屋で待つんだ』
『……でも……』
『大丈夫だから』
――ズキンズキン――
息がだんだんと荒く乱れているのも分からず、記憶を必死に辿ろうと。絡まり、解くことが難しい記憶の糸を必死に解こうと。ぜぇぜぇと息をし、脂汗をかいてうずくまっている。
いつもの時間に報告にこないアイリスを心配し、回廊へ急いだトーナルが見たのは回廊の中心でうずくまっているアイリスだった。息がヒューヒューと言い出しかなり危険な状態だった。トーナルは王宮画家居住区で唯一医学の見識と心得のある男を急ぎ呼んだ。回廊から一番早い。アトリエにいる時間。
「モーネス、いるか!!」
「なんでしょうか? トーナル様? 絵の件で……なにかありましたか?!」
「回廊へ急いでくれ!!」
「ヴォルフ、ハルと一緒にコレを用意してくれ!!」
走り書きしたモーネスのメモにヴォルフも危機感を感じた。彼は、医師の家系であり絵画で身を立てるために医師の道を一度通っている。その事情を知っているヴォルフは、モーネスの表情からも、トーナル氏の表情からも直ぐにリズの許へと急いだ。
モーネスはトーナルと共に回廊へ行き、彼女を見た。かなり危険な状態なのは確かだった。前回の過呼吸の域ではない。脈診をし、声をかける。声に一瞬反応を示す。意識は少し残っているか? ただの【反応】か?
そこへ、モーネスのメモの指示で道具を持って2人がやってきた。手際よくブランケットを包み身体の横に差し込み歯で舌を噛まないように口の中に綿を差し込む。少し濡らしたタオルで首筋を冷やし、体内にこもった熱を下げ、首元の上まで留めていたボタンを少し外し呼吸しやすいようにする。ほんの1・2分だった。あまりの手際のよさは、医師として道をひと通り現場も経験した彼の術だった。
10分程すると、アイリスの呼吸の乱れが柔らかくなる。まだ油断はできないため、体勢はそのままでタオルを改めて濡らし直し首元だけでなく額などの脂汗の酷いところをぬぐう。時折、「アイリス、大丈夫だ」と声をかけ手を柔らかく握るモーネス。ピクリと手が反応し彼の手を握りかえす。
『大丈夫よ、アイリス』
『あの絵を、お前に遺してあるから』
『アイリス愛しているわ』
『愛しているよ』
――ズキッ――
「アイリス、大丈夫だ」
あぁ、わたしの名前を呼んでいる。誰? この声……わたしを呼んでいるの? 大丈夫って?
「アイリス」
「大丈夫だ」
大丈夫……わたし……
うっすらと開いた瞼に、瞳の先に見えた黄金色の髪と真っ直ぐな瞳。あぁ、この人がわたしを呼んでくれた。
「あり、が、と、う」
アイリスは一度戻った意識でそう言うと、ゆっくりとした呼吸に戻り小さな眠りへと誘われた。
王宮画家たちは、パーティー会場で貴族たちから絵画の依頼を受け忙しさを増していた。パーティーが行われた春先の季節から、温かい日が増えてきている。柔らかい陽射しの中、侍女たちは絵画のための花々を持ち、アトリエへと向かう。抱えている花々は、チューリップがメイン。ブリューワー派の絵画の多くは、チューリップが多い。昔、ブリューゲル一家の絵画の中に、チューリップがあった。そして、その当時にしては珍しい花も静物画の中に含まれていた。
アトリエで絵画制作の準備を進めている画家とは違い、1人、花々を生育している庭園をスケッチブックを片手に歩いている画家がいた。黄金色の髪の毛が、太陽の陽射しで光を反射し、少し日焼けした肌が健康的で逞しい身体を引き立たせている。
庭園からアトリエへと歩いている侍女の中では、ほぅっとため息をついて見惚れている者もいるほど。そんなことは気にせず、モーネスは庭園を歩き、時折、足を止めてスケッチをする。鉛筆が激しく優しく線を描き、濃淡を鉛筆でつけ指の腹でさらに色付けをする。それを何枚もの花々を幾重にも描き、スケッチブックは1日で半分を消費する。
陽射しが強くなりだす昼前に、アイリスは王宮画家の絵画が飾られている美術回廊へと歩いていた。時間を間違えてしまうと、回廊の窓から強い陽射しが入り絵画の絵の具に亀裂が入り込む原因になる。1度、ヒビが入ってしまうとそこから湿気を吸い亀裂が悪化していく。修繕画家もいるが、現状保管が厳しく言われているため、絵画担当を任される者に関してはそれだけ重い責任を問われる。
いつもなら、近道をすることもなく回廊へと続く渡り廊下を歩くが……その日は、ふと庭園が目に入り近道を思いだした。庭園の入り口から、8の字の花壇を抜けると回廊への近道へとなる。
花壇に咲く、赤や黄、赤交じりの黄色、オレンジ……様々な色のチューリップが目に入る。懐かしい、という感覚も忘れている彼女の心に何か引っかかりを覚え足が思わず止まる。
「……チューリップ……」
ポツリと呟き、ほんの数分。見ていた。
さぁっと柔らかな春先の風に、彼女のメイドリボンがふわりと揺れる。アイリスは侍女たちの中で、首に付けるメイドリボン。ソンラル王国独特の王宮画家居住区の侍女の印であるリボンの色が少し違っている。他の物は、藍色と通常の居住区侍女。同室で同僚のハル・マーモットは王宮画家のアトリエ担当である印の朱色。そして、アイリスは、藍色の地に朱色の外二本線に間に、金の絹糸が縫い付けられている。
結い上げ纏めている髪の後ろ毛のように、リボンを後ろで結ばれており、風や侍女たちが動くことでふわりと揺れる。一部の王宮画家や王宮に出入りする貴族。また、騎士の中には、その画家居住区の侍女との縁を求める者も多い。そのリボンの代わりに、休日の日に、自分の贈ったリボンが付けられることで相手の心を貰えた証拠。贈った者も「貴女に心を渡す」という、愛の告白の印でもあった。
苛烈なリボン競争は、モーネスもアイリスにも関心はなかった。
ただ、今、このチューリップを見ているアイリスの姿をたまたまモーネスの視界に入り彼のスケッチブックに描かれた。数分、彼女は気づくことなく庭園に佇み去って行ったが。彼にとっては、その日のスケッチブックを全て埋め尽くすことになった。
いつもの美術回廊に、陽射しが強くなる前にカーテンを閉め、ランプの調整をする。絵画がある場所には、特別なランプが置かれている。照光鉱石という、鉱石から発する明かりを調整できるランプ。絵画用に使われることが多かったが、最近では、読書用のランプとしても使われている。小さな照光鉱石は、国民でも手が入りやすい。ただ、ランプの大きさは日常生活に支障があまりない程度。
明かりを付けていないランプの内側の埃を取り除き、外側も磨く。そして、次のランプへと手入れをする。回廊の手入れは、ランプの手入れも含まれている。
回廊全てにランプの明かりがつき、一つひとつ確認する。途中、アイリスの足が、踏みとどまる。静物画だらけの回廊に、彼女はひとつだけ惹かれる絵画があった。ただ、「……ここに……」としか言えなかった。
あの日感じた、心の欠片がまたひとつ。彼女のなかに落とし込まれる。頬を伝うものに、気が付き思わず手をやると涙だった。分からない。ただ、涙が零れた。
「……な、み、だ……」
教会に居た時には、泣き叫んでいたが涙は出ていなかった。声だけが泣き叫び、涙は枯れ果てていた。どこかに、置き忘れている感情と共に。
「アイリス、どうした?」
「っ、トーナル様」
「……泣いて、いるのか?」
「泣く?」
「あぁ、涙が出ている」
「やはり……涙、なんですね」
アイリスは何かを確認しようと、思いだそうと必死になり始めるも何か苦しい表情になっていく。トーナルが彼女の肩を軽くたたき、「無理しないで今日は上がっていい」と優しく微笑んだ。まるで、祖父が孫を心配するように優しく微笑み頭を軽く撫でる。
美術回廊を歩いている後ろ姿をトーナルは心配でならなかった。彼女を紹介した侯爵の手紙によると、あのチューリップの絵画以外で心を動かされたような言葉は発することなく……ただただ、毎日仕事をこなしていた。教会の保護院での彼女の感情は、欠落していたままだった。気が付いたのがあまりにも遅すぎ、そして、彼女の失った感情の欠片を取り戻すのは難しかった。治療院の医師ですら、『手の施しいようがない』としか言えず……かと言って、彼らは彼女に対して匙を投げたい訳でもなかった。他の保護され育った子どもたちも、同様に治療を受けある程度は回復はした。その希望を捨てきれていない。
ただ、彼女、アイリスが失った過去を取り戻すことはできない。それは、彼女自身が認識していない状態のなかでも理解はしているようだった。もう、自分には……感情というモノをもつことは、できない。と……。
マーブルはトーナルから今日の美術回廊でのアイリスの涙の話しを聴き、少し気持ちが期待に傾いた。それが、彼女をどんなに苦しめ辛くもがきながら取り戻す時間になると思いもよらず……。
部屋に戻ると、育った教会からの手紙が届いていた。侯爵様の計らいで、教会のシスターたちが、手紙を送ってくれる。
侯爵様、王宮の画家居住区勤めを勧めてくれた彼からも届く。他愛のない手紙かもしれない。侯爵邸の執事長や料理長は、アイリスがいなくなって寂しがっているので休みがとれたら顔を見せて欲しい。君の探していた美術歴史書が手に入ったので、是非、貸したい……料理長は新しいレシピを教えたい。
教会や侯爵邸での日々が懐かしいというのも分からない。アイリスの感情は浮きも沈みもせず、ただただ……霧の濃い中、靄の中にいて何も見えず感じる事ができない。まれに生じた感情というのを、『感情』と認識がうまくいかない。
読み終えた手紙を丁寧にたたみ、手紙を入れている箱にしまう。執事長から頂いた、彫りが綺麗な木箱で手紙や大事な物をしまって欲しいと貰った。侯爵様から直接贈り物を受けることは、侍女として立場上はばかられる。そのため、執事長や料理長がアイリスが使ってくれそうな物を代わりに見繕い贈っていた。
侯爵の計らいであることは、アイリスは感の鋭いところもあり気が付いた。直接は礼を言えないが、執事長達には感謝の言葉を彼女なりに……ただ台本を読んだような言葉だろうと……。
庭園でのスケッチを天気が良ければおこなうモーネス。あの日、スケッチに描いた侍女。不思議な、彼女が気になった。チューリップを見ている時の瞳が揺れていた。なにか、感情が揺さぶられているわけでもないが、その花を見ることで彼女の心の欠片を集めている。と、いうような。
スケッチに描かれた彼女の表情、ひとつひとつ。チューリップと彼女の姿。モーネスは、ひとつの絵にしたいと考えた。ブリューワー派の絵画の描き方に反してしまうが、彼にとって、今、描きたい絵画がデッサンの量と比例して気持ちが昂る。
己の描きたい絵画を彼女が、自分のデッサンにエネルギーを与えていく。アトリエで、何枚、何十枚と描く。
同じアトリエには親友のヴォルフも居る。彼も自身の絵画制作に集中している。1つのアトリエには、2人が割り当てられている。その場所の管理の侍女がハル・マーモット。
鉛筆が激しく、時に優しく、リズムを刻み音楽を奏でる。ハルはその鉛筆の音の心地好さの中、2人の邪魔をしないようアトリエに画材を届けては出ていく。画家たちの描く絵画に口出しをしない、暗黙の了解をハルはしっかりと守っている。その仕事ぶりも、彼らの信頼と、王宮画家長からの信頼も厚い。ただ、むくれたりした時の表情が、あまりにもリスが口の中に食べ物を包ばっている表情。リズという、【小動物】という愛称を与えられている。ヴォルフは、アトリエに来るリズを時折からかってちょっかいを出しては楽しんでいる。そのやり取りに、モーネスは「ほかでやってくれ」と毎回言うが、心底嫌になっていたりはしていない。ただ、彼らのやりとりは些細な愛情表現と気持ちを確かめ合うような……小さな芽生えがある。
アイリスは、美術回廊で涙を流した日以来なにかが心の揺さぶりを受ける。自身のなかに、とうになくなっている心。感情。なにか、靄の中でわずかに見え隠れする影が2つ。人のカタチ。回廊に仕事で同じ時間に来て、ぼんやりとしていた。
『ねぇ、コレはなにをかくの?』
『そうだな……とお前を描こう!!』
『ほんとう?!』
『……には内緒だぞ?』
『うん!!』
――ズキッ――
小さな痛みと記憶の奥底から湧き出る言葉。幼い子どもと大人の会話。小さな約束。あぁ、アレは何の約束だったかしら? 何かを描いて……。何かを……。
――ズクッ――
『アイリス』
『部屋に……来てはダメだ』
『お部屋で待つんだ』
『……でも……』
『大丈夫だから』
――ズキンズキン――
息がだんだんと荒く乱れているのも分からず、記憶を必死に辿ろうと。絡まり、解くことが難しい記憶の糸を必死に解こうと。ぜぇぜぇと息をし、脂汗をかいてうずくまっている。
いつもの時間に報告にこないアイリスを心配し、回廊へ急いだトーナルが見たのは回廊の中心でうずくまっているアイリスだった。息がヒューヒューと言い出しかなり危険な状態だった。トーナルは王宮画家居住区で唯一医学の見識と心得のある男を急ぎ呼んだ。回廊から一番早い。アトリエにいる時間。
「モーネス、いるか!!」
「なんでしょうか? トーナル様? 絵の件で……なにかありましたか?!」
「回廊へ急いでくれ!!」
「ヴォルフ、ハルと一緒にコレを用意してくれ!!」
走り書きしたモーネスのメモにヴォルフも危機感を感じた。彼は、医師の家系であり絵画で身を立てるために医師の道を一度通っている。その事情を知っているヴォルフは、モーネスの表情からも、トーナル氏の表情からも直ぐにリズの許へと急いだ。
モーネスはトーナルと共に回廊へ行き、彼女を見た。かなり危険な状態なのは確かだった。前回の過呼吸の域ではない。脈診をし、声をかける。声に一瞬反応を示す。意識は少し残っているか? ただの【反応】か?
そこへ、モーネスのメモの指示で道具を持って2人がやってきた。手際よくブランケットを包み身体の横に差し込み歯で舌を噛まないように口の中に綿を差し込む。少し濡らしたタオルで首筋を冷やし、体内にこもった熱を下げ、首元の上まで留めていたボタンを少し外し呼吸しやすいようにする。ほんの1・2分だった。あまりの手際のよさは、医師として道をひと通り現場も経験した彼の術だった。
10分程すると、アイリスの呼吸の乱れが柔らかくなる。まだ油断はできないため、体勢はそのままでタオルを改めて濡らし直し首元だけでなく額などの脂汗の酷いところをぬぐう。時折、「アイリス、大丈夫だ」と声をかけ手を柔らかく握るモーネス。ピクリと手が反応し彼の手を握りかえす。
『大丈夫よ、アイリス』
『あの絵を、お前に遺してあるから』
『アイリス愛しているわ』
『愛しているよ』
――ズキッ――
「アイリス、大丈夫だ」
あぁ、わたしの名前を呼んでいる。誰? この声……わたしを呼んでいるの? 大丈夫って?
「アイリス」
「大丈夫だ」
大丈夫……わたし……
うっすらと開いた瞼に、瞳の先に見えた黄金色の髪と真っ直ぐな瞳。あぁ、この人がわたしを呼んでくれた。
「あり、が、と、う」
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