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第二章『竜呪』~漆黒の嵐来たれり、ウォルヴァンシア~

刻まれた恐怖と正体不明の男!

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 あの森の奥の図書館からどうにか逃げ出した後、漆黒の髪の青年が追って来て、捕まるのではないかという恐怖に怯えながらも、どうにか自分の部屋まで無事に戻って来る事が出来た。
 鍵をかけ、震える身体を引き摺ってベッドへと潜り込んだ。
 手首に強く残るあの青年の感触、吸い付かれた首筋の痕……。
 その全てが怖くて怖くて、恐怖を肥大させるように私を追い詰めていく。
 この王宮にいる人達と触れ合うのは平気なのに、あの青年だけは……。
 性的な意味合いを強く突き付けられていると感じたあの瞬間、初めてそういう意味で触れられたショックと恐怖が全身を駆け巡った。

「嫌っ……、嫌っ……」

 次から次へと涙が零れて止まらない。
 ベッドの中の暖かな温もりも、心の中までは届かなくて……。
 私はさっきの出来事が夢であってほしいと切に願いながら瞼をぎゅっと閉じた。
 それが……、無意味な事だと知っていながらも。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 外窓の向こうが、闇一色になった時間。
 広間に現れない私を心配して、お父さんが訪ねて来てくれた。
 だけど、私はその優しい気遣いに応える元気もなくて……。
 夕食は遠慮しておくと伝えて、広間に戻ってもらった。
 今の私では、皆の前に顔を出しただけで心配をかけてしまうだろうから……。

「はあ……」

 嫌な気分のまま、十分ほどベッドの中で溜息を吐き出していると、外の方から騒がしい音が聞こえてきた。それは、私の部屋の扉の前でピタリと止むと、次の瞬間凄まじいノック音を連打で響かせ始める。

「ユキちゃん!! 大丈夫かい!! 夕食がいらないって、どこか具合でも悪いのかい!? それとも、何か嫌な事があって一人で悩んでいるのかい!?」

 ……。
 レイフィード叔父さんの酷く慌てたような声音に、私は申し訳なさと一緒に頭痛を覚えた。
 心から心配してくれているのは嬉しい。
 だけど、お願いだから……今だけは、一人にしておいてほしい。
 そんな失礼な本音を胸の奥に隠し、私はゆるゆるとベッドから絨毯の上へと下りた。
 風邪だとでも言って、どうにか納得してもらおう。

「すみません、レイフィード叔父さん……。ちょっと、体調を崩しただけなんです。休めば治りますので」

 扉を開いた先には、レイフィード叔父さんの本気の心配顔があった。
 上手く誤魔化しきれるだろうか……。
 心配させないように笑顔を浮かべると、叔父さんの表情が険しいものへと変化した。

「ユキちゃん、来る時も思ったけど……どうして明かりを点けていないんだい?」

 自分でも意識していなかった。
 部屋の明かりを点ける事も忘れて、真っ暗闇の中眠り続けていた事を。
 レイフィード叔父さんが、部屋の入り口近くに置いてある水晶玉に手を添えた。

「あ……」

 部屋の中を柔らかな光が満たしていく。
 それと同時に、自分の酷い状態の顔がレイフィード叔父さんの前に晒された事に気付いた。
 背を向けようとしたけれど、それよりも先に頬を両手で包まれてしまう。

「どうしてこんなに酷い顔色をしているんだい……。泣き腫らした痕もある……」

「ち、違いますっ。こ、これは……っ」

「ユキちゃん、今朝の君はいつもどおりだったよね? 僕の事を心配して気遣ってくれていた……。なのに……、どうして今、こんなに酷く傷付いた顔をしているんだい?」

 レイフィード叔父さんの声が、硬く震えている……。

「体調を崩したと言っていたけれど、……違うよね? この顔色も、涙の痕も……、君の心が悲鳴を上げた証拠だ。それに……、『術』が発動した気配が残ってる」

「あ……」

「僕が教えた、護身用の魔術。……『危ない目に遭った時』に、使うようにって教えたよね?」

 術を使ったのだという事実を悟られた瞬間、レイフィード叔父さんの瞳が……不穏な気配を漂わせ始めた。私に何があったのかを、徐々に頭の中で認識し始めている眼差しだ。
 ベッドの端に座らされた私は、傍に座ったレイフィード叔父さんから、尋問を受ける事になってしまった。

「ユキちゃん。怖がらなくてもいいんだよ。叔父さんはね、事情を知りたいだけなんだ……」

「え、えっと……」

「あの術は、他者に痛みと戒めを与えるもの。それをユキちゃんが、罪のない他人に使うわけがない……。となると……、君に不埒な真似をしようとした輩がいた、という事だよね?」

 昼間の件で心を悩ませていた私にとっては、さらなる精神的圧力だった。
 肩を抱かれ、そっと抱き寄せられた状態で、私の頭を撫でながらレイフィード叔父さんは続ける。

「今日、君に『何』があったのか……、素直に叔父さんに教えてくれないかな? 『誰』に会って、どういう状況で、あの術を発動するに至ったのか……。大丈夫だよ? 叔父さんはユキちゃんが幸せに暮らせるように……、害を取り除くだけだから、ね?」

 私の事を想って言ってくれているのはわかるのだけど……。
 どうしてこんなに、背筋に寒気が上るような不穏さと恐怖を叔父さんから感じるんだろう。
 ゆっくりと見上げた先には、レイフィード叔父さんの……本気で殺る気満々の瞳が!!
 本気だ……、私を傷付けた人を容赦なく酷い目に遭わせる気全開の様子が伝わってくる。

(ど、どうしようっ)

 確かに、私に怖い思いをさせたあの青年の事は許せないと思う。
 だけど、レイフィード叔父さんの様子を見ていたら、別の恐怖感が心を支配し始めてしまった。
 あの青年の事を話したら、叔父さんは一体何をやらかす気なんだろう……と。
 この尋問から逃げる事は出来ない……。
 困惑と恐怖を含んだ瞳で叔父さんを見上げていると、意外にも救出の手が入った。

「やめなさい、レイフィード」

 レイフィード叔父さんを追って部屋に駆け付けたお父さんが、私達の様子を見てすぐに状況を察し、叔父さんの襟首を掴んで引き剥がしてくれたのだ。

「幸希を怖がらせてどうするんだい、お前は……。見なさい、お前のせいで……こんなに怯えている」

 絨毯の上に座り込む状態で下ろされたレイフィード叔父さんが、お父さんの静かな怒りを含んだ声音を聞いて、私をはっとしたように見上げた。
 あの時、見知らぬ青年に襲われた時も確かに怖かった。
 そのせいで傷付いて、夢であってほしいと願いながら目を閉じても、現実はそこにあって……。
 だけど、それよりも、もっと怖いと感じたのは、……叔父さんが私の為に誰かを傷付けてしまう事。愛する者を守るために、叔父さんはどこまでも心を尽くしてくれる心優しい人。
 私はそんな叔父さんが大好き。……でも、そのせいで誰かを傷付ける事になるのは話が違う。
 たとえ私が傷付いても、レイフィード叔父さんに誰かを傷付けてほしいなんて、私は望まない。
 だから……。

「レイフィード叔父さん、私……、ひっく、嫌です。叔父さんが……、私のせいで、……誰かを傷付けるのはっ。いつもの優しい叔父さんが……、大好き……、だからっ」

「ユキちゃん……」

 私が我慢しきれなくなって涙をぽろぽろと零し始めると、レイフィード叔父さんが慌てて立ち上がり、私を強く抱き締めた。

「ごめん……っ、叔父さんが悪かったね……っ。幸希ちゃんが一番傷付いているのに……、叔父さんの事まで心配させちゃって……」

「レイフィード……叔父、さんっ」

「幸希、心配しなくても大丈夫だよ。レイフィードの事は、お父さんが責任を持って暴走しないように手綱を握っておくからね」

「お父さ、んっ」

 私の気持ちが伝わったのか、レイフィード叔父さんは何度も謝ってくれた後、椅子の方に座り直し、静かにこう切り出した。

「ユキちゃんが優しい子なのは十分にわかっていたつもりなのに……。君を傷付けた奴を野放しにしておいたら、いつか取り返しがつかなくなる事態になるんじゃないかって、……必要以上に怯えてしまっていたよ」

「レイフィード……」

 後悔の滲む寂しそうな顔でそう小さく言ったレイフィード叔父さんに、お父さんが何かに気付いたように心配そうな表情を向けた。
 暫しの無言……。何か、緊迫した雰囲気が二人の間を包んでいるように感じられる。

「お父さん……、レイフィード叔父さん……?」

 沈黙を破るように声をかけると、お父さんもレイフィード叔父さんも意識を私へと向けた。
 辛そうだった叔父さんの表情は優しい笑みへと変わっていく。
 お父さんも私を安心させるように表情を和ませ、私の足元へと膝を着いた。

「何でもないよ、幸希。それより、少し落ち着いてからでいいから、今日あった事を話してくれないかい?」

「で、でも……」

「レイフィードに暴走はさせないから、お父さんを信じなさい。私達は、お前が抱えている不安や苦しみを、一緒に分け合いたいだけなのだからね」

「お父さん……」

 お父さんにそう諭された後、メイドさんが運んで来てくれたお茶と軽食を前にして椅子に座る事になった。そういえば、今の今まで飲み物さえ口に入れていなかったのを思い出す。
 温かな甘味のあるお茶が、カラカラだった喉と渇いていた舌に生気を送るように流れ込んでくる。
 美味しい……。自分の状態がどれだけ散々なものだったかを自覚すると同時に、お腹の方も空いていた事に気付き、一口サイズの小さなパンをもぐもぐと食べ始めた。
 私の様子を、お父さんもレイフィード叔父さんも黙ったまま見守ってくれている。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 食事を終えた後、私はようやく心を落ち着けて話をする事が出来た。
 森の奥の図書館に用事があって足を踏み入れた事、そこで出会った見知らぬ青年に襲われそうになった経緯……。全てを聞き終えた時、レイフィード叔父さんがゆっくりと無言で席を立った。
 そして、私達に背を向けて扉の方へと向かおうとした瞬間。
 お父さんの冷たい制止の声が向けられた。

「どこに行く気だい?」

「すみません、ユーディス兄上。ちょっと……、『大事な用事』が出来まして……」

「その大事な用事が物騒極まりない事はお見通しだよ。とりあえず座りなさい。頭にきているのは私も同じなのだからね」

「じゃあ、ユーディス兄上の分まで僕が容赦なくやってきますから、だから……、この手を離してください」

「……」

 再び不穏な気配をびしばしと発し始めたレイフィード叔父さんに溜息を吐くと、
お父さんは席を立ち上がり、どこから出したのか、頑丈そうな長い縄を取り出して叔父さんをぐるぐる巻きにし始めてしまった。
 抵抗しようとするレイフィード叔父さんをべしべしと叩き、あっという間にレイフィード叔父さんを拘束完了。
 絨毯の上に叔父さんをごろんと転がし、背中の上からどしっと体重を乗せて動けないように座ってしまった。

「あ、兄上!! 何てことをするんですか!!」

「お前は、幸希がさっきどれだけ怯えていたか、もう忘れているのかい? 凄まじい殺気を隠す事もなく出して、何をしに行く気だったんだか……」

「ユーディス兄上だって聞いたでしょう!! その男が、どれだけユキちゃんの心と身体を傷付ける真似をしたか!!」

「勿論、私だって落ち着いてはいられない心地だよ。けれどね、まだ話は終わっていない……。幸希、その男の特徴は覚えているかい?」

「特徴……。確か、肩より少し長い黒髪で……、瞳の色が血のように赤くて……。図書館で昼寝をしていた所を邪魔されたとか何とか言っていたような」

 あまり思い出したくない記憶を口にしながら、私はあの青年の声や温もりまでも蘇りそうになるのを必死で堪えた。
 首筋に振れた唇の感触、耳に囁かれた低く掠れた寝起きの声……。
 ゾクリと背中に悪寒が走るのを感じずにはいられない。

「一応、王宮の者達にはある程度の自由は与えているけれど、ユキちゃんが出会った男は……、この王宮では見覚えがない奴だね。多分、勝手に王宮に入り込んだ類の可能性が高い」

「不審者であれば、騎士やメイドが気付いてもおかしくない……。となると……、よほど上手くやって忍び込んだのだろうね」

「でしょうね。やってくれたもんですよ……。それにしても……、真紅の瞳に、……黒髪、か」

 お父さんに動きを封じられたまま、レイフィード叔父さんが思案顔になる。
 そして、ひとつの可能性に思い当たったように私を見上げてきた。

「ユキちゃん、その男って、無駄にフェロモン駄々漏れな感じじゃなかったかい?」

「ふぇ、フェロモン……、ですか? 確かに、色気が溢れていたというか、危険な雰囲気の人だった印象が強い気はしましたけど」

「はぁ~……。間違いない。父親譲りの漆黒の髪に、血のように赤い瞳。さらに女性を惑わすフェロモン体質者。物凄く最悪だよ……。やっぱり心配していたとおりの事が起こった……」

「あの……、レイフィード叔父さん?」

 間違いない、とは、どういう事なのだろうか?
 レイフィード叔父さんの頭の中では、あの青年が誰なのかわかったという雰囲気が感じられる。
 私と同じく、お父さんもそう思ったみたいで、レイフィード叔父さんに説明を求めた。

「実はですね、イリューヴェルの第三皇子の遊学が決定してから、イリューヴェル皇帝には、色々と対策の為に外見の特徴や性格、その他諸々の情報を吐かせておいたんですよ」

「まさかとは思うが……、幸希を襲った男というのは……」

「イリューヴェルの第三皇子。……カイン・イリューヴェルです」

「そんな……」

 私を襲おうとしたのが……、遊学に来る予定の……イリューヴェルの第三皇子様!?
 信じられないレイフィード叔父さんの言葉に、ふと、ルディーさんの講義が蘇る。
 確か、『女好き・我儘・俺様・横柄・至上最強の馬鹿皇子』って教えてくれた。
 ――完全に……、一致している。

「じゃあ……、私……、イリューヴェルの第三皇子様に襲われかけたって事ですか?」

 衝撃的な事実と、自分が本当にどれだけ危ない目に遭っていたのかを改めて実感し直した私は、また恐怖に震え始めてしまう。
 お父さんがレイフィード叔父さんの上から立ち上がり、私の傍に歩み寄ると、守るように抱き締めてくれる。

「幸希、あとはお父さん達に任せなさい。相手がイリューヴェルの皇子でも、お前を傷付けた責任はちゃんと取らせる。だから……、今は心と身体を休める事にだけ意識を向けなさい」

「お父さん……」

「お前がこんなにも深く傷付いてしまったのに……、危ない目に遭っていたのに……、傍にいてやれなくて……本当にすまなかった」

 今までレイフィード叔父さんを宥めて暴走を抑えるのに平静を保っていたお父さんが、この時初めて……心底辛そうに私に謝ってくれた。
 私が危ない目に遭っていた時に傍にいられなかった後悔が滲んだ声音に、
 私はぎゅっとお父さんにしがみついて、「お父さんのせいじゃないっ」と涙ながらに伝えた。
 王宮の中なら、きっと安全だろうと安心しきった私自身の軽率さって原因なんだもの。
 だから、誰のせいでもない……。
 お父さんの優しい温もりに包まれていると、何かが絨毯の上で動く音がした。
 ぐるぐる巻きのレイフィード叔父さんが、背を向けているお父さんに見つからないように、徐々に扉に向かって毛虫のように移動していく……。
 スッと……、お父さんが私から身を離し、振り返る

「全く……」

 這って移動するレイフィード叔父さんの顔の目の前に、またまたどこから出したのか、お父さんの投げつけたナイフが絨毯の上に深々と突き刺さった。
 ゆっくりとレイフィード叔父さんの前に移動して立ち塞がったお父さんが、冷たい眼差しで叔父さんを見下ろす。

「レイフィード……、わかっているね?」

「えっと……、あの……、ぼ、僕はただ……、ちょ~っとそこまで新鮮な空気を吸いに行こう……かと」

「……」

 あ……、お父さんがレイフィード叔父さんをぐるぐる巻きにしてある縄の端を掴んで引き摺り始めた。

「幸希、今日はゆっくり休みなさい。あとの事は、全部お父さんがしっかりとやっておくからね」

 私には優しい穏やかな笑みを向けて、扉を開きレイフィード叔父さんを引き摺って出て行ってしまった……。
 バタリと閉まった扉の向こうでは、叔父さんの抗議の声とお父さんの言い合い声がフェードアウトするように遠くなっていく。

「ほ、本当に……大丈夫、なの、かな?」

 なんだか、レイフィード叔父さんの行く末が物凄く心配になるのだけど……。
 でも、お父さんが酷い事をするとは思えないし、……多分、大丈夫、だよね?
 私は時間が経ってぬるくなってしまったお茶の中身を飲み干して、ベッドへと戻った。
 まだ、あの青年のせいで身体と心に沁み付いた不快感はあるけれど、私を心配してくれて、思い遣ってくれる人達がいる……。
 それが、どんなに心の支えになっているか……。
 私はそれを強く実感しながら、毛布の中へと潜り込んだ。
 お父さん……、レイフィード叔父さん……、本当にありがとう。
 二人のお蔭で、少しだけ軽くなった心を感じながら……私は心地よい眠りの中へと旅立った。
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