契約側妃は、盤上から静かに消えます。

朝日みらい

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第4章 王子妃の依存

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 毒殺未遂事件から数日。私の体調を気遣う者は、王宮内でただ一人を除いて存在しませんでした。

 表向き、あの夜の出来事は「アメリア妃殿下の機転により、不審な料理を事前に退けた」という美談に書き換えられていたからです。私が裏で胃を抑え、解毒剤を煽りながら血を吐く思いで書類を整理していたことなど、誰も知りません。

「ねえ、セレフィナ。今日の園遊会の席次表、あなたが決めておいてくださる? 私、どれが正解か分からなくて……」
 アメリア様が、困り顔で私の部屋を訪れました。彼女の白く細い手には、真っ白なままの羊皮紙。

 本来、これは王太子妃として最も重要な、社交界の勢力図を把握するための仕事です。

「アメリア様、それはさすがに……。貴族たちの面子に関わることですので、妃殿下ご自身が決断された方がよろしいかと」
「あら、でも。セレフィナなら間違いないでしょう? あなたが選んだものなら、カイル様も文句を仰らないわ」

 アメリア様は、無邪気に私の手を取りました。
 彼女の手に悪意はありません。ただ、あまりに「楽」を覚えてしまったのです。自分が努力して失敗する恐怖より、私という「正解」に身を委ねる安楽を選んでしまった。

 善意という名の刃が、私の時間を、精神を、じわじわと削り取っていきます。
「……承知いたしました。私が下書きを作成し、後ほどご確認いただきます」
「ありがとう! 本当に、あなたがいれば私は何もしなくていいのね」
 アメリア様は満足げに微笑み、ふわふわと部屋を去っていきました。

 入れ替わるように、影のように立っていたリオネル様が、部屋の隅から姿を現しました。
「……いつまで続けるつもりだ、その身代わりを」
 彼の声は低く、地を這うような怒りを含んでいました。
 彼はあの日以来、隙あらば私の周囲を警護するという名目で、私の過酷な労働環境を監視……いえ、見守ってくれていました。

「仕方がありません。契約ですから。……それに、アメリア様が輝いていれば、この国は安泰だから」
「安泰かよ?あんたの胃袋は。顔色が紙より白いじゃないですか」
 リオネル様は、私の手から羽ペンを奪い取りました。
 そして、私の椅子をくるりと回転させ、自分の方を向かせます。
「……リオネル様、仕事の邪魔ですよ」
「黙っていろ。あんたは今、脳を休める必要がある」
 彼は膝を突き、私の目線に合わせました。
 そして、あの大剣を振るう逞しい手で、私のこめかみをゆっくりとマッサージし始めたのです。

「あ……」
 指先の絶妙な力加減。張り詰めていた神経が、その温もりだけで溶けていくようです。
 彼は無言で、けれど慈しむように私の顔を覗き込んでいました。
「セレフィナさん。あんたの父や殿下は、あんたを『折れない剣』だと思っているようだが……俺には、今にも砕けそうな薄い硝子に見えますよ」
 彼の指が、こめかみから頬へと滑り、そのまま私の耳たぶを優しく弄りました。
 あまりに親密な仕草に、心臓が跳ね上がります。
「……硝子なら、とっくに粉々になってます……」
「なら、俺が繋ぎ止めてやります。……あんたが消えてしまわないように」
 彼は私の手を握り、その手の甲に深く、熱い口づけを落としました。
 騎士の誓いのような、けれどそれ以上に情熱的な、男としての重み。

 その時、廊下からカイル殿下の声が聞こえてきました。
「セレフィナ! 北方連合の貿易協定について、至急相談したいことが――」
 リオネル様は素早く立ち上がり、何事もなかったかのように私の背後に控えます。

 扉が勢いよく開き、カイル殿下が飛び込んできました。
「ああ、良かった。アメリアが『セレフィナなら何とかしてくれる』と言っていたよ。この条約案、君の意見を聞かせてくれないか?」
 殿下の手には、おびただしい量の外交文書。
 彼は、私が今、リオネル様に縋り付きたいほど疲弊していることなど、微塵も気づいていません。

「も……もちろんです、殿下。拝見いたしますわ」
 私は、リオネル様が触れた手の甲を、もう片方の手でぎゅっと隠しました。
 その熱だけを、暗闇の中で燃える灯火(ともしび)にするように。

 その夜。
 私は一人、自室でアメリア様から押し付けられた席次表を仕上げていました。
 ふと、鏡に映った自分を見ます。
 カイル殿下の理想を叶え、アメリア様の弱さを補い、父様の期待に応える私。
 ……けれど、私自身の心は、どこにあるのでしょう。
 不意に、窓の外で梟が鳴きました。
 ふと思い立って、リオネル様からもらったスカーフを首に巻いてみます。
 
(「俺の前でだけは、強くなくていい」……)
 彼の言葉が、呪文のように私を縛り、そして救い出してくれるようでした。
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