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「あなたが婚約を破棄された、マチルダさんかしら?」

 わたしが乗合馬車からアーグストン子爵の屋敷の玄関先におもむくと、開口一番、女中頭のおばさまは言いました。

「はい、お庭の設計士の求人でまいりました……」

 わたしが、父譲りの道具入れの木製トランクを床に置いて、スカートの裾を持ち上げ、丁寧に頭を下げますと、

「ふん、こんなもったいぶった挨拶。もう貴族でもあるまいしね」

 女中頭は、愛想なく背を向けて、客室へ歩いていきます。

(悔しい……)

 分かっています。わたしはかつてのエルダー男爵の一人娘、マチルダです。

 けれど1ヶ月前に爵位を失い、高貴なワイルダー公爵令息、ベン様から婚約を破棄されました。

 すでに男爵令嬢ではありせん。今は18歳、これまで王立学園で令嬢としての嗜みは学んできたつもりです。

 わがエルダー家は元は庭師の平民出身ですが、お父様が国王様の庭園の設計をしたのが縁で、男爵の爵位を賜りました。
 しかし、半年前に父上が剪定作業のさいに大木から転落して亡くなりました。

 それで、一代のみ与えられる男爵の称号がなくなり、しかも、ワイルダー公爵令息との婚約まで白紙となったのです。

 男爵としての身分も、国からの給付もなくなり、わたしは一般の平民として、父の仕事を継ぐことにしました。


***

 
 客間には40歳くらいの無精髭を蓄えた子爵様がソファに足を組んでウイスキーのグラスをかたむけていました。

 ラフな部屋着のローブを身に纏って、靴下をはかずにスリッパをはいています。

「マチルダさんです」

 女中頭の紹介でわたしがお辞儀をすると、子爵様は笑顔で立ち上がり、グラスと違う片方の手を差し出しました。

 彼の手のひらは、ふんわりしていて、緊張していたわたしの胸を優しく労っているようです。


「エリック・アーグストンです。マチルダ嬢、どうぞおかけなさい。ハリエットさん、エルダー家のご令嬢にお茶を差し上げて」

「わたし、もう、男爵家では……」

 わたしが謙遜すると、子爵様は首を振り、こう言ってくださいました。

「でも、どんな身分であれ、あなたがレディで教養のあることに変わりないでしょう」


「そんなことは……。お仕事のお誘いのお手紙をいただいて、感謝しているのはわたしの方ですから」

 子爵様は、グラスをテーブルに置くと、膝の上に両手を組みました。

「ところで、わたしの家の庭はどう思う? 率直に言ってほしいんです」

 わたしは、一瞬、考えました。都の中心から馬車で30分ほど、離れた郊外に、子爵様の屋敷はあります。
 まだ、ちらりと柵の外を覗いたり、この客室の窓から広がるわずかな景色しか見えませんが、その庭はひどく荒れているように思えました。

(初対面の子爵様、しかもお客様に失礼になるかも……)

 でもお父様なら、きっと、身分や立場など気にせずに、歯に衣着せない物言いで伝えるでしょう。それに子爵様はそんな方ではないはずです。

「まったくお手入れされていないように見えます。草木は伸び放題になっています」

 わたしは言ってしまった後で、上目遣いで公爵様の顔色をうかがいました。

 彼は頬笑んでいました。

「うん。その通り。家には庭師はいない。実は半月後に、外国からの客人をもてなすことになったのだ。でも、そのままではよろしくなくて困っている。急ぎ、庭の手入れを引き受けてくれませんか」

 わたしは、顎に手をやりました。

 あと、2週間あまりで何ができるのでしょうか。それに、外国の大事な客人をもてなす場所です。いい加減な気持ちでは、仕事を引き受けることはできないでしょう。

 わたしは、子爵様の蒼い瞳を見つめました。少し憂いをおびた眼差しが人を引きつけるのでしょうか。お給料以外に、彼のために何かしたいと思わせる何かが、あるのです。
 
「分かりました。その代わり、条件がございます」

「何です?」

「日数がありません。それに人工もです。家から毎日通う時間がもったいないです。わたしをここに置いてください。そして、必要な時に男手を2名ほどお借りしたいのです」

「構わない。客室は4室あるから、好きな部屋を使いなさい。庭師はいないが、家畜の世話や建物の修繕で、家人を雇い入れているから。ハリエットさんに相談するといい」

「ありがとうございます、子爵様」

 子爵様は口元をゆるませて、再びわたしと契約の握手を交わしてから、再びヒリヒリする強いお酒を飲みました。
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