2 / 8
第2章 氷の王子
しおりを挟む
王宮で迎える初めての朝は、胸の奥がぴしりと凍るような緊張から始まりました。
天井には金の装飾がきらめき、カーテンの縁には白鳥の羽が縫い込まれています。こんな豪奢な部屋に目を覚ます日が来るなんて、昨日までの自分には想像もできませんでした。
「おはようございます、アメリア様。本日のご予定ですが――午前は礼儀作法の稽古、午後は王太子殿下との夕餐かと」
新しくついた侍女のルナが淡々と告げる。細身で人当たりは柔らかいけれど、どこか冷めた色の瞳。
「あの、ルナさん……殿下は、どんな方なんですか?」
「有能なお方ですよ。口数は少なく、無駄を嫌われます。ご機嫌の伺い方を間違えなければ問題ありません」
その言い方が少し怖くて、わたしは思わず固まってしまいました。
ご機嫌を伺い間違えなければ……って、どうすれば!?
~~~~~~~~~~
午前中の礼儀作法の稽古は、まさに戦場でした。
厳格な教師マダム・ベルネッタの声が響き渡ります。
「アメリア様! その頭の角度、あと二度下げなさい! 二度です!」
「す、すみませんっ!」
王宮の床がつやつやに光るほど頭を下げながら、心の中でそっとため息。
こんなに頭を下げる人生なんて、想像していませんでした。
「はい、それではカップの持ち方をもう一度。小指が出ていますわ」
「あのっ、こ、小指が勝手に……」
「勝手に出る指などありません!」
ぐさっ。
言葉の鋭さで、心まで刺されます。
昼過ぎにはもう足が棒のようで、廊下を歩きながらふらふらしていました。
そんなとき、ふと風が吹き抜けて、窓の外で羽のような雪が舞うのが見えました。
「……雪が、降ってきたのね」
王都は春を前にしても寒い。きらめく雪を見ていると、少しだけ現実を忘れられる――そう思っていた矢先。
「転ぶな」
すぐ背後から低い声がして、驚きのあまり思わず足を滑らせそうになりました。
気づけば、両腕を掴まれていました。
「っ……殿下!?」
近い。目を上げれば、王太子ルキウス殿下が真っ直ぐにこちらを見ている。手袋越しでも分かる、その強い力に心臓が暴れ出しそうです。
「不安定な歩き方だな。侍女を連れていないのか」
「えっと……練習の帰りで、少し休憩を……」
「“少し”が長すぎる」
淡々とした口調なのに、妙に胸が高鳴るのはなぜでしょう。
「殿下にご迷惑を……すみません」
「迷惑ではない。ただ、怪我をされて王妃教育が遅れれば、それこそ宮中の迷惑だ」
そう言って、ぱっと手を離す。
少し寂しいと思ってしまった自分に、びっくりしました。
「……殿下は、お優しいのですね」
「優しい? 俺が?」
「違うんですか?」
「人にそう言われたことはない」
皮肉のように笑う口元が、ほんの一瞬穏やかに見えました。
冷たい瞳の奥に、かすかな影と痛みがある気がします。
この方は、どうしてこんなに心を閉ざしているのだろう――そう考えた瞬間でした。
「殿下、ここにいらっしゃいましたのね!」
甲高い声。振り向くと、濃いラベンダー色のドレスを纏った令嬢が現れました。
確か……名前はミリエル。王宮で評判の伯爵令嬢で、殿下に憧れてやまないとか。
「あら、身代わりの方? ずいぶん地味で……まるで壁の花みたいですわね」
満面の笑みを浮かべて言うミリエル嬢の声に、顔から血の気が引きました。
殿下は何も答えず、静かな声で「行くぞ」とだけ言って歩き出します。
その背中を見送りながら、ミリエル嬢がこちらを振り返ってひとこと。
「身代わりでも、せいぜい殿下に迷惑をかけないようにね」
……うん。我慢。ここで言い返したら、わたし負けです。
悔しくて、心の中でだけ「迷惑をかけるつもりなんてありません」と叫びました。
~~~~~~~~~~
夕刻。呼び出しを受けて、殿下と食卓を囲むことになりました。
とはいえ、空気は張りつめています。
「食事中は話すな。味に集中しろ」
「は、はいっ」
肉の香りがよくても、味わう余裕がありません。緊張のあまりフォークを落としかけ、慌てて拾おうとした瞬間――。
「触るな。危ない」
殿下が素早く伸ばした手で、フォークを拾い上げてくださいました。
その手が、わたしの指にほんの一瞬触れた気がして、思わず固まってしまいます。
「……すみません」
「注意力を鍛えろ。食事も訓練のうちだ」
きっぱりとした口調に、胸の中の泡がしゅんとしぼみました。
でも、ちらりと見上げると、彼はほんの少し眉根を和らげて言いました。
「だが……努力はしているようだな」
「え?」
「マダム・ベルネッタから聞いた。貴族の娘の中で、一番まじめに取り組んでいると」
「べ、ベルネッタ先生が!? 本当に!?」
うれしさが込み上げて、気づけば笑顔になっていました。
殿下は一瞬驚いたようにわたしを見つめ、少しだけ息を吐きます。
「笑うと……印象が変わるな」
「え?」
「いや、何でもない」
その言葉に、顔が熱くなってしまいました。
本当に、“何でもない”のでしょうか。
~~~~~~~~~~
食後、侍女の部屋に戻る途中、ルナが心配そうに言いました。
「アメリア様、殿下とお話を?」
「ええ、少しだけ。でも……想像より優しいお方でした」
「優しい、ですか?」
ルナの眉がぴくりと動く。
「この宮廷では、優しさは弱さと同じ意味を持ちます。お気をつけくださいませ」
その言葉が、不吉な予感のように響きました。
~~~~~~~~~~
それから数日が過ぎました。
王宮に少しずつ慣れてきたころ、廊下の陰でまた噂話が聞こえてきます。
「聞いた? “田舎娘の身代わり花嫁”だって」
「しかも王太子殿下が興味も示さないんですって」
陰で笑う声を背中に感じても、わたしは足を止めません。
いつか、胸を張って歩けるようになる日まで。
そんなことを思っていた矢先、部屋に小さな花束が届けられました。
白い雪花草と銀のリボン。それに小さな紙片。
『努力を続けろ。春は遠くない』
差出人の名は書かれていません。けれど字を見た瞬間、誰からかは分かりました。
「……殿下……」
思わず頬が熱くなります。
冷たいはずの王宮で見つけた、ほんの小さな温もり。
雪花草の香りが部屋に広がったとき、わたしは初めて、この宮で生きていこうと思えました。
天井には金の装飾がきらめき、カーテンの縁には白鳥の羽が縫い込まれています。こんな豪奢な部屋に目を覚ます日が来るなんて、昨日までの自分には想像もできませんでした。
「おはようございます、アメリア様。本日のご予定ですが――午前は礼儀作法の稽古、午後は王太子殿下との夕餐かと」
新しくついた侍女のルナが淡々と告げる。細身で人当たりは柔らかいけれど、どこか冷めた色の瞳。
「あの、ルナさん……殿下は、どんな方なんですか?」
「有能なお方ですよ。口数は少なく、無駄を嫌われます。ご機嫌の伺い方を間違えなければ問題ありません」
その言い方が少し怖くて、わたしは思わず固まってしまいました。
ご機嫌を伺い間違えなければ……って、どうすれば!?
~~~~~~~~~~
午前中の礼儀作法の稽古は、まさに戦場でした。
厳格な教師マダム・ベルネッタの声が響き渡ります。
「アメリア様! その頭の角度、あと二度下げなさい! 二度です!」
「す、すみませんっ!」
王宮の床がつやつやに光るほど頭を下げながら、心の中でそっとため息。
こんなに頭を下げる人生なんて、想像していませんでした。
「はい、それではカップの持ち方をもう一度。小指が出ていますわ」
「あのっ、こ、小指が勝手に……」
「勝手に出る指などありません!」
ぐさっ。
言葉の鋭さで、心まで刺されます。
昼過ぎにはもう足が棒のようで、廊下を歩きながらふらふらしていました。
そんなとき、ふと風が吹き抜けて、窓の外で羽のような雪が舞うのが見えました。
「……雪が、降ってきたのね」
王都は春を前にしても寒い。きらめく雪を見ていると、少しだけ現実を忘れられる――そう思っていた矢先。
「転ぶな」
すぐ背後から低い声がして、驚きのあまり思わず足を滑らせそうになりました。
気づけば、両腕を掴まれていました。
「っ……殿下!?」
近い。目を上げれば、王太子ルキウス殿下が真っ直ぐにこちらを見ている。手袋越しでも分かる、その強い力に心臓が暴れ出しそうです。
「不安定な歩き方だな。侍女を連れていないのか」
「えっと……練習の帰りで、少し休憩を……」
「“少し”が長すぎる」
淡々とした口調なのに、妙に胸が高鳴るのはなぜでしょう。
「殿下にご迷惑を……すみません」
「迷惑ではない。ただ、怪我をされて王妃教育が遅れれば、それこそ宮中の迷惑だ」
そう言って、ぱっと手を離す。
少し寂しいと思ってしまった自分に、びっくりしました。
「……殿下は、お優しいのですね」
「優しい? 俺が?」
「違うんですか?」
「人にそう言われたことはない」
皮肉のように笑う口元が、ほんの一瞬穏やかに見えました。
冷たい瞳の奥に、かすかな影と痛みがある気がします。
この方は、どうしてこんなに心を閉ざしているのだろう――そう考えた瞬間でした。
「殿下、ここにいらっしゃいましたのね!」
甲高い声。振り向くと、濃いラベンダー色のドレスを纏った令嬢が現れました。
確か……名前はミリエル。王宮で評判の伯爵令嬢で、殿下に憧れてやまないとか。
「あら、身代わりの方? ずいぶん地味で……まるで壁の花みたいですわね」
満面の笑みを浮かべて言うミリエル嬢の声に、顔から血の気が引きました。
殿下は何も答えず、静かな声で「行くぞ」とだけ言って歩き出します。
その背中を見送りながら、ミリエル嬢がこちらを振り返ってひとこと。
「身代わりでも、せいぜい殿下に迷惑をかけないようにね」
……うん。我慢。ここで言い返したら、わたし負けです。
悔しくて、心の中でだけ「迷惑をかけるつもりなんてありません」と叫びました。
~~~~~~~~~~
夕刻。呼び出しを受けて、殿下と食卓を囲むことになりました。
とはいえ、空気は張りつめています。
「食事中は話すな。味に集中しろ」
「は、はいっ」
肉の香りがよくても、味わう余裕がありません。緊張のあまりフォークを落としかけ、慌てて拾おうとした瞬間――。
「触るな。危ない」
殿下が素早く伸ばした手で、フォークを拾い上げてくださいました。
その手が、わたしの指にほんの一瞬触れた気がして、思わず固まってしまいます。
「……すみません」
「注意力を鍛えろ。食事も訓練のうちだ」
きっぱりとした口調に、胸の中の泡がしゅんとしぼみました。
でも、ちらりと見上げると、彼はほんの少し眉根を和らげて言いました。
「だが……努力はしているようだな」
「え?」
「マダム・ベルネッタから聞いた。貴族の娘の中で、一番まじめに取り組んでいると」
「べ、ベルネッタ先生が!? 本当に!?」
うれしさが込み上げて、気づけば笑顔になっていました。
殿下は一瞬驚いたようにわたしを見つめ、少しだけ息を吐きます。
「笑うと……印象が変わるな」
「え?」
「いや、何でもない」
その言葉に、顔が熱くなってしまいました。
本当に、“何でもない”のでしょうか。
~~~~~~~~~~
食後、侍女の部屋に戻る途中、ルナが心配そうに言いました。
「アメリア様、殿下とお話を?」
「ええ、少しだけ。でも……想像より優しいお方でした」
「優しい、ですか?」
ルナの眉がぴくりと動く。
「この宮廷では、優しさは弱さと同じ意味を持ちます。お気をつけくださいませ」
その言葉が、不吉な予感のように響きました。
~~~~~~~~~~
それから数日が過ぎました。
王宮に少しずつ慣れてきたころ、廊下の陰でまた噂話が聞こえてきます。
「聞いた? “田舎娘の身代わり花嫁”だって」
「しかも王太子殿下が興味も示さないんですって」
陰で笑う声を背中に感じても、わたしは足を止めません。
いつか、胸を張って歩けるようになる日まで。
そんなことを思っていた矢先、部屋に小さな花束が届けられました。
白い雪花草と銀のリボン。それに小さな紙片。
『努力を続けろ。春は遠くない』
差出人の名は書かれていません。けれど字を見た瞬間、誰からかは分かりました。
「……殿下……」
思わず頬が熱くなります。
冷たいはずの王宮で見つけた、ほんの小さな温もり。
雪花草の香りが部屋に広がったとき、わたしは初めて、この宮で生きていこうと思えました。
1
あなたにおすすめの小説
【完結】あいしていると伝えたくて
ここ
恋愛
シファラは、生まれてからずっと、真っ暗な壁の中にいた。ジメジメした空間には明かり取りの窓すらない。こんなことは起きなかった。公爵の娘であるシファラが、身分の低い娼婦から生まれたのではなければ。
シファラの人生はその部屋で終わるはずだった。だが、想定外のことが起きて。
*恋愛要素は薄めです。これからって感じで終わります。
馬小屋の令嬢
satomi
恋愛
産まれた時に髪の色が黒いということで、馬小屋での生活を強いられてきたハナコ。その10年後にも男の子が髪の色が黒かったので、馬小屋へ。その一年後にもまた男の子が一人馬小屋へ。やっとその一年後に待望の金髪の子が生まれる。女の子だけど、それでも公爵閣下は嬉しかった。彼女の名前はステラリンク。馬小屋の子は名前を適当につけた。長女はハナコ。長男はタロウ、次男はジロウ。
髪の色に翻弄される彼女たちとそれとは全く関係ない世間との違い。
ある日、パーティーに招待されます。そこで歯車が狂っていきます。
あっ、追放されちゃった…。
satomi
恋愛
ガイダール侯爵家の長女であるパールは精霊の話を聞くことができる。がそのことは誰にも話してはいない。亡き母との約束。
母が亡くなって喪も明けないうちに義母を父は連れてきた。義妹付きで。義妹はパールのものをなんでも欲しがった。事前に精霊の話を聞いていたパールは対処なりをできていたけれど、これは…。
ついにウラルはパールの婚約者である王太子を横取りした。
そのことについては王太子は特に魅力のある人ではないし、なんにも感じなかったのですが、王宮内でも噂になり、家の恥だと、家まで追い出されてしまったのです。
精霊さんのアドバイスによりブルハング帝国へと行ったパールですが…。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
恋愛
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~
朝日みらい
恋愛
煌びやかな晩餐会。クラリッサは上品に振る舞おうと努めるが、周囲の貴族は彼女の地味な外見を笑う。
婚約者ルネがワインを掲げて笑う。「俺は華のある令嬢が好きなんだ。すまないが、君では退屈だ。」
静寂と嘲笑の中、クラリッサは微笑みを崩さずに頭を下げる。
夜、涙をこらえて母宛てに手紙を書く。
「恥をかいたけれど、泣かないことを誇りに思いたいです。」
彼女の最初の手紙が、物語の始まりになるように――。
【完結】離縁など、とんでもない?じゃあこれ食べてみて。
BBやっこ
恋愛
サリー・シュチュワートは良縁にめぐまれ、結婚した。婚家でも温かく迎えられ、幸せな生活を送ると思えたが。
何のこれ?「旦那様からの指示です」「奥様からこのメニューをこなすように、と。」「大旦那様が苦言を」
何なの?文句が多すぎる!けど慣れ様としたのよ…。でも。
うっかり結婚を承諾したら……。
翠月るるな
恋愛
「結婚しようよ」
なんて軽い言葉で誘われて、承諾することに。
相手は女避けにちょうどいいみたいだし、私は煩わしいことからの解放される。
白い結婚になるなら、思う存分魔導の勉強ができると喜んだものの……。
実際は思った感じではなくて──?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる