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第2章 氷の王子
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王宮で迎える初めての朝は、胸の奥がぴしりと凍るような緊張から始まりました。
天井には金の装飾がきらめき、カーテンの縁には白鳥の羽が縫い込まれています。こんな豪奢な部屋に目を覚ます日が来るなんて、昨日までの自分には想像もできませんでした。
「おはようございます、アメリア様。本日のご予定ですが――午前は礼儀作法の稽古、午後は王太子殿下との夕餐かと」
新しくついた侍女のルナが淡々と告げる。細身で人当たりは柔らかいけれど、どこか冷めた色の瞳。
「あの、ルナさん……殿下は、どんな方なんですか?」
「有能なお方ですよ。口数は少なく、無駄を嫌われます。ご機嫌の伺い方を間違えなければ問題ありません」
その言い方が少し怖くて、わたしは思わず固まってしまいました。
ご機嫌を伺い間違えなければ……って、どうすれば!?
~~~~~~~~~~
午前中の礼儀作法の稽古は、まさに戦場でした。
厳格な教師マダム・ベルネッタの声が響き渡ります。
「アメリア様! その頭の角度、あと二度下げなさい! 二度です!」
「す、すみませんっ!」
王宮の床がつやつやに光るほど頭を下げながら、心の中でそっとため息。
こんなに頭を下げる人生なんて、想像していませんでした。
「はい、それではカップの持ち方をもう一度。小指が出ていますわ」
「あのっ、こ、小指が勝手に……」
「勝手に出る指などありません!」
ぐさっ。
言葉の鋭さで、心まで刺されます。
昼過ぎにはもう足が棒のようで、廊下を歩きながらふらふらしていました。
そんなとき、ふと風が吹き抜けて、窓の外で羽のような雪が舞うのが見えました。
「……雪が、降ってきたのね」
王都は春を前にしても寒い。きらめく雪を見ていると、少しだけ現実を忘れられる――そう思っていた矢先。
「転ぶな」
すぐ背後から低い声がして、驚きのあまり思わず足を滑らせそうになりました。
気づけば、両腕を掴まれていました。
「っ……殿下!?」
近い。目を上げれば、王太子ルキウス殿下が真っ直ぐにこちらを見ている。手袋越しでも分かる、その強い力に心臓が暴れ出しそうです。
「不安定な歩き方だな。侍女を連れていないのか」
「えっと……練習の帰りで、少し休憩を……」
「“少し”が長すぎる」
淡々とした口調なのに、妙に胸が高鳴るのはなぜでしょう。
「殿下にご迷惑を……すみません」
「迷惑ではない。ただ、怪我をされて王妃教育が遅れれば、それこそ宮中の迷惑だ」
そう言って、ぱっと手を離す。
少し寂しいと思ってしまった自分に、びっくりしました。
「……殿下は、お優しいのですね」
「優しい? 俺が?」
「違うんですか?」
「人にそう言われたことはない」
皮肉のように笑う口元が、ほんの一瞬穏やかに見えました。
冷たい瞳の奥に、かすかな影と痛みがある気がします。
この方は、どうしてこんなに心を閉ざしているのだろう――そう考えた瞬間でした。
「殿下、ここにいらっしゃいましたのね!」
甲高い声。振り向くと、濃いラベンダー色のドレスを纏った令嬢が現れました。
確か……名前はミリエル。王宮で評判の伯爵令嬢で、殿下に憧れてやまないとか。
「あら、身代わりの方? ずいぶん地味で……まるで壁の花みたいですわね」
満面の笑みを浮かべて言うミリエル嬢の声に、顔から血の気が引きました。
殿下は何も答えず、静かな声で「行くぞ」とだけ言って歩き出します。
その背中を見送りながら、ミリエル嬢がこちらを振り返ってひとこと。
「身代わりでも、せいぜい殿下に迷惑をかけないようにね」
……うん。我慢。ここで言い返したら、わたし負けです。
悔しくて、心の中でだけ「迷惑をかけるつもりなんてありません」と叫びました。
~~~~~~~~~~
夕刻。呼び出しを受けて、殿下と食卓を囲むことになりました。
とはいえ、空気は張りつめています。
「食事中は話すな。味に集中しろ」
「は、はいっ」
肉の香りがよくても、味わう余裕がありません。緊張のあまりフォークを落としかけ、慌てて拾おうとした瞬間――。
「触るな。危ない」
殿下が素早く伸ばした手で、フォークを拾い上げてくださいました。
その手が、わたしの指にほんの一瞬触れた気がして、思わず固まってしまいます。
「……すみません」
「注意力を鍛えろ。食事も訓練のうちだ」
きっぱりとした口調に、胸の中の泡がしゅんとしぼみました。
でも、ちらりと見上げると、彼はほんの少し眉根を和らげて言いました。
「だが……努力はしているようだな」
「え?」
「マダム・ベルネッタから聞いた。貴族の娘の中で、一番まじめに取り組んでいると」
「べ、ベルネッタ先生が!? 本当に!?」
うれしさが込み上げて、気づけば笑顔になっていました。
殿下は一瞬驚いたようにわたしを見つめ、少しだけ息を吐きます。
「笑うと……印象が変わるな」
「え?」
「いや、何でもない」
その言葉に、顔が熱くなってしまいました。
本当に、“何でもない”のでしょうか。
~~~~~~~~~~
食後、侍女の部屋に戻る途中、ルナが心配そうに言いました。
「アメリア様、殿下とお話を?」
「ええ、少しだけ。でも……想像より優しいお方でした」
「優しい、ですか?」
ルナの眉がぴくりと動く。
「この宮廷では、優しさは弱さと同じ意味を持ちます。お気をつけくださいませ」
その言葉が、不吉な予感のように響きました。
~~~~~~~~~~
それから数日が過ぎました。
王宮に少しずつ慣れてきたころ、廊下の陰でまた噂話が聞こえてきます。
「聞いた? “田舎娘の身代わり花嫁”だって」
「しかも王太子殿下が興味も示さないんですって」
陰で笑う声を背中に感じても、わたしは足を止めません。
いつか、胸を張って歩けるようになる日まで。
そんなことを思っていた矢先、部屋に小さな花束が届けられました。
白い雪花草と銀のリボン。それに小さな紙片。
『努力を続けろ。春は遠くない』
差出人の名は書かれていません。けれど字を見た瞬間、誰からかは分かりました。
「……殿下……」
思わず頬が熱くなります。
冷たいはずの王宮で見つけた、ほんの小さな温もり。
雪花草の香りが部屋に広がったとき、わたしは初めて、この宮で生きていこうと思えました。
天井には金の装飾がきらめき、カーテンの縁には白鳥の羽が縫い込まれています。こんな豪奢な部屋に目を覚ます日が来るなんて、昨日までの自分には想像もできませんでした。
「おはようございます、アメリア様。本日のご予定ですが――午前は礼儀作法の稽古、午後は王太子殿下との夕餐かと」
新しくついた侍女のルナが淡々と告げる。細身で人当たりは柔らかいけれど、どこか冷めた色の瞳。
「あの、ルナさん……殿下は、どんな方なんですか?」
「有能なお方ですよ。口数は少なく、無駄を嫌われます。ご機嫌の伺い方を間違えなければ問題ありません」
その言い方が少し怖くて、わたしは思わず固まってしまいました。
ご機嫌を伺い間違えなければ……って、どうすれば!?
~~~~~~~~~~
午前中の礼儀作法の稽古は、まさに戦場でした。
厳格な教師マダム・ベルネッタの声が響き渡ります。
「アメリア様! その頭の角度、あと二度下げなさい! 二度です!」
「す、すみませんっ!」
王宮の床がつやつやに光るほど頭を下げながら、心の中でそっとため息。
こんなに頭を下げる人生なんて、想像していませんでした。
「はい、それではカップの持ち方をもう一度。小指が出ていますわ」
「あのっ、こ、小指が勝手に……」
「勝手に出る指などありません!」
ぐさっ。
言葉の鋭さで、心まで刺されます。
昼過ぎにはもう足が棒のようで、廊下を歩きながらふらふらしていました。
そんなとき、ふと風が吹き抜けて、窓の外で羽のような雪が舞うのが見えました。
「……雪が、降ってきたのね」
王都は春を前にしても寒い。きらめく雪を見ていると、少しだけ現実を忘れられる――そう思っていた矢先。
「転ぶな」
すぐ背後から低い声がして、驚きのあまり思わず足を滑らせそうになりました。
気づけば、両腕を掴まれていました。
「っ……殿下!?」
近い。目を上げれば、王太子ルキウス殿下が真っ直ぐにこちらを見ている。手袋越しでも分かる、その強い力に心臓が暴れ出しそうです。
「不安定な歩き方だな。侍女を連れていないのか」
「えっと……練習の帰りで、少し休憩を……」
「“少し”が長すぎる」
淡々とした口調なのに、妙に胸が高鳴るのはなぜでしょう。
「殿下にご迷惑を……すみません」
「迷惑ではない。ただ、怪我をされて王妃教育が遅れれば、それこそ宮中の迷惑だ」
そう言って、ぱっと手を離す。
少し寂しいと思ってしまった自分に、びっくりしました。
「……殿下は、お優しいのですね」
「優しい? 俺が?」
「違うんですか?」
「人にそう言われたことはない」
皮肉のように笑う口元が、ほんの一瞬穏やかに見えました。
冷たい瞳の奥に、かすかな影と痛みがある気がします。
この方は、どうしてこんなに心を閉ざしているのだろう――そう考えた瞬間でした。
「殿下、ここにいらっしゃいましたのね!」
甲高い声。振り向くと、濃いラベンダー色のドレスを纏った令嬢が現れました。
確か……名前はミリエル。王宮で評判の伯爵令嬢で、殿下に憧れてやまないとか。
「あら、身代わりの方? ずいぶん地味で……まるで壁の花みたいですわね」
満面の笑みを浮かべて言うミリエル嬢の声に、顔から血の気が引きました。
殿下は何も答えず、静かな声で「行くぞ」とだけ言って歩き出します。
その背中を見送りながら、ミリエル嬢がこちらを振り返ってひとこと。
「身代わりでも、せいぜい殿下に迷惑をかけないようにね」
……うん。我慢。ここで言い返したら、わたし負けです。
悔しくて、心の中でだけ「迷惑をかけるつもりなんてありません」と叫びました。
~~~~~~~~~~
夕刻。呼び出しを受けて、殿下と食卓を囲むことになりました。
とはいえ、空気は張りつめています。
「食事中は話すな。味に集中しろ」
「は、はいっ」
肉の香りがよくても、味わう余裕がありません。緊張のあまりフォークを落としかけ、慌てて拾おうとした瞬間――。
「触るな。危ない」
殿下が素早く伸ばした手で、フォークを拾い上げてくださいました。
その手が、わたしの指にほんの一瞬触れた気がして、思わず固まってしまいます。
「……すみません」
「注意力を鍛えろ。食事も訓練のうちだ」
きっぱりとした口調に、胸の中の泡がしゅんとしぼみました。
でも、ちらりと見上げると、彼はほんの少し眉根を和らげて言いました。
「だが……努力はしているようだな」
「え?」
「マダム・ベルネッタから聞いた。貴族の娘の中で、一番まじめに取り組んでいると」
「べ、ベルネッタ先生が!? 本当に!?」
うれしさが込み上げて、気づけば笑顔になっていました。
殿下は一瞬驚いたようにわたしを見つめ、少しだけ息を吐きます。
「笑うと……印象が変わるな」
「え?」
「いや、何でもない」
その言葉に、顔が熱くなってしまいました。
本当に、“何でもない”のでしょうか。
~~~~~~~~~~
食後、侍女の部屋に戻る途中、ルナが心配そうに言いました。
「アメリア様、殿下とお話を?」
「ええ、少しだけ。でも……想像より優しいお方でした」
「優しい、ですか?」
ルナの眉がぴくりと動く。
「この宮廷では、優しさは弱さと同じ意味を持ちます。お気をつけくださいませ」
その言葉が、不吉な予感のように響きました。
~~~~~~~~~~
それから数日が過ぎました。
王宮に少しずつ慣れてきたころ、廊下の陰でまた噂話が聞こえてきます。
「聞いた? “田舎娘の身代わり花嫁”だって」
「しかも王太子殿下が興味も示さないんですって」
陰で笑う声を背中に感じても、わたしは足を止めません。
いつか、胸を張って歩けるようになる日まで。
そんなことを思っていた矢先、部屋に小さな花束が届けられました。
白い雪花草と銀のリボン。それに小さな紙片。
『努力を続けろ。春は遠くない』
差出人の名は書かれていません。けれど字を見た瞬間、誰からかは分かりました。
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