【完結】政略結婚なのに旦那様が不器用すぎて、気づけば私が主導権を握ってました。～雷が怖い侯爵様と、没落令嬢のお話～

第1章：借金まみれの我が家には政略結婚しかなかった

「明日から侯爵家の屋敷で過ごしてこい。相手はヴァルトハイム家の嫡男だ」

　父のその一言で、私は盛大に、焼きたての黒パンを吹き飛ばしました。
　熱々だったのに、口からパンが飛び出すとか、どういう状況ですか。唇火傷しそう。

「……は？」

　パンくずがテーブルに雨のように散らばる中、私は硬直したまま、父の顔を見つめました。
　信じられない。今なんて言いました、この人？　耳がバグったのかと思いましたよ。

「セレナ、お前の嫁入り先が決まった。明日から“お試し花嫁”として、ヴァルトハイム家に行ってもらう」

「いやいやいやいや、ちょっと待ってください！　“お試し”って何ですか！？　パンの試食じゃないんですよ！？　私、人間ですよ！？　しかも未開封の！」

「うるさい。これは家のためだ」

　ぴしゃりと一蹴された私は、勢いで立ち上がった椅子の足がキイッと床を鳴らしたのも気に留めないまま、ぽかんと父を見上げた。

　父は眉間に深いしわを寄せ、まるで世界の命運を背負った将軍のような顔で、重々しく続けました。

「我がアルディア家は、借金まみれで破綻寸前だ。お前の政略結婚が、唯一の救いなんだ」

「……え、マジで？」

　信じたくない。いや、でも、父の口元がいつになく真剣……
　っていうか、そういえば最近、やたらと屋敷のロウソクが少なくなってたし、夜は寒いのに暖炉が使えなかったし、メイドさんたちも減ってたし……
　そういうことだったの！？　全部、兆候だったの！？

　

　──マジでした。

　セレナ・アルディア、子爵家の三女。

　貴族だけど庶民派。上の姉たちが豪華なドレスで舞踏会に行くなか、私は裏庭でジャガイモを掘る生活。
　日々コツコツ節約生活で、食卓はほぼ安定のメニュー構成。

　朝は黒パンとポタージュ。昼はハーブロースト（ほぼハーブ）。夜は干し肉と野菜の煮込み。
　おやつ？　夢です。

　そんな慎ましい、静かで平和な生活を送っていた私が、いきなり名門侯爵家に嫁入りなんて……
　どう考えても無理ゲーです。

「相手は完璧主義で冷血な男だが、我慢しろ」

「無理です」

　即答しました。

　父は、まるでそれすらも計算済みとばかりに、ふうっとため息をついて、私の頭に手を乗せました。

「セレナ、お前は家族のために犠牲になるんだ。誇りに思え」

「……誇りって、私にはパンの皮です」

　それとも、焼きすぎて焦げた部分ですか？　食べられないけど残すのもったいない、みたいな？

　ああもう、なんで私だけ、こんな理不尽な役回りなんでしょう。

　そんなこんなで、翌日。

　私は、ぎこちない姿勢で馬車に揺られながら、侯爵家ヴァルトハイム家の屋敷へと向かっていました。

　窓の外は見たこともないような自然の豊かさで、木々の並木が風に揺れて、馬のひづめの音がカツカツと響いていました。
　でも、まったく心が安らがない。むしろ胃がぎゅるぎゅるする。
　お腹すいたわけじゃないです。完全に緊張です。

「……はぁ」

　馬車のカーテンをそっとめくると、広がるのは信じられないほどの庭園。

　噴水は天に向かって水を放ち、整えられた花壇がきれいに並び、足元の石畳すら芸術的に見えます。
　そして——門。でかい。装飾が過剰。まるでお城。え、ここ住むんですか？　本当に？

　屋敷の前に馬車が止まると、緊張で指先が冷たくなっていくのを感じながら、私は扉を開けて一歩踏み出しました。

　その時、視線の先に立っていたのは——

　漆黒の髪、整った顔立ち、冷たい光をたたえた瞳を持つ青年。

　完璧に整えられた礼装姿で立つその人こそ、ライネル・ヴァルトハイム様。
　つまり、私の“お試し婚約者”。

　高貴な雰囲気がただよう彼は、まるで彫刻のように美しく、しかし同時に近づきがたい空気を放っていた。

「……セレナ・アルディアです。本日よりお世話になります」

　心臓がドクドク鳴るのを無理やり抑えながら、私は深く頭を下げました。

　すると、彼は眉一つ動かさず、まるで氷のような声で告げました。

「規則は守れ。勝手な行動は慎め。以上だ」

「……はい」

　え、怖っ。冷たい。冷え冷え。氷点下。
　でも見た目は王子様って、どういうギャップ萌え地獄ですかこれ。

　第一印象は、まさに氷の彫像。感情ゼロ。完璧主義の冷血男って、きっとこういう人のことを言うんですね。

　でも——

　ほんの一瞬だけ。

　あの冷たい瞳の奥に、ふと、悲しげな色がよぎったような……そんな気がしたのです。

　私の勘違いかもしれません。気のせい。きっと、そう。

　でも、心のどこかで、確かにあの時、彼の瞳が微かに揺れたように見えたのです。