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第2章:雷が鳴る夜、あなたの秘密を知ってしまった
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雨が降り始めた夜でした。
ぽつ、ぽつ、と窓に打ちつける雨音が、やがてざあざあとした激しい響きに変わり、静かな屋敷の中に不穏な空気を漂わせていきました。
窓の外はすっかり暗く、低く垂れ込めた雲が空を覆い尽くしている。
時折、稲妻が光の矢のように空を裂き、鋭い閃光が一瞬、部屋の中を照らすと——
古い窓枠がギシッと軋んだ音を立てました。
それだけで、私は思わず肩をすくめました。
「……雷、苦手なんだよね」
誰に言うでもなく、ただ空気に紛れるように呟いた声が、自分でも驚くほど小さく聞こえました。
心臓が、ドクンと跳ねる。雷が鳴るたびに、毎回。
子供の頃からずっと、あの轟音が怖かった。胸の奥を打ちつけるような、破壊の音。
今でも、慣れない。
でも、ここは立派な侯爵家の屋敷だし、雷が落ちる心配なんてない……はず。
そう思って気を紛らわせようと、私は小さなランプを手に廊下を歩き始めました。足元を照らす灯りは心許なく、雨の音と遠くで響く雷鳴が、やけに大きく感じられました。
……そのとき。
「……っ、やだ……やめてくれ……っ」
ふいに、低いうめき声が、廊下の角の物陰から聞こえてきたのです。
「え……?」
私はぴたりと足を止め、息を飲みました。
誰かが……いる? こんな時間に、こんな場所に?
ランプを胸元で少し高く掲げて、私は静かに、そっと物陰へ近づきました。
そこにいたのは——
「……ライネル様!?」
思わず叫びそうになった声を、なんとか押し殺しました。
そこに座り込んでいたのは、他ならぬライネル・ヴァルトハイム様。
壁にもたれ、両膝を抱えるようにして座り込んだ彼は、いつもの完璧な姿とはまるで別人のようで。黒髪は乱れ、顔は青ざめ、肩が小さく震えていました。
ランプの灯りに照らされるその姿は、まるで——雷に怯える、大きな猫のように見えました。
あの冷静沈着で、何事にも動じないように見える彼が、こんなふうに……
「……だ、大丈夫ですか?」
言葉を選ぶ暇もなく、私は思わず声をかけていました。
ライネル様は、ゆっくりと顔を上げました。その動きがあまりにも痛々しく、胸がぎゅっと締めつけられたように感じました。
「……見たのか?」
かすれた声でそう言った彼の瞳は、いつもの冷たい光を失っていました。
そこにあったのは、明確な“恐怖”。
強がることも、隠すこともせず、ただ怯えと苦しみに満ちた、素の彼の姿。
「雷……苦手なんですか?」
私はそっと問いかけました。できるだけ、穏やかに。彼の痛みに触れすぎないように。
「……子供の頃から、ずっと。雷の音を聞くと……身体が動かなくなるんだ」
その声には、言葉では言い表せないほどの深い傷が滲んでいました。
「それって、何か理由が?」
私は気づかぬうちに、膝をついて彼の視線の高さに合わせていました。軽率かもしれない。でも、聞かずにはいられなかった。
すると、彼は小さく、震える声で告げました。
「……昔、屋敷が雷で……火事になったことがある。僕は……その時、大切な人を助けられなかった」
「……!」
心が、ぎゅっと締めつけられました。
彼は静かに、言葉を選びながら続けました。
「燃えさかる屋敷の中で……僕は怖くて、動けなかったんだ。雷の音に、火の勢いに、全てに……」
彼の指が、わずかに震えているのがわかりました。
完璧主義で、冷たいと噂される侯爵家の跡取り。
その実態は——
雷がとても、ものすごく、超絶に苦手な人だったのです。
「……ライネル様」
私はそっと、彼の肩に手を置きました。
彼の身体がびくりと反応するのがわかる。でも、拒絶されなかった。
「怖い時は、誰かに頼ってもいいんですよ」
ただ、それだけを伝えたくて。
すると、彼はしばらく黙った後、かすかに口元を緩めました。
「……君は、変なやつだな」
ほんの一瞬。
けれど確かに、その瞳に笑みが宿りました。
それは、今まで一度も見たことのない、彼の“素顔”でした。
その夜、やがて雷は止み、空には星が静かに瞬いていました。
冷えた空気を胸いっぱいに吸い込みながら、私は中庭の片隅で、空を見上げていました。深く澄んだ夜空に、雨の名残がまだ残っている。
誰もいないはずの静かな庭で、ふと——
「……セレナ」
背後から、静かな声が聞こえました。
振り返ると、ライネル様が立っていました。
整えられた衣服のまま、少しだけ戸惑ったような表情を浮かべて。
「今日は……ありがとう」
「え?」
「雷の夜、君がいてくれて、助かった」
「……ライネル様」
私はそっと、彼を見つめました。
ライネル様は、少し視線を伏せてから、言いました。
「君は、僕の弱さを知ってしまった。だから……もう君を遠ざけるべきなのかもしれない」
「そんなの、違います!」
思わず、声が大きくなっていました。
「弱さを知ったからこそ、もっと近くにいたいって思ったんです」
強がりでも、完璧でもなくていい。ただ、素直な気持ちを受け取ってほしいと思った。
「……君は、本当に変なやつだな」
そう言って、彼は——また、少しだけ笑いました。
その笑顔は、前よりもほんの少し、温かさを帯びていて。
胸の奥に、ぽっと火が灯ったように、私はそっと目を細めました。
ぽつ、ぽつ、と窓に打ちつける雨音が、やがてざあざあとした激しい響きに変わり、静かな屋敷の中に不穏な空気を漂わせていきました。
窓の外はすっかり暗く、低く垂れ込めた雲が空を覆い尽くしている。
時折、稲妻が光の矢のように空を裂き、鋭い閃光が一瞬、部屋の中を照らすと——
古い窓枠がギシッと軋んだ音を立てました。
それだけで、私は思わず肩をすくめました。
「……雷、苦手なんだよね」
誰に言うでもなく、ただ空気に紛れるように呟いた声が、自分でも驚くほど小さく聞こえました。
心臓が、ドクンと跳ねる。雷が鳴るたびに、毎回。
子供の頃からずっと、あの轟音が怖かった。胸の奥を打ちつけるような、破壊の音。
今でも、慣れない。
でも、ここは立派な侯爵家の屋敷だし、雷が落ちる心配なんてない……はず。
そう思って気を紛らわせようと、私は小さなランプを手に廊下を歩き始めました。足元を照らす灯りは心許なく、雨の音と遠くで響く雷鳴が、やけに大きく感じられました。
……そのとき。
「……っ、やだ……やめてくれ……っ」
ふいに、低いうめき声が、廊下の角の物陰から聞こえてきたのです。
「え……?」
私はぴたりと足を止め、息を飲みました。
誰かが……いる? こんな時間に、こんな場所に?
ランプを胸元で少し高く掲げて、私は静かに、そっと物陰へ近づきました。
そこにいたのは——
「……ライネル様!?」
思わず叫びそうになった声を、なんとか押し殺しました。
そこに座り込んでいたのは、他ならぬライネル・ヴァルトハイム様。
壁にもたれ、両膝を抱えるようにして座り込んだ彼は、いつもの完璧な姿とはまるで別人のようで。黒髪は乱れ、顔は青ざめ、肩が小さく震えていました。
ランプの灯りに照らされるその姿は、まるで——雷に怯える、大きな猫のように見えました。
あの冷静沈着で、何事にも動じないように見える彼が、こんなふうに……
「……だ、大丈夫ですか?」
言葉を選ぶ暇もなく、私は思わず声をかけていました。
ライネル様は、ゆっくりと顔を上げました。その動きがあまりにも痛々しく、胸がぎゅっと締めつけられたように感じました。
「……見たのか?」
かすれた声でそう言った彼の瞳は、いつもの冷たい光を失っていました。
そこにあったのは、明確な“恐怖”。
強がることも、隠すこともせず、ただ怯えと苦しみに満ちた、素の彼の姿。
「雷……苦手なんですか?」
私はそっと問いかけました。できるだけ、穏やかに。彼の痛みに触れすぎないように。
「……子供の頃から、ずっと。雷の音を聞くと……身体が動かなくなるんだ」
その声には、言葉では言い表せないほどの深い傷が滲んでいました。
「それって、何か理由が?」
私は気づかぬうちに、膝をついて彼の視線の高さに合わせていました。軽率かもしれない。でも、聞かずにはいられなかった。
すると、彼は小さく、震える声で告げました。
「……昔、屋敷が雷で……火事になったことがある。僕は……その時、大切な人を助けられなかった」
「……!」
心が、ぎゅっと締めつけられました。
彼は静かに、言葉を選びながら続けました。
「燃えさかる屋敷の中で……僕は怖くて、動けなかったんだ。雷の音に、火の勢いに、全てに……」
彼の指が、わずかに震えているのがわかりました。
完璧主義で、冷たいと噂される侯爵家の跡取り。
その実態は——
雷がとても、ものすごく、超絶に苦手な人だったのです。
「……ライネル様」
私はそっと、彼の肩に手を置きました。
彼の身体がびくりと反応するのがわかる。でも、拒絶されなかった。
「怖い時は、誰かに頼ってもいいんですよ」
ただ、それだけを伝えたくて。
すると、彼はしばらく黙った後、かすかに口元を緩めました。
「……君は、変なやつだな」
ほんの一瞬。
けれど確かに、その瞳に笑みが宿りました。
それは、今まで一度も見たことのない、彼の“素顔”でした。
その夜、やがて雷は止み、空には星が静かに瞬いていました。
冷えた空気を胸いっぱいに吸い込みながら、私は中庭の片隅で、空を見上げていました。深く澄んだ夜空に、雨の名残がまだ残っている。
誰もいないはずの静かな庭で、ふと——
「……セレナ」
背後から、静かな声が聞こえました。
振り返ると、ライネル様が立っていました。
整えられた衣服のまま、少しだけ戸惑ったような表情を浮かべて。
「今日は……ありがとう」
「え?」
「雷の夜、君がいてくれて、助かった」
「……ライネル様」
私はそっと、彼を見つめました。
ライネル様は、少し視線を伏せてから、言いました。
「君は、僕の弱さを知ってしまった。だから……もう君を遠ざけるべきなのかもしれない」
「そんなの、違います!」
思わず、声が大きくなっていました。
「弱さを知ったからこそ、もっと近くにいたいって思ったんです」
強がりでも、完璧でもなくていい。ただ、素直な気持ちを受け取ってほしいと思った。
「……君は、本当に変なやつだな」
そう言って、彼は——また、少しだけ笑いました。
その笑顔は、前よりもほんの少し、温かさを帯びていて。
胸の奥に、ぽっと火が灯ったように、私はそっと目を細めました。
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