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第10章:結婚式前夜、あなたがいなくなった
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「ライネル様がいない!?」
その知らせは、ちょうど花嫁衣裳の最終確認を終えた頃、屋敷に突如として吹き込んだ冷たい風のようでした。
使用人が慌てて駆け込んできた瞬間、空気が凍りつき、誰もが動きを止めました。
書き置きも、置き土産も、何ひとつ残っていない。
彼の私室は整然としたままで、しかしそこに彼の気配だけがぽっかりと抜け落ちていたのです。
馬車も一台、厩から消えていました。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
「まさか……逃げた?」
誰かの呟きが、空気を裂きました。
その瞬間、胸の奥に火がついたように私は立ち上がりました。
「違います。そんな人じゃありません!」
震える声を押さえ込むように叫んで、私はスカートの裾を掴みながら屋敷を飛び出しました。
振り返る暇もなく、ただ風の中を駆けてゆきます。
空は灰色に沈み、ぽつ、ぽつ、と冷たい滴が頬に落ちました。
すぐにそれは本降りとなり、やがて、空の怒りのような雷鳴が響き渡ります。
ゴロゴロ……バリバリッ!
「……お願い、どこにいるの……!」
雨に濡れた石畳の上を走りながら、何度も何度も、心の中で名前を呼びました。
ライネル様、どうか、無事でいて——。
思い出せ、彼が好きだった場所を。
彼が、静かに息をつける場所を。
屋敷の裏庭。私たちがハーブを摘んだあの場所。
書庫。彼が幼い頃の記録を探していた、静かな空間。
温室。雷が鳴った夜、彼が震える私の手を握ってくれた場所。
どこにも、いない——。
私は立ち止まり、雨に打たれながら、必死に次の候補を探します。
そのとき、ふと、あの場所が頭に浮かびました。
街の外れにある、古い聖堂。
ひと気のない、でもどこか懐かしい、あの静かな場所——。
びしょ濡れになりながら、私は聖堂の前にたどり着きました。
石造りの大きな扉の前に、ひとつの人影がありました。
肩を濡らしながら、じっと動かずに立ち尽くしているその背中。
間違えるはずがありません。
「……ライネル様!」
声を振り絞ると、その人影がゆっくりと振り返りました。
「……やっぱり君は、来たんだな」
その声は、どこかほっとしたようで、それでいて覚悟の滲む落ち着いたもの。
見上げたその顔には、怯えた少年の面影はありませんでした。
すべてを受け入れようとする、大人の眼差しでした。
「どうして、こんなところに……」
濡れた髪を払いながら問いかけると、彼は静かに答えました。
「……怖かったんだ。結婚式が近づくにつれて、君を失うのが」
「失う……?」
私は、息をのむように聞き返しました。
「君は、僕にとって初めての“光”だった。……だから、怖くなったんだ。こんな僕と結婚して、幸せになれるのかって。君を巻き込んでいいのか、わからなくなった」
雨の音が、まるで私たちの間の静寂を守るように降り続けていました。
それでも、私は迷いなく歩み寄り、そっと彼の手を握りました。
「……ライネル様」
温度を失ったその手に、私のぬくもりを重ねながら言いました。
「私は、あなたと一緒にいたいです。雷の夜も、雨の日も、晴れた朝も——ずっと」
彼の瞳が、ほんの少しだけ揺れました。
「……セレナ」
「あなたが逃げても、私は追いかけます。何度でも。だって……あなたが好きだから」
「……君は、本当に変なやつだな」
濡れた頬に、かすかに笑みが浮かびました。
その笑顔が、何よりも嬉しくて、私はきゅっと彼の手を握り返しました。
聖堂の中に入ると、蝋燭の柔らかな光が揺れていました。
静謐な空間に、雨音と雷鳴だけが遠く響きます。
そしてその中で、ライネル様は静かに膝をつきました。
「セレナ。君がいてくれたから、僕はもう逃げない。……結婚してくれ」
その真っ直ぐな言葉が、胸にまっすぐ届きました。
雷がまた一度鳴り響いたけれど、彼の肩はもう震えていませんでした。
私は、そっと頷きました。
「政略結婚なんて関係ない。私はあなたと、ちゃんと恋をして、ちゃんと愛したいの」
ぽろぽろと、涙が頬を伝いました。
それは悲しみではなく、喜びと、安堵と、深い愛しさの涙でした。
聖堂の鐘が、遠く高らかに鳴り響きました。
まるで、ふたりの新しい未来を祝福するかのように——。
私は彼の手を取り、微笑みました。
これは、政略から始まったけれど——
ちゃんと恋になった、幸せな結婚の物語。
そして、ようやく始まったばかりの、ふたりの本当の物語です。
その知らせは、ちょうど花嫁衣裳の最終確認を終えた頃、屋敷に突如として吹き込んだ冷たい風のようでした。
使用人が慌てて駆け込んできた瞬間、空気が凍りつき、誰もが動きを止めました。
書き置きも、置き土産も、何ひとつ残っていない。
彼の私室は整然としたままで、しかしそこに彼の気配だけがぽっかりと抜け落ちていたのです。
馬車も一台、厩から消えていました。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
「まさか……逃げた?」
誰かの呟きが、空気を裂きました。
その瞬間、胸の奥に火がついたように私は立ち上がりました。
「違います。そんな人じゃありません!」
震える声を押さえ込むように叫んで、私はスカートの裾を掴みながら屋敷を飛び出しました。
振り返る暇もなく、ただ風の中を駆けてゆきます。
空は灰色に沈み、ぽつ、ぽつ、と冷たい滴が頬に落ちました。
すぐにそれは本降りとなり、やがて、空の怒りのような雷鳴が響き渡ります。
ゴロゴロ……バリバリッ!
「……お願い、どこにいるの……!」
雨に濡れた石畳の上を走りながら、何度も何度も、心の中で名前を呼びました。
ライネル様、どうか、無事でいて——。
思い出せ、彼が好きだった場所を。
彼が、静かに息をつける場所を。
屋敷の裏庭。私たちがハーブを摘んだあの場所。
書庫。彼が幼い頃の記録を探していた、静かな空間。
温室。雷が鳴った夜、彼が震える私の手を握ってくれた場所。
どこにも、いない——。
私は立ち止まり、雨に打たれながら、必死に次の候補を探します。
そのとき、ふと、あの場所が頭に浮かびました。
街の外れにある、古い聖堂。
ひと気のない、でもどこか懐かしい、あの静かな場所——。
びしょ濡れになりながら、私は聖堂の前にたどり着きました。
石造りの大きな扉の前に、ひとつの人影がありました。
肩を濡らしながら、じっと動かずに立ち尽くしているその背中。
間違えるはずがありません。
「……ライネル様!」
声を振り絞ると、その人影がゆっくりと振り返りました。
「……やっぱり君は、来たんだな」
その声は、どこかほっとしたようで、それでいて覚悟の滲む落ち着いたもの。
見上げたその顔には、怯えた少年の面影はありませんでした。
すべてを受け入れようとする、大人の眼差しでした。
「どうして、こんなところに……」
濡れた髪を払いながら問いかけると、彼は静かに答えました。
「……怖かったんだ。結婚式が近づくにつれて、君を失うのが」
「失う……?」
私は、息をのむように聞き返しました。
「君は、僕にとって初めての“光”だった。……だから、怖くなったんだ。こんな僕と結婚して、幸せになれるのかって。君を巻き込んでいいのか、わからなくなった」
雨の音が、まるで私たちの間の静寂を守るように降り続けていました。
それでも、私は迷いなく歩み寄り、そっと彼の手を握りました。
「……ライネル様」
温度を失ったその手に、私のぬくもりを重ねながら言いました。
「私は、あなたと一緒にいたいです。雷の夜も、雨の日も、晴れた朝も——ずっと」
彼の瞳が、ほんの少しだけ揺れました。
「……セレナ」
「あなたが逃げても、私は追いかけます。何度でも。だって……あなたが好きだから」
「……君は、本当に変なやつだな」
濡れた頬に、かすかに笑みが浮かびました。
その笑顔が、何よりも嬉しくて、私はきゅっと彼の手を握り返しました。
聖堂の中に入ると、蝋燭の柔らかな光が揺れていました。
静謐な空間に、雨音と雷鳴だけが遠く響きます。
そしてその中で、ライネル様は静かに膝をつきました。
「セレナ。君がいてくれたから、僕はもう逃げない。……結婚してくれ」
その真っ直ぐな言葉が、胸にまっすぐ届きました。
雷がまた一度鳴り響いたけれど、彼の肩はもう震えていませんでした。
私は、そっと頷きました。
「政略結婚なんて関係ない。私はあなたと、ちゃんと恋をして、ちゃんと愛したいの」
ぽろぽろと、涙が頬を伝いました。
それは悲しみではなく、喜びと、安堵と、深い愛しさの涙でした。
聖堂の鐘が、遠く高らかに鳴り響きました。
まるで、ふたりの新しい未来を祝福するかのように——。
私は彼の手を取り、微笑みました。
これは、政略から始まったけれど——
ちゃんと恋になった、幸せな結婚の物語。
そして、ようやく始まったばかりの、ふたりの本当の物語です。
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