私はただの女官だったけれど、王に囲われて困ります。

朝日みらい

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第1章 甘い声は、罠のように

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 夜の執務室という場所は、本来なら静寂を愛するはずです。

 ですが、うちの王さま――レオナルト陛下だけは違いました。
 彼はまるで夜こそが本番だと言わんばかりに、日が沈んでからの仕事量が倍増するのです。
 嘆息しつつ資料を差し出す私の横顔に、陛下の視線が留まった気がしました。

「君の声を聞くと、落ち着く」

 突然、そんなことを言われて、ペンを取り落としそうになりました。

「……え?」
「いや、本当だよ。文字ばかり見ていると目も頭も疲れる。君の声は――いいな」

 落ち着くように? ほっとするように?
 そう……そんな優しさの音色で囁かれてしまっては。

 心臓が、一拍早く跳ねました。

 だけど、私はすぐに気を取り直します。
 この方は――女を甘やかすことにかけて、王国内右に出る者はいないと評判の方なのですから。

「お言葉ですが、陛下。お仕事に集中なさってくださいませ」
「ふふ、厳しいな。君に叱られると嬉しい」

「……叱ってなどいません」

 口では否定しましたが、内心、言葉選びの一つひとつが危うく聞こえて仕方ありませんでした。
 まるで――誘惑のように。

 けれど、そんな錯覚に陥るほうが危ないのです。  
 この王は“誰にでも優しい人”だと、私は知っているのですから。





 明かり取りの窓の外、王宮の庭園が金の月光を湛えていました。
 寄る風に揺れるカーテン。香り立つ夜の白百合。  
 仕事中に視線を向けてはいけないとわかっていても、私はつい視線を逸らしたくなります。

 あのひとが微笑む時、室内の空気がやわらぐのです。
 笑みに混じる香水の香りが、砂糖より甘く、でもどこか危うい。

「今夜は月が綺麗だね」

 また、そんな穏やかな声を出されてしまえば――。

「陛下、いまは案件の処理中です」

「月も案件のうちに入らないのかい?」

「入りません」

 きっぱりと言い切りましたが、陛下は笑って喉の奥をくすぐるような声を響かせました。
 どうして、そういう笑い方をなさるのでしょう。

 ほんの少し前まで、涙が出るほど忙しい政務に追われていたというのに。
 それなのに彼は、どんなに多忙でも常に柔らかい余裕を漂わせています。
 庶民の娘がうっかり心を寄せてしまうのも、無理のないことかもしれません。

(……私は違う。私は、特別ではない)

 そう心の中で繰り返し唱えます。  
 自分を律する呪文のように。





「ねえ、エレノア」

 名前を呼ばれるたび、心臓が軽く跳ねます。  
 思わず顔を上げると、彼はこちらに身体を寄せてきました。

「呼ばれただけでそんな顔をするのは、反則だろう?」

「顔など、していません」

「してるよ。僕の前で、そんな顔をされたら――仕事に集中できない」

 近い。  
 あまりにも距離が近い。

 机を挟んでいるにもかかわらず、今にも手が届いてしまいそうで。  
 その指が、私の髪に触れた寸前――彼は微笑んで、手を引きました。

「冗談だよ。……ごめん」

 囁き方がずるい。やわらかくて、誠実そうで、まるで罪を感じているように。

 だけど知っている。  
 あれも“演技”のひとつ――そう、社交で磨かれた微笑み。

 けれど、それでも。  
 胸が痛いほどに、どこかを掴まれてしまうのです。

 本当の顔を知らないはずなのに、嘘の声に救われてしまう夜もある。  
 そんな自分が情けなくて、私はただ視線を落としました。





 夜が更けていくごとに、執務室の空気は甘く濃くなっていきます。  
 月光が机の上の白紙を照らすたび、彼の横顔も淡く輝きました。

 黙っているのに、何かを語る人。  
 見るだけで、目を逸らせなくなる人。

 ――それが、レオナルト陛下でした。

「君は、僕のことをどう思っている?」

 突然、そんな質問をされて、心臓が跳ね上がりました。

「……どう、とは」

「たとえばそうだな。優しすぎる、と思ったことは?」

「優しすぎる、というか……お優しいのは陛下のご性格でしょう」

「そう。だとしたら、君にも優しくしてしまうのは……仕方ないよね?」

 その瞬間、机の上に握る手が微かに震えました。

 仕方ない――?
 まるでそれが“罪”だと知っているかのように聞こえて、  
 私はうまく息ができなくなりました。

 陛下のまなざしが、真っすぐに私を射抜きます。

「君の声が落ち着く。君の笑顔が好きだ。  
 そんなことを言うと、また叱られるだろうか」

「……叱られるのをわかっていて仰るのですね」

「うん。叱られたいのかもしれない」

「……本当に、悪趣味でいらっしゃる」

 苦笑を滲ませながら、私は筆を走らせました。
 けれど、心のどこかが熱を帯びている。  
 彼が楽しげに笑うたび、少しだけ救われる。

 ――それがいちばん、怖いと思いました。





 その夜の終わり、書類の山がようやく片付いた頃です。  
 私は控えめに一礼し、退出の言葉を口にしました。

「陛下。本日のご案件はこれで以上です。お疲れさまでした」

「ありがとう。毎晩遅くまで、申し訳ないね」

「お役目ですから」

「それでも。……もう少しだけ、ここにいてくれないか?」

「……え?」

「この静けさが、好きなんだ。  
 君がいる静けさは、騒がしい夜会より、ずっと心地いい」

 思わず返事を忘れました。  
 それは、求愛とも取れる言葉だったからです。

 でも、彼は何事もなかったかのように椅子を立ち、私の方へ歩み寄りました。
 まっすぐに。  
 逃げ場を探す間さえ与えない歩幅で。

 歩み寄るたびに響く靴音が、胸の奥を叩くようで、
 ただ一つの音になって鼓膜を占めました。

「君の髪は、光を受けると少し赤みが差すね。  
 それを見ていると、不思議と落ち着くんだ」

「陛下……仕事の疲れが溜まっているのでは?」

「そうかもね。……癒してくれないかな?」

 ――冗談でしょうか。

「私にできるのは、熱冷ましをお持ちするくらいです」

「それもいいけどね」

 彼はそう言って、わずかに手を伸ばしかけましたが、  
 あと一歩のところでその指先を止めました。

「怖がらせたくない。君には」

「恐れなど、感じておりません」

「そう言われると、ますます確かめたくなるんだけどね」

 探るような視線。  
 囁く声は深く甘く、夜の果実をかじったよう。

 今宵もまた、罠が仕掛けられた。





 翌朝。
 私の耳には、まだあの声が残っていました。

「君の声を聞くと、落ち着く――」

 鏡の前で自分の頬に触れると、熱が残っている気がする。  
 眠れなかったせいでしょう。それとも……。

「いけない、気持ちを切り替えましょう」

 言い聞かせるように呟いて、私は髪を結い上げました。  
 王の玩具になる気はない――そう心に誓って。

 けれど、鏡の中の自分は、ほんの少しだけ頬を染めていて。  
 まるで、あの人の声がまだ心に残っているようで。
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