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第1章 甘い声は、罠のように
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夜の執務室という場所は、本来なら静寂を愛するはずです。
ですが、うちの王さま――レオナルト陛下だけは違いました。
彼はまるで夜こそが本番だと言わんばかりに、日が沈んでからの仕事量が倍増するのです。
嘆息しつつ資料を差し出す私の横顔に、陛下の視線が留まった気がしました。
「君の声を聞くと、落ち着く」
突然、そんなことを言われて、ペンを取り落としそうになりました。
「……え?」
「いや、本当だよ。文字ばかり見ていると目も頭も疲れる。君の声は――いいな」
落ち着くように? ほっとするように?
そう……そんな優しさの音色で囁かれてしまっては。
心臓が、一拍早く跳ねました。
だけど、私はすぐに気を取り直します。
この方は――女を甘やかすことにかけて、王国内右に出る者はいないと評判の方なのですから。
「お言葉ですが、陛下。お仕事に集中なさってくださいませ」
「ふふ、厳しいな。君に叱られると嬉しい」
「……叱ってなどいません」
口では否定しましたが、内心、言葉選びの一つひとつが危うく聞こえて仕方ありませんでした。
まるで――誘惑のように。
けれど、そんな錯覚に陥るほうが危ないのです。
この王は“誰にでも優しい人”だと、私は知っているのですから。
◆
明かり取りの窓の外、王宮の庭園が金の月光を湛えていました。
寄る風に揺れるカーテン。香り立つ夜の白百合。
仕事中に視線を向けてはいけないとわかっていても、私はつい視線を逸らしたくなります。
あのひとが微笑む時、室内の空気がやわらぐのです。
笑みに混じる香水の香りが、砂糖より甘く、でもどこか危うい。
「今夜は月が綺麗だね」
また、そんな穏やかな声を出されてしまえば――。
「陛下、いまは案件の処理中です」
「月も案件のうちに入らないのかい?」
「入りません」
きっぱりと言い切りましたが、陛下は笑って喉の奥をくすぐるような声を響かせました。
どうして、そういう笑い方をなさるのでしょう。
ほんの少し前まで、涙が出るほど忙しい政務に追われていたというのに。
それなのに彼は、どんなに多忙でも常に柔らかい余裕を漂わせています。
庶民の娘がうっかり心を寄せてしまうのも、無理のないことかもしれません。
(……私は違う。私は、特別ではない)
そう心の中で繰り返し唱えます。
自分を律する呪文のように。
◆
「ねえ、エレノア」
名前を呼ばれるたび、心臓が軽く跳ねます。
思わず顔を上げると、彼はこちらに身体を寄せてきました。
「呼ばれただけでそんな顔をするのは、反則だろう?」
「顔など、していません」
「してるよ。僕の前で、そんな顔をされたら――仕事に集中できない」
近い。
あまりにも距離が近い。
机を挟んでいるにもかかわらず、今にも手が届いてしまいそうで。
その指が、私の髪に触れた寸前――彼は微笑んで、手を引きました。
「冗談だよ。……ごめん」
囁き方がずるい。やわらかくて、誠実そうで、まるで罪を感じているように。
だけど知っている。
あれも“演技”のひとつ――そう、社交で磨かれた微笑み。
けれど、それでも。
胸が痛いほどに、どこかを掴まれてしまうのです。
本当の顔を知らないはずなのに、嘘の声に救われてしまう夜もある。
そんな自分が情けなくて、私はただ視線を落としました。
◆
夜が更けていくごとに、執務室の空気は甘く濃くなっていきます。
月光が机の上の白紙を照らすたび、彼の横顔も淡く輝きました。
黙っているのに、何かを語る人。
見るだけで、目を逸らせなくなる人。
――それが、レオナルト陛下でした。
「君は、僕のことをどう思っている?」
突然、そんな質問をされて、心臓が跳ね上がりました。
「……どう、とは」
「たとえばそうだな。優しすぎる、と思ったことは?」
「優しすぎる、というか……お優しいのは陛下のご性格でしょう」
「そう。だとしたら、君にも優しくしてしまうのは……仕方ないよね?」
その瞬間、机の上に握る手が微かに震えました。
仕方ない――?
まるでそれが“罪”だと知っているかのように聞こえて、
私はうまく息ができなくなりました。
陛下のまなざしが、真っすぐに私を射抜きます。
「君の声が落ち着く。君の笑顔が好きだ。
そんなことを言うと、また叱られるだろうか」
「……叱られるのをわかっていて仰るのですね」
「うん。叱られたいのかもしれない」
「……本当に、悪趣味でいらっしゃる」
苦笑を滲ませながら、私は筆を走らせました。
けれど、心のどこかが熱を帯びている。
彼が楽しげに笑うたび、少しだけ救われる。
――それがいちばん、怖いと思いました。
◆
その夜の終わり、書類の山がようやく片付いた頃です。
私は控えめに一礼し、退出の言葉を口にしました。
「陛下。本日のご案件はこれで以上です。お疲れさまでした」
「ありがとう。毎晩遅くまで、申し訳ないね」
「お役目ですから」
「それでも。……もう少しだけ、ここにいてくれないか?」
「……え?」
「この静けさが、好きなんだ。
君がいる静けさは、騒がしい夜会より、ずっと心地いい」
思わず返事を忘れました。
それは、求愛とも取れる言葉だったからです。
でも、彼は何事もなかったかのように椅子を立ち、私の方へ歩み寄りました。
まっすぐに。
逃げ場を探す間さえ与えない歩幅で。
歩み寄るたびに響く靴音が、胸の奥を叩くようで、
ただ一つの音になって鼓膜を占めました。
「君の髪は、光を受けると少し赤みが差すね。
それを見ていると、不思議と落ち着くんだ」
「陛下……仕事の疲れが溜まっているのでは?」
「そうかもね。……癒してくれないかな?」
――冗談でしょうか。
「私にできるのは、熱冷ましをお持ちするくらいです」
「それもいいけどね」
彼はそう言って、わずかに手を伸ばしかけましたが、
あと一歩のところでその指先を止めました。
「怖がらせたくない。君には」
「恐れなど、感じておりません」
「そう言われると、ますます確かめたくなるんだけどね」
探るような視線。
囁く声は深く甘く、夜の果実をかじったよう。
今宵もまた、罠が仕掛けられた。
◆
翌朝。
私の耳には、まだあの声が残っていました。
「君の声を聞くと、落ち着く――」
鏡の前で自分の頬に触れると、熱が残っている気がする。
眠れなかったせいでしょう。それとも……。
「いけない、気持ちを切り替えましょう」
言い聞かせるように呟いて、私は髪を結い上げました。
王の玩具になる気はない――そう心に誓って。
けれど、鏡の中の自分は、ほんの少しだけ頬を染めていて。
まるで、あの人の声がまだ心に残っているようで。
ですが、うちの王さま――レオナルト陛下だけは違いました。
彼はまるで夜こそが本番だと言わんばかりに、日が沈んでからの仕事量が倍増するのです。
嘆息しつつ資料を差し出す私の横顔に、陛下の視線が留まった気がしました。
「君の声を聞くと、落ち着く」
突然、そんなことを言われて、ペンを取り落としそうになりました。
「……え?」
「いや、本当だよ。文字ばかり見ていると目も頭も疲れる。君の声は――いいな」
落ち着くように? ほっとするように?
そう……そんな優しさの音色で囁かれてしまっては。
心臓が、一拍早く跳ねました。
だけど、私はすぐに気を取り直します。
この方は――女を甘やかすことにかけて、王国内右に出る者はいないと評判の方なのですから。
「お言葉ですが、陛下。お仕事に集中なさってくださいませ」
「ふふ、厳しいな。君に叱られると嬉しい」
「……叱ってなどいません」
口では否定しましたが、内心、言葉選びの一つひとつが危うく聞こえて仕方ありませんでした。
まるで――誘惑のように。
けれど、そんな錯覚に陥るほうが危ないのです。
この王は“誰にでも優しい人”だと、私は知っているのですから。
◆
明かり取りの窓の外、王宮の庭園が金の月光を湛えていました。
寄る風に揺れるカーテン。香り立つ夜の白百合。
仕事中に視線を向けてはいけないとわかっていても、私はつい視線を逸らしたくなります。
あのひとが微笑む時、室内の空気がやわらぐのです。
笑みに混じる香水の香りが、砂糖より甘く、でもどこか危うい。
「今夜は月が綺麗だね」
また、そんな穏やかな声を出されてしまえば――。
「陛下、いまは案件の処理中です」
「月も案件のうちに入らないのかい?」
「入りません」
きっぱりと言い切りましたが、陛下は笑って喉の奥をくすぐるような声を響かせました。
どうして、そういう笑い方をなさるのでしょう。
ほんの少し前まで、涙が出るほど忙しい政務に追われていたというのに。
それなのに彼は、どんなに多忙でも常に柔らかい余裕を漂わせています。
庶民の娘がうっかり心を寄せてしまうのも、無理のないことかもしれません。
(……私は違う。私は、特別ではない)
そう心の中で繰り返し唱えます。
自分を律する呪文のように。
◆
「ねえ、エレノア」
名前を呼ばれるたび、心臓が軽く跳ねます。
思わず顔を上げると、彼はこちらに身体を寄せてきました。
「呼ばれただけでそんな顔をするのは、反則だろう?」
「顔など、していません」
「してるよ。僕の前で、そんな顔をされたら――仕事に集中できない」
近い。
あまりにも距離が近い。
机を挟んでいるにもかかわらず、今にも手が届いてしまいそうで。
その指が、私の髪に触れた寸前――彼は微笑んで、手を引きました。
「冗談だよ。……ごめん」
囁き方がずるい。やわらかくて、誠実そうで、まるで罪を感じているように。
だけど知っている。
あれも“演技”のひとつ――そう、社交で磨かれた微笑み。
けれど、それでも。
胸が痛いほどに、どこかを掴まれてしまうのです。
本当の顔を知らないはずなのに、嘘の声に救われてしまう夜もある。
そんな自分が情けなくて、私はただ視線を落としました。
◆
夜が更けていくごとに、執務室の空気は甘く濃くなっていきます。
月光が机の上の白紙を照らすたび、彼の横顔も淡く輝きました。
黙っているのに、何かを語る人。
見るだけで、目を逸らせなくなる人。
――それが、レオナルト陛下でした。
「君は、僕のことをどう思っている?」
突然、そんな質問をされて、心臓が跳ね上がりました。
「……どう、とは」
「たとえばそうだな。優しすぎる、と思ったことは?」
「優しすぎる、というか……お優しいのは陛下のご性格でしょう」
「そう。だとしたら、君にも優しくしてしまうのは……仕方ないよね?」
その瞬間、机の上に握る手が微かに震えました。
仕方ない――?
まるでそれが“罪”だと知っているかのように聞こえて、
私はうまく息ができなくなりました。
陛下のまなざしが、真っすぐに私を射抜きます。
「君の声が落ち着く。君の笑顔が好きだ。
そんなことを言うと、また叱られるだろうか」
「……叱られるのをわかっていて仰るのですね」
「うん。叱られたいのかもしれない」
「……本当に、悪趣味でいらっしゃる」
苦笑を滲ませながら、私は筆を走らせました。
けれど、心のどこかが熱を帯びている。
彼が楽しげに笑うたび、少しだけ救われる。
――それがいちばん、怖いと思いました。
◆
その夜の終わり、書類の山がようやく片付いた頃です。
私は控えめに一礼し、退出の言葉を口にしました。
「陛下。本日のご案件はこれで以上です。お疲れさまでした」
「ありがとう。毎晩遅くまで、申し訳ないね」
「お役目ですから」
「それでも。……もう少しだけ、ここにいてくれないか?」
「……え?」
「この静けさが、好きなんだ。
君がいる静けさは、騒がしい夜会より、ずっと心地いい」
思わず返事を忘れました。
それは、求愛とも取れる言葉だったからです。
でも、彼は何事もなかったかのように椅子を立ち、私の方へ歩み寄りました。
まっすぐに。
逃げ場を探す間さえ与えない歩幅で。
歩み寄るたびに響く靴音が、胸の奥を叩くようで、
ただ一つの音になって鼓膜を占めました。
「君の髪は、光を受けると少し赤みが差すね。
それを見ていると、不思議と落ち着くんだ」
「陛下……仕事の疲れが溜まっているのでは?」
「そうかもね。……癒してくれないかな?」
――冗談でしょうか。
「私にできるのは、熱冷ましをお持ちするくらいです」
「それもいいけどね」
彼はそう言って、わずかに手を伸ばしかけましたが、
あと一歩のところでその指先を止めました。
「怖がらせたくない。君には」
「恐れなど、感じておりません」
「そう言われると、ますます確かめたくなるんだけどね」
探るような視線。
囁く声は深く甘く、夜の果実をかじったよう。
今宵もまた、罠が仕掛けられた。
◆
翌朝。
私の耳には、まだあの声が残っていました。
「君の声を聞くと、落ち着く――」
鏡の前で自分の頬に触れると、熱が残っている気がする。
眠れなかったせいでしょう。それとも……。
「いけない、気持ちを切り替えましょう」
言い聞かせるように呟いて、私は髪を結い上げました。
王の玩具になる気はない――そう心に誓って。
けれど、鏡の中の自分は、ほんの少しだけ頬を染めていて。
まるで、あの人の声がまだ心に残っているようで。
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