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第2章 ずるい王
王の優しさは、時に毒になる。
そう気づいたのは、仕えて三ヵ月を過ぎたころでした。
──それは、最初に陛下から「ありがとう」と微笑まれた時のこと。
あの笑顔を見た者が皆、同じ錯覚をするのです。
“もしかして”と。
その“もしかして”が、どれほど危険で無意味な幻か。
私はまだ、身をもって学び始めたばかりでした。
◆
例によって、朝から王宮はざわざわとしています。
昨晩の祝宴で、また陛下が十人以上のご令嬢とお話しされたのだとか。
「エレノア様、聞きました? 陛下、あの美貌でダンスを十回以上も!」
「えぇ……お疲れにならなければよいのだけど」
同僚の若い女官が頬を染めてはしゃぐ横で、私は微笑むしかありませんでした。
王が誰にでも優しいのは、もう宮中の常識。
恋をして痛い目を見る女の子も少なくないのです。
(……陛下が優しいのは王としての責務。感情ではない)
そう理屈で理解しているはずなのに。
胸の奥が、どうしてこんなに痛むのでしょう。
冷静になりたいのに、夜になると勝手に思い出してしまうのです。
あの人が低い声で囁いた、「君の声を聞くと落ち着く」という言葉を。
……ほんとうに、罪な王さまです。
◆
午前の執務が終わると、今日は社交行事の補佐に呼ばれました。
貴族たちが陛下に謁見する日。つまり、“王に近づくための競技会”のようなものです。
大広間に立つ陛下は、ただそこにいるだけで光の焦点でした。
柔らかな金の髪、深い蒼玉の瞳。まっすぐに笑う唇。
その笑顔一つで、貴族の令嬢たちは次々に胸を押さえて倒れそうになっています。
中には、わざとハンカチを落として拾ってもらおうとする子まで。
――拾わせてしまう陛下が、一番危険なのですが。
「ごきげんよう、殿下……ではなく、陛下。お変わりなく?」
「ええ。セレナ嬢も変わらずお美しいね」
「まあ……お上手なんですから」
その柔らかい声音を、私は背後で聞きながらひたすら冷静を装いました。
(あれは外交です。外交……)
けれど、セレナ嬢が恍惚のため息を漏らすのを見てしまえば、胃がきゅっと痛くなります。
そんな私を察した同僚のミリアが、ひそひそと囁きました。
「ねぇ、エレノア様、なんだか顔がこわばってます」
「気のせいです……ほら、式次はまだ続きますから集中しましょう」
「私には、ジェラシーって文字が見えますけど?」
「……ミリア」
「すびばせんっ!」
冗談めかして舌を出すミリアに、私は苦笑します。
人目が多い場所で動揺を見せるのは絶対に禁物。
王に仕える者として、そして女官長代理としての矜持がそれを許しません。
◆
昼過ぎ、ようやく行事が終わりました。
ほっと息をつく間もなく、陛下が退室の際に振り返り――私のほうへ視線を逸らせずにいました。
「エレノア、少し疲れただろう。今夜の執務は無理をしないように」
名前を、あの声で呼ばれると。
世界が一瞬だけ、静かになるのです。
返事をしなくてはいけないのに、喉が上手く動かない。
代わりに軽く頭を下げると、陛下はふっと微笑んで歩き去りました。
「……あの笑み、ずるいです」
小さく呟いた私の隣で、ミリアが大きくうなずきました。
「ねぇ、やっぱりエレノア様。王様にちょっと、落とされかけてません?」
「ミリア」
「だってあんな目で見られたら、誰だって……」
「仕える身です。恋など、ありえません」
ありえないのだと、声にして言わないと、心が持たないのです。
◆
その夜、私は王室文書の整理を命じられて執務室へ。
陛下は執務机に肘をつきながら、書類を読み込んでいました。
「ああ、助かる。エレノア、そこに並べてくれるか」
「はい」
近づくと、机越しに差し出された手がほんの少し、私の指先を掠めました。
それは偶然か、それとも――。
「失礼しました」
「……いや。優しい手だ」
「な、何をおっしゃいますの」
いけません。頬が勝手に熱くなります。
彼は軽く笑っただけで、再び書類に目を落としましたが、
その横顔には、ほんの僅かに“愉しんでいる”色が見て取れました。
(またこれです。女慣れした王の、計算された仕草……)
わかっているのに、心臓は止まりません。
距離が近づくたび、彼の香水と体温がちぐはぐに混ざって、頭がぼうっとしてしまいます。
「陛下、もしかして……そのようにして、皆さまにも優しくしておられるのですか?」
「“そのように”とは?」
「……距離、です。こうして、近くに立たれること」
「近いほうが、よく見えると思ってね」
「見える、とは?」
「君の瞳に、僕が映っているかどうか」
ずるい言葉でした。
反射的に一歩下がると、彼は目を細め、軽く手を上げました。
「冗談だよ。そんな顔をしないで」
「陛下の冗談は心臓に悪うございます」
「知ってる。だからやめられないんだ」
「……本当に、罪な方です」
呆れたように言うと、彼は静かに笑い、手を伸ばして私の髪先を一束だけ掬いました。
「罪だとしても、君にだけは赦してもらいたい」
「……っ!」
声が、出ません。
髪に触れる指が、静かに離れていく。その音まで聞こえた気がしました。
◆
執務が終わり、外はもうすっかり夜。
王宮の窓辺に白い月が浮かび、風にカーテンが揺れています。
「今日はありがとう。……少し話そうか?」
「お話、ですか?」
「社交界の噂のことだよ。僕が“女癖が悪い王”だとか、“女官まで口説く”だとか」
「っ! なぜそのような話を……」
「気にしている顔をしていたから」
「……気にしてなど」
否定しかけた私の言葉を、彼は軽く遮りました。
「本当は、誰にでも優しくなんかしていない。
ただ、僕が優しくしないと国が回らないだけさ。
女官にも貴族にも。誰か一人を特別扱いした瞬間、争いが生まれてしまう」
「そう……でございますね」
「でも、もし特別にしたくなったら――どうしようか?」
「……陛下」
彼の瞳は、ほんの少し陰を落としていました。
冗談のように聞こえて、冗談ではない。
頭では理解したはずなのに、心が追いつきません。
「僕が本心で誰かを想う時、それは政治ではなくなってしまう。だから、恐れているんだ」
それは一瞬、王ではなく一人の男性の顔でした。
その真摯な声に、喉の奥がつまります。
慰めの言葉すら、軽く感じてしまいそうで、私はただ静かに頭を下げました。
「……どうか、無理をなさらずに」
「ありがとう。君は、優しいね」
再び脈打つ声。その響きに体が反応する。
彼はそっと伸ばした手で、私の頬に触れかけて――途中で止めました。
「また、叱られるから」
「……叱ります。何度でも」
「そう言ってくれると、安心するよ」
溶けそうに微笑む顔を、見ていられなくなって私は深く礼をしました。
「おやすみなさいませ、陛下」
「おやすみ、僕の――……いや。おやすみ、エレノア」
危うい言葉を呑み込んで、それでも優しさだけが残りました。
◆
部屋に戻ったあとも、心はざわざわとして眠れませんでした。
窓の外では夜風が走り、カーテンが揺れています。
(女慣れした王、ですか……)
そう自嘲混じりに呟いて、私は布団に潜り込みました。
けれど目を閉じた瞬間に思い出すのです。
金の髪。蒼い瞳。あの指先。
そして、夜の静けさに溶けていく声。
“もし特別にしたくなったら――どうしようか?”
――ずるい人。陛下は、ずるすぎます。
そう気づいたのは、仕えて三ヵ月を過ぎたころでした。
──それは、最初に陛下から「ありがとう」と微笑まれた時のこと。
あの笑顔を見た者が皆、同じ錯覚をするのです。
“もしかして”と。
その“もしかして”が、どれほど危険で無意味な幻か。
私はまだ、身をもって学び始めたばかりでした。
◆
例によって、朝から王宮はざわざわとしています。
昨晩の祝宴で、また陛下が十人以上のご令嬢とお話しされたのだとか。
「エレノア様、聞きました? 陛下、あの美貌でダンスを十回以上も!」
「えぇ……お疲れにならなければよいのだけど」
同僚の若い女官が頬を染めてはしゃぐ横で、私は微笑むしかありませんでした。
王が誰にでも優しいのは、もう宮中の常識。
恋をして痛い目を見る女の子も少なくないのです。
(……陛下が優しいのは王としての責務。感情ではない)
そう理屈で理解しているはずなのに。
胸の奥が、どうしてこんなに痛むのでしょう。
冷静になりたいのに、夜になると勝手に思い出してしまうのです。
あの人が低い声で囁いた、「君の声を聞くと落ち着く」という言葉を。
……ほんとうに、罪な王さまです。
◆
午前の執務が終わると、今日は社交行事の補佐に呼ばれました。
貴族たちが陛下に謁見する日。つまり、“王に近づくための競技会”のようなものです。
大広間に立つ陛下は、ただそこにいるだけで光の焦点でした。
柔らかな金の髪、深い蒼玉の瞳。まっすぐに笑う唇。
その笑顔一つで、貴族の令嬢たちは次々に胸を押さえて倒れそうになっています。
中には、わざとハンカチを落として拾ってもらおうとする子まで。
――拾わせてしまう陛下が、一番危険なのですが。
「ごきげんよう、殿下……ではなく、陛下。お変わりなく?」
「ええ。セレナ嬢も変わらずお美しいね」
「まあ……お上手なんですから」
その柔らかい声音を、私は背後で聞きながらひたすら冷静を装いました。
(あれは外交です。外交……)
けれど、セレナ嬢が恍惚のため息を漏らすのを見てしまえば、胃がきゅっと痛くなります。
そんな私を察した同僚のミリアが、ひそひそと囁きました。
「ねぇ、エレノア様、なんだか顔がこわばってます」
「気のせいです……ほら、式次はまだ続きますから集中しましょう」
「私には、ジェラシーって文字が見えますけど?」
「……ミリア」
「すびばせんっ!」
冗談めかして舌を出すミリアに、私は苦笑します。
人目が多い場所で動揺を見せるのは絶対に禁物。
王に仕える者として、そして女官長代理としての矜持がそれを許しません。
◆
昼過ぎ、ようやく行事が終わりました。
ほっと息をつく間もなく、陛下が退室の際に振り返り――私のほうへ視線を逸らせずにいました。
「エレノア、少し疲れただろう。今夜の執務は無理をしないように」
名前を、あの声で呼ばれると。
世界が一瞬だけ、静かになるのです。
返事をしなくてはいけないのに、喉が上手く動かない。
代わりに軽く頭を下げると、陛下はふっと微笑んで歩き去りました。
「……あの笑み、ずるいです」
小さく呟いた私の隣で、ミリアが大きくうなずきました。
「ねぇ、やっぱりエレノア様。王様にちょっと、落とされかけてません?」
「ミリア」
「だってあんな目で見られたら、誰だって……」
「仕える身です。恋など、ありえません」
ありえないのだと、声にして言わないと、心が持たないのです。
◆
その夜、私は王室文書の整理を命じられて執務室へ。
陛下は執務机に肘をつきながら、書類を読み込んでいました。
「ああ、助かる。エレノア、そこに並べてくれるか」
「はい」
近づくと、机越しに差し出された手がほんの少し、私の指先を掠めました。
それは偶然か、それとも――。
「失礼しました」
「……いや。優しい手だ」
「な、何をおっしゃいますの」
いけません。頬が勝手に熱くなります。
彼は軽く笑っただけで、再び書類に目を落としましたが、
その横顔には、ほんの僅かに“愉しんでいる”色が見て取れました。
(またこれです。女慣れした王の、計算された仕草……)
わかっているのに、心臓は止まりません。
距離が近づくたび、彼の香水と体温がちぐはぐに混ざって、頭がぼうっとしてしまいます。
「陛下、もしかして……そのようにして、皆さまにも優しくしておられるのですか?」
「“そのように”とは?」
「……距離、です。こうして、近くに立たれること」
「近いほうが、よく見えると思ってね」
「見える、とは?」
「君の瞳に、僕が映っているかどうか」
ずるい言葉でした。
反射的に一歩下がると、彼は目を細め、軽く手を上げました。
「冗談だよ。そんな顔をしないで」
「陛下の冗談は心臓に悪うございます」
「知ってる。だからやめられないんだ」
「……本当に、罪な方です」
呆れたように言うと、彼は静かに笑い、手を伸ばして私の髪先を一束だけ掬いました。
「罪だとしても、君にだけは赦してもらいたい」
「……っ!」
声が、出ません。
髪に触れる指が、静かに離れていく。その音まで聞こえた気がしました。
◆
執務が終わり、外はもうすっかり夜。
王宮の窓辺に白い月が浮かび、風にカーテンが揺れています。
「今日はありがとう。……少し話そうか?」
「お話、ですか?」
「社交界の噂のことだよ。僕が“女癖が悪い王”だとか、“女官まで口説く”だとか」
「っ! なぜそのような話を……」
「気にしている顔をしていたから」
「……気にしてなど」
否定しかけた私の言葉を、彼は軽く遮りました。
「本当は、誰にでも優しくなんかしていない。
ただ、僕が優しくしないと国が回らないだけさ。
女官にも貴族にも。誰か一人を特別扱いした瞬間、争いが生まれてしまう」
「そう……でございますね」
「でも、もし特別にしたくなったら――どうしようか?」
「……陛下」
彼の瞳は、ほんの少し陰を落としていました。
冗談のように聞こえて、冗談ではない。
頭では理解したはずなのに、心が追いつきません。
「僕が本心で誰かを想う時、それは政治ではなくなってしまう。だから、恐れているんだ」
それは一瞬、王ではなく一人の男性の顔でした。
その真摯な声に、喉の奥がつまります。
慰めの言葉すら、軽く感じてしまいそうで、私はただ静かに頭を下げました。
「……どうか、無理をなさらずに」
「ありがとう。君は、優しいね」
再び脈打つ声。その響きに体が反応する。
彼はそっと伸ばした手で、私の頬に触れかけて――途中で止めました。
「また、叱られるから」
「……叱ります。何度でも」
「そう言ってくれると、安心するよ」
溶けそうに微笑む顔を、見ていられなくなって私は深く礼をしました。
「おやすみなさいませ、陛下」
「おやすみ、僕の――……いや。おやすみ、エレノア」
危うい言葉を呑み込んで、それでも優しさだけが残りました。
◆
部屋に戻ったあとも、心はざわざわとして眠れませんでした。
窓の外では夜風が走り、カーテンが揺れています。
(女慣れした王、ですか……)
そう自嘲混じりに呟いて、私は布団に潜り込みました。
けれど目を閉じた瞬間に思い出すのです。
金の髪。蒼い瞳。あの指先。
そして、夜の静けさに溶けていく声。
“もし特別にしたくなったら――どうしようか?”
――ずるい人。陛下は、ずるすぎます。
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