【完結】私はただの女官だったけれど、王に囲われて困ります。

朝日みらい

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第6章 辞職願い

 執務室の扉の前に立つと、呼吸がうまくできなくなりました。  
 この扉の向こうから、あの穏やかな声が聴こえるはずです。

 でも、その声を聞けばきっと……。  
 わたしは決意を揺らしてしまうでしょう。

 だって、あの人は“優しさで心を縛るひと”だから。

 扉を軽く叩くと、即座に低い声が返ってきました。

「入って」

「失礼いたします。……おはようございます、陛下」

 振り返った陛下の目が、朝日に照らされて蒼く煌めきました。

「おはよう、エレノア。今日も早いね」

 いつもと同じ調子。いつもの微笑み。  
 なのに、今日はその笑みが胸を痛くさせました。

 ほんの少しだけ黙ってから、私は封筒を差し出しました。

「……陛下。ご報告がございます」

「報告?」

「はい。こちらを――お受け取りくださいませ」

 封筒を差し出す指先が震えていたのを、悟られなかったでしょうか。  
 陛下はゆっくりとそれを受け取り、視線を落としました。

 数秒。  
 静寂が、まるで硝子のように張り詰めていました。

「……辞職願、か」

 その言葉を告げた声は、驚くほど穏やかでした。  
 怒りでもなく、嘆きでもなく、ただ淡々と、事実をなぞるように。

「はい。長らくお仕えしてまいりましたが、  
 私のような者が王の傍にいる資格はございません」

「資格、ね」

 彼は軽く笑いました。  
 けれど、その笑みの色はどこかで違っていました。

「理由は、それだけ?」

「……はい」

「君が“そうしたい”と思うと」

「はい」

「……そうか」

 静かに、彼は立ち上がりました。  
 柔らかな金の髪の影が、差し込む光に照らされて床を流れます。

「そう言うと思っていたよ」

「……陛下?」

「君は、真面目だからね。  
 誰かを気にして、責任を全部背負って、  
 自分の心を殺してでも正そうとする」

「私は、ただ――」

「セレナ・ルヴァールのことだろう?」

「……っ!」

 思わず顔を上げました。  
 レオナルト陛下の瞳が、まるで心を透かすように真っ直ぐ私を見つめています。

「昨日の宴のあと、すぐ報告を受けたよ。  
 彼女が君に何を言ったかも、だいたいわかってる」

「……お気になさらず。彼女の言葉は、正しいです。  
 陛下には、もっと相応しい方が――」

「違うね」

 その言葉を、彼が切り捨てるように言いました。

「“相応しい”とか“立場”とか、君はすぐそうやって壁を作る。  
 君は僕を人として見てくれない。――王としてしか見ない」

「それが、私の役目だからです」

「違う」

 短く、鋭い音のような言葉。  
 彼の瞳が、光を失っていくのが見えました。

 静まり返った室内。  
 書類の上を吹き抜けた風が、一枚の紙をひらりと床に落とします。

「……ねえ、エレノア」

 その呼び方が、異様なほど優しかった。  
 次の瞬間、背筋を冷たいものが這い上がる。

「君は、僕の許可なく“去れる”と思ってる?」

「――……え?」

「辞めるのは、王の承認があって初めて成立する。忘れていた?」

「あ……いえ、それは……」

「書類は、預かっておく」

 そう言うと、彼は封筒を指でつまみ――机の上にゆっくり置いた。  
 まるで“動くな”とでも言うように、その手が一ミリも揺れない。

「……陛下?」

「他に言いたいことはある?」

「いえ……」

「そう」

 彼は微笑んだ。  
 光の下で、あまりに綺麗な笑顔を見せる。けれど――その目だけが笑っていなかった。

「――なら、今日はもう下がりなさい」

「……?」

「君が何を考えたのかは、今日一日でよくわかる」

 そう言われ、私は小さく一礼して部屋を出ました。  
 扉が閉じた瞬間、背中に冷たく粘つくような空気がまとわりついた気がしました。





 廊下に出てから、息をつく。  
 胸がどくどくと脈を打っていました。

(……あの人、笑っていたのに)

 なにかが、違っていた。  
 声も、笑みも、まるで“王”ではなく、“何か別の存在”のようで。

「……怖かった」

 初めてそんな言葉を口にしてしまいました。  
 でもその一方で、妙な安心もあったのです。

 ――あの人は、怒ってはいなかった。  
 だから、ちゃんと理解してくれたのではないかと。

(今夜、話を聞いてくださるかもしれない)

 そう思いながら歩を進めると、同僚のミリアが駆け寄ってきました。

「エレノア様! ああ、よかった。陛下にお止めされませんでしたか?」

「ええ……」

「陛下、すごく怖い顔してたって噂ですよ。  
 侍従頭が震えていました!」

「……そう、でしたか」

「でも、きっとお寂しいんですよ! エレノア様がいなくなるなんて」

「冗談を言わないでちょうだい。たくさん女官はいます」

「でも、エレノア様みたいな“無言の癒し系”は貴重ですから!」

「どういう評価なの、それ……」

 思わず顔を押さえると、  
 ミリアは明るく笑いながら、けれど心配そうにわたしを見ました。

「本当に……大丈夫ですか?」

「大丈夫よ」

 大丈夫――その言葉が、どれほど嘘くさく響いたか自分でもわかっていました。





 日が暮れ、王宮の灯がともり始めたころ。  
 いつもなら執務終わりに呼ばれる時間になっても、声はかかりませんでした。

(……やっぱり、終わりなのね)

 そう思いながら部屋の窓を閉めようとした時。

 ――コン、コン。

 扉を叩く音がしました。

「どなたですか?」

「僕だ」

 その声に、心臓が止まりそうになった。

「陛下……?」

「入っても?」

「……はい」

 扉が開かれる。  
 柔らかい金髪が光を拾い、深い蒼がこちらを捉える。

 いつもより、ずっと静かな陛下。  
 手には、わたしの辞表がありました。

「仕事の続きを、持ってきた」

「……辞表の、ですか?」

「そう。結論を出したくて」  
 少し笑う顔に、痛みのような影が差していました。

 彼は部屋に入ると、そのまま机に封筒を置いた。  
 そして、ゆっくりと私のそばに歩み寄ります。

「君がこの書類に込めた思いは、わかった。  
 でも、僕からも“回答”を書かなければいけない」

「……回答?」

「こう書き足したよ――“却下”って」

 思わず、息を飲みました。  
 それは、穏やかに微笑いながら人を逃さない微笑だった。

「……あの、陛下。冗談で――」

「冗談だと思う?」

 顔が、近い。  
 低い声が、耳もとで触れた。

「君を手放すくらいなら、王位なんて要らない」

「……そんな」

「去る? 僕の許可なく?」

 その瞬間。  
 空気が、音を立てて崩れ落ちる気がしました。

 彼はゆっくり顔を上げ、真っ直ぐに見つめる。  
 その目が、初めて“王ではない男”の色をしていた。

「……エレノア」

「……はい」

「君は、僕の心を奪っておきながら、それを置いていく気か?」

「……!」

「笑って言えたらよかったのに。  
 でも、もう笑えない。君がいない場所では、息すら重い」

 囁かれるたび、胸が痛いのに震えてしまう。  
 あの優しさが、今はまるで牢獄のように感じられました。

「分をわきまえているつもりなら、僕も同じだよ。  
 “王”としての理性は、今日で終わりだ」

 彼の手が頬に触れる――けれど、それは求めるではなく、確かめるように。  
 熱でも怒りでもなく、あまりにも静かな執着。

「逃げようとしても、国中探してでも見つける。君は逃げられない」

 それは脅しではなく、誓いの響きでした。

 言葉を失ったまま、彼の指がそっと私の髪を撫でます。

「怖がらなくていい。檻は、きっと君が思うより柔らかい」

 離れていく指先を目で追うと、彼は微笑み、扉に向かいます。

「明日も、執務室で」

「……陛下」

「君がどんな顔をしていても、僕は構わない。  
 それを全部、この手で塗り替えるだけだ」

 扉が静かに閉じました。  
 後に残った空気は、まだ彼の熱を帯びていて。  
 怖いのに、どこか安心してしまう自分が、一番恐ろしかったのです。
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