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第11章 罠
王宮に、ひそやかな風が流れはじめたのは、ほんの数日前のことでした。
いつもどおりに仕事をこなし、陛下のお側で報告書を整理していたその時。
部屋の外を歩く侍女たちが、わざとらしく笑いを忍ばせて通り過ぎたのです。
「……聞いた?」
「ねぇ、あの話、ほんとなの?」
「まさか、王が……」
ひそひそ、ひそひそと。
風のように掠れるその声の中に、明確に“陛下”と“女官”という単語が混じっていました。
(これは……)
胸の奥が冷たくなる。
噂――そうとしか思えません。けれど、誰がどこで広げたのか。
わかってしまうほど、あまりに露骨でした。
その夜。
レオナルト陛下は、何も変わらず穏やかに書類をめくっておられました。
いつも通りの優しい微笑み。
それがかえって、胸を締めつけました。
「陛下。……お耳に入っておりますか?」
勇気をふりしぼって問うと、彼は微笑したまま頷きました。
「ああ。聞いているよ。ずいぶん暇な人たちがいるものだ」
「……放っておかれてよろしいのですか?」
「うん。“放っておく”という選択も、処罰の一つだよ」
声の調子が、ふっと低くなりました。
たったそれだけで、室内の空気がわずかに震えた気がしました。
何もしていないのに、氷のように冷える――そんな沈黙。
「……エレノア」
「はい」
「君は何も気にしなくていい。君が僕の隣にいること、それが事実だ」
その一言に、すべてがこもっていました。
だからこそ不安になったのです。
陛下がこれほど静かなとき、一度たりとも“何もしていなかった”ことはない。
あの夜――辞職を申し出たわたしに、「去る?」と微笑んだ時と同じ気配でした。
(陛下……何を、考えておられるの)
◆
翌日から、王宮の空気が変質していきます。
どこを歩いても、誰もが言葉を濁し、視線を逸らした。
まるで罠にかける準備が整いつつあるような息苦しさ。
「エレノア様、最近どうなさったんです? 少し……お顔の色が」
心配してくれるのは、いつものミリアだけでした。
それが、どれほど心強かったことか。
「平気です。少し寝不足かもしれません」
「寝不足って! 王様が“あんなに”甘やかしてるのに? うらやましい……」
「ミリア!」
「す、すみません! でも本当、あの方、溺愛が国を覆ってません?」
「……そんなこと、ないと思います」
「絶対ある。いっそ家具の配置から脈絡まで“愛してる”って文脈で変わってますもん。
――ほら、壁の花瓶とか」
「……あれは特注の、王国紋章の……」
「違うんですって。花の配置が“エレノア様の瞳の色と同じ”ですよ!」
「……え」
思わず、言葉を失ってしまいました。
ミリアはさらに両手を合わせて、こっそり囁きます。
「陛下、ほんとに恐ろしいまでにマメです。
いっそ怖いくらい、ですよ?」
「……でしょうね」
乾いた笑みを浮かべました。
怖い、という感情が肯定されてしまうことが、何より怖かった。
◆
その日の午後。
侍従から呼ばれ、私は執務室へ向かいました。
扉を開けると、そこには陛下だけでなく、近侍長と宰相、それに――セレナ嬢がいました。
「……ご無沙汰しております、エレノア様」
涼やかな声。
その唇に宿るのは、勝者の笑みのように見えました。
「陛下、失礼ながら。その“女官”が、どうやら陛下と――」
「やめなさい、セレナ嬢」
陛下の声は、信じられないほど穏やかでした。
怒号もなく、静かなまま。
けれどその静けさが、彼女の言葉を無慈悲に切り裂いていく。
「では、今の発言は嘘ということでいいんだね?」
「わ、私が申し上げたのは、皆が……!」
「“皆”とは具体的に誰?」
にっこりと笑って、レオナルト陛下が問いました。
その笑みが一瞬で血の気を奪う。
氷のように冷たいのに、美しすぎて、逆らえない。
「し、証拠も……ございます……!」
「そう。なら、三日後に“証拠”を持ってきなさい」
「……っ!?」
「場所は王城の東広間。貴族議員全員の前で発表する。
虚偽だった場合、どうなるか――それは教えなくてもわかるね?」
セレナ嬢の顔から、音を立てて血の色が引いていきました。
けれどもう、引き返せない。彼女は自ら王に“闘い”を挑んだのです。
そのやり取りを見つめながら、私は掌をぎゅっと握り締めていました。
彼が笑っている。――なのにその笑顔は恐ろしくて。
……この人を本気で怒らせたら、どうなるのだろう。
◆
その夜。
私は私室――“王の檻”で机に向かい、筆を取っていました。
(このままでいいのかしら)
胸の奥で何度も反響する問い。
レオナルト陛下が守ってくれるのはわかる。
でも、その“守る”が、誰かを壊してしまうのではないか。
思考の途中で、扉がノックされました。
「入っていい?」
質問ではなく、確認。
扉が開けば、この人はもう止まらない。
案の定、レオナルト陛下は迷いのない足取りで入ってきました。
「また働いているのか。君という人は」
「……嫌な予感がするんです。今日の件、陛下は何を――」
「何も。事実を確かめるだけだ」
「でも、セレナ様は……」
「彼女が何を言おうと関係ない。君を傷つけた時点で、もう赦されない」
それは、宣告でした。
冷たくも完璧で、揺らぎのない声。
「陛下。
彼女にも立場があります。家の名も……」
「家を盾にするなら、家ごと沈める」
「っ……」
「エレノア。“君が不安になる要素はすべて消す”、そう言っただろう?
僕の言葉を、疑う?」
「……疑っていません。けれど、怖いんです」
「僕が怖い?」
「……はい」
素直に頷いた瞬間、陛下が一歩近づいて、ふっと笑いました。
「そう言ってくれるほうが、嬉しい。
だってその“怖い”は、僕のことしか見ていない目だから」
「もう……そうやって笑わないでください」
「笑うのをやめたら、国ごと泣くよ」
その冗談に、思わず吹き出してしまった。
すぐに彼が、笑った。
「だから、もう少しだけ信じて。
三日後、すべてを“終わらせる”」
「“終わらせる”……?」
「そう。君を嘲る声も、誤解も、そして――虚飾の女たちも」
微笑の裏に、光が宿る。
その輝きは慈悲ではなく、冷徹な正義の色。
「……怖いほど優しい人ですよ、陛下」
「怖くていい。僕の優しさは、君にしか届かないから」
そう言って、彼は撫でるように髪を掬い、小さく一言。
「当日、怖くなったら、この手を握って。――誰も邪魔をするなと命じるから」
指が触れあい、まるで契約のように熱が交わりました。
もう、逃げられない。
いつもどおりに仕事をこなし、陛下のお側で報告書を整理していたその時。
部屋の外を歩く侍女たちが、わざとらしく笑いを忍ばせて通り過ぎたのです。
「……聞いた?」
「ねぇ、あの話、ほんとなの?」
「まさか、王が……」
ひそひそ、ひそひそと。
風のように掠れるその声の中に、明確に“陛下”と“女官”という単語が混じっていました。
(これは……)
胸の奥が冷たくなる。
噂――そうとしか思えません。けれど、誰がどこで広げたのか。
わかってしまうほど、あまりに露骨でした。
その夜。
レオナルト陛下は、何も変わらず穏やかに書類をめくっておられました。
いつも通りの優しい微笑み。
それがかえって、胸を締めつけました。
「陛下。……お耳に入っておりますか?」
勇気をふりしぼって問うと、彼は微笑したまま頷きました。
「ああ。聞いているよ。ずいぶん暇な人たちがいるものだ」
「……放っておかれてよろしいのですか?」
「うん。“放っておく”という選択も、処罰の一つだよ」
声の調子が、ふっと低くなりました。
たったそれだけで、室内の空気がわずかに震えた気がしました。
何もしていないのに、氷のように冷える――そんな沈黙。
「……エレノア」
「はい」
「君は何も気にしなくていい。君が僕の隣にいること、それが事実だ」
その一言に、すべてがこもっていました。
だからこそ不安になったのです。
陛下がこれほど静かなとき、一度たりとも“何もしていなかった”ことはない。
あの夜――辞職を申し出たわたしに、「去る?」と微笑んだ時と同じ気配でした。
(陛下……何を、考えておられるの)
◆
翌日から、王宮の空気が変質していきます。
どこを歩いても、誰もが言葉を濁し、視線を逸らした。
まるで罠にかける準備が整いつつあるような息苦しさ。
「エレノア様、最近どうなさったんです? 少し……お顔の色が」
心配してくれるのは、いつものミリアだけでした。
それが、どれほど心強かったことか。
「平気です。少し寝不足かもしれません」
「寝不足って! 王様が“あんなに”甘やかしてるのに? うらやましい……」
「ミリア!」
「す、すみません! でも本当、あの方、溺愛が国を覆ってません?」
「……そんなこと、ないと思います」
「絶対ある。いっそ家具の配置から脈絡まで“愛してる”って文脈で変わってますもん。
――ほら、壁の花瓶とか」
「……あれは特注の、王国紋章の……」
「違うんですって。花の配置が“エレノア様の瞳の色と同じ”ですよ!」
「……え」
思わず、言葉を失ってしまいました。
ミリアはさらに両手を合わせて、こっそり囁きます。
「陛下、ほんとに恐ろしいまでにマメです。
いっそ怖いくらい、ですよ?」
「……でしょうね」
乾いた笑みを浮かべました。
怖い、という感情が肯定されてしまうことが、何より怖かった。
◆
その日の午後。
侍従から呼ばれ、私は執務室へ向かいました。
扉を開けると、そこには陛下だけでなく、近侍長と宰相、それに――セレナ嬢がいました。
「……ご無沙汰しております、エレノア様」
涼やかな声。
その唇に宿るのは、勝者の笑みのように見えました。
「陛下、失礼ながら。その“女官”が、どうやら陛下と――」
「やめなさい、セレナ嬢」
陛下の声は、信じられないほど穏やかでした。
怒号もなく、静かなまま。
けれどその静けさが、彼女の言葉を無慈悲に切り裂いていく。
「では、今の発言は嘘ということでいいんだね?」
「わ、私が申し上げたのは、皆が……!」
「“皆”とは具体的に誰?」
にっこりと笑って、レオナルト陛下が問いました。
その笑みが一瞬で血の気を奪う。
氷のように冷たいのに、美しすぎて、逆らえない。
「し、証拠も……ございます……!」
「そう。なら、三日後に“証拠”を持ってきなさい」
「……っ!?」
「場所は王城の東広間。貴族議員全員の前で発表する。
虚偽だった場合、どうなるか――それは教えなくてもわかるね?」
セレナ嬢の顔から、音を立てて血の色が引いていきました。
けれどもう、引き返せない。彼女は自ら王に“闘い”を挑んだのです。
そのやり取りを見つめながら、私は掌をぎゅっと握り締めていました。
彼が笑っている。――なのにその笑顔は恐ろしくて。
……この人を本気で怒らせたら、どうなるのだろう。
◆
その夜。
私は私室――“王の檻”で机に向かい、筆を取っていました。
(このままでいいのかしら)
胸の奥で何度も反響する問い。
レオナルト陛下が守ってくれるのはわかる。
でも、その“守る”が、誰かを壊してしまうのではないか。
思考の途中で、扉がノックされました。
「入っていい?」
質問ではなく、確認。
扉が開けば、この人はもう止まらない。
案の定、レオナルト陛下は迷いのない足取りで入ってきました。
「また働いているのか。君という人は」
「……嫌な予感がするんです。今日の件、陛下は何を――」
「何も。事実を確かめるだけだ」
「でも、セレナ様は……」
「彼女が何を言おうと関係ない。君を傷つけた時点で、もう赦されない」
それは、宣告でした。
冷たくも完璧で、揺らぎのない声。
「陛下。
彼女にも立場があります。家の名も……」
「家を盾にするなら、家ごと沈める」
「っ……」
「エレノア。“君が不安になる要素はすべて消す”、そう言っただろう?
僕の言葉を、疑う?」
「……疑っていません。けれど、怖いんです」
「僕が怖い?」
「……はい」
素直に頷いた瞬間、陛下が一歩近づいて、ふっと笑いました。
「そう言ってくれるほうが、嬉しい。
だってその“怖い”は、僕のことしか見ていない目だから」
「もう……そうやって笑わないでください」
「笑うのをやめたら、国ごと泣くよ」
その冗談に、思わず吹き出してしまった。
すぐに彼が、笑った。
「だから、もう少しだけ信じて。
三日後、すべてを“終わらせる”」
「“終わらせる”……?」
「そう。君を嘲る声も、誤解も、そして――虚飾の女たちも」
微笑の裏に、光が宿る。
その輝きは慈悲ではなく、冷徹な正義の色。
「……怖いほど優しい人ですよ、陛下」
「怖くていい。僕の優しさは、君にしか届かないから」
そう言って、彼は撫でるように髪を掬い、小さく一言。
「当日、怖くなったら、この手を握って。――誰も邪魔をするなと命じるから」
指が触れあい、まるで契約のように熱が交わりました。
もう、逃げられない。
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