【完結】私はただの女官だったけれど、王に囲われて困ります。

朝日みらい

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第16章 夜の誓い

 その夜は、不思議なくらい静かでした。  
 いつもなら遅くまで賑わう城下の灯までもが、早めに息を潜めているように見えます。

 窓を開けると、夜気がひやりと頬を撫でました。  
 薄く垂れたカーテンが風に揺れ、淡い月明かりが床に模様を描く。  
 その光の上で、私はひとり机に向かっていました。

 書面の束。覚えのある書体。  
 今日、陛下が署名したばかりの王命文の控えです。

「エレノア・ハウエルを王室直属の執務顧問とし、政に関する全ての報告を受け付ける権限を委ねる」

 ――あの宣言から、ほんの数時間。  
 私はまだ、自分がそこに立っていたのが夢だったような気がしています。

(生涯をかけて守る女性、なんて。あの人、本当に……)

 指が自然と震えて、ペン先に小さな黒点を作ってしまう。  
 それを見て、ため息のような微笑がこぼれました。

 ――扉が、そっと叩かれます。

「入っていい?」

 声だけで誰かわかりました。  
 静かな夜、更けゆく世界で、その声だけが現実の熱を持って響く。  

「……お疲れ様です、陛下」

「まだ“陛下”って呼ぶの?」  
 やわらかな笑みを含めた声。  
「せめて夜くらいは、名前で呼んでほしいな。ねえ、レオナルトって」  

(どうして、この人はそうやって――簡単に距離を詰めてくるの。)

 口の中で名前を転がしてみる。  
 喉の奥が熱くなり、どうしても声に出せなかった。

「……どうかされましたか?」

「うん。何も。君がこの部屋にいる気配がして、つい来てしまっただけ」

 それだけを言いながら、彼はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。  
 黄金の髪が月の光を集めて、柔らかく輝いています。  
 昼間とは違う。王の衣ではなく、簡素な室内服。  
 それでも息を呑むほど整った姿。

「仕事は、もう終わった?」

「ええ。報告書もまとめました。今日は……早く片づけたくて」

「そっか。君、焦ってたよね。今日は本当にいろいろあったし……」

「……そうですね」

 言葉を選びながら、できるだけ穏やかに返しました。  
 けれど、心の奥は落ち着きません。  
 あの大勢の前で――私の名が呼ばれた、それだけで頭の中が真っ白になったのです。

「ねえ、エレノア」

 呼ばれ名がこんなにも綺麗に響くなんて。

「今日の君、すごく綺麗だった」  
「……そんなこと、ありません」  
「あるよ。堂々としてた。僕が誇らしかった。怒られてもいいから、あの場で抱きしめたかった」  
「だ、抱きしめるなんて、あの場でそんな――!」

「ほら、真っ赤になった」  
 レオナルト様が楽しそうに笑う。  
 軽やかな音。けれど、その笑みの奥には“手に入れた者の安堵”があって――危ういほど甘い。

「ねえ、君。僕の世界を、どう見てた?」

「……世界を?」

「玉座の上に立つ僕も、君の生活も、同じ世界にちゃんとあるのかな、って」  

「……陛下」

「レオナルト」

 また、その名前。  
 まるで私の口から引き出してほしいような響き。  
 息が喉で絡まって、逃げ場所をなくす。  

「……レオナルト、様」

「うん。やっと名前で呼んでくれたね」

 彼の顔がふわりとほころぶ。  
 嬉しそうに目を細めて、私のもとへ近づき、そっと手を取った。  

 指先が熱い。  
 触れあうだけで、こんなに心が乱れるなんて。  

「冷たいね、君の手。こっちはあんなに頑張ってたのに」

「頑張っていたのは、陛――あなたのほうです」  

「ううん。僕の頑張りの理由はいつも君だからね」

 何でもないみたいに言われて、心臓が暴れた。  
 少しでも離れようと後ずさると、彼の手が追いかけてくる。  
 まるで見えない糸が、二人の指を結び直したかのように。

「エレノア、」  
 低く、囁く声。  
「君が息をするたびに、僕は生きてると思うんだ」  

 その言葉は、昼間よりもずっと静かで――ずっと強い。  

 近い。  
 肩と肩が触れる。  
 胸元に触れる息の温度が、火のように熱い。  

「……それは、言い過ぎです」  
「僕は、いつも言い過ぎてるよ」  
 そう言いながら、彼の手がそっと頬を撫でた。  
 大きな掌が、指の腹で私の涙腺の下をなぞる。  

「君が泣くのは、僕のせい?」  
「違います」  
「じゃあ、どうして泣きそうなの?」  

「……あなたの言葉が、あまりにも優しくて」  
「それ、僕にとって一番の褒め言葉だね」

 微笑が零れ、胸が震えた。  
 彼の手が髪に滑り込み、ゆっくりとすくい上げる。  
 そして、額にほんのひとつ、温もりが落ちた。

 唇が触れたのは、神聖な誓いのようでした。  
 痛みも、恐れもなかった。  
 ただ、心の奥が静かにほどけていく。  

「――誓うよ。君が息をする音を、この世界で一番大事にする」  
「……そんな、誓いなんて」  
「いいや、もうした。今日の王命の次に、これも国の決まりにすればいい」  
「ふふ、それは困ります」  
「困るくらいがいい。君が僕にしか困らないように」

 頬に触れる掌が、熱を帯びる。  
 指先がこめかみを撫で、耳の後ろをなぞってゆく。  
 ただ、それだけの触れ方なのに、鳥肌が立つほどの震えが走りました。  

「離れられないようにしてるわけじゃないよ」  
「……嘘です」  
「やっぱりバレたか」  
 苦笑とともに、彼の額がそっと重なる。  
 体温がゆっくりと混じり、二人の呼吸が同じ間隔で響く。

「レオナルト様」

「うん?」

「どうして……ここまで、私を――」

「だって僕、初めてなんだよ」  
「……え?」  
「心が手に負えないくらい、誰かを愛したのは。  
 君に出会ってから、正気と狂気の境がなくなった」

 穏やかに言う声が、どこか疲れたようで。  
 けれど、それを支えてしまいたくなるほど弱々しくて。  

「今夜だけは、王である自分を捨てたい。  
 ただの男として、君の隣で息をしたい」

「……それなら、私もただの女官として――」

「違うよ」

 囁きながら、彼の腕が私の腰をゆるく抱き寄せました。  
 ゆっくりと、確かめるように。  

「君は、僕にとって“エレノア”なんだ」  
「……名前、ですか?」  
「そう。  
 この世で最も特別な言葉を、誰に呼ばせると思う?」  

 心臓の鼓動が速くなる。  
 返事をしようとしても、喉がうまく動かない。  
 代わりに、彼の指がそっと私の唇に触れました。

「君が震えるたび、僕の世界が確かに動くんだ。  
 ほら、今も……君という世界が、僕の中で息をしてる」

 囁きながら笑う。  
 その音だけでもう、すべてが溶けそうで。  

「……苦しいです」  
「僕もだよ」  
「でも、幸せなんです」  
「僕も、同じ」

 彼の肩に額を預けると、静かな鼓動が伝わってきました。  
 二つの呼吸が重なり合い、同じリズムを刻む。  

「君が息をしてくれるたび、世界が形になる。  
 君の眠る姿で、朝が来ると知る。  
 ――君の一日が終わるたび、僕の今日も完結する」

「そんなに私を……」

「愛してるんだろうね、きっと」  
 短い答えに、涙が笑いに変わりました。  

「レオナルト様……私、もう、あなたの檻の中で、生きるって決めてしまいそうです」  
「それでいい。僕の檻は、幸福でできてる」  
「幸福の檻、ですか」  
「君の笑顔ひとつひとつで築く、最強の要塞だよ」  

「そこに、出口はあるんでしょうか」  
「出たい?」  
「……いいえ。出られないくらいで、ちょうどいいのかもしれません」

 微笑を交わして、二人で小さく息を吐きました。  
 遠く、時計の針がひとつ音を立てる。  
 王の時間も、女官の時間も、今日だけは一緒に止まっている。

「エレノア。  
 君が息をして、僕を見る限り、この世界はまだ救われてる」  
「陛下……」  
「最後に呼んでもいいよ、“陛下”って」  
「……おやすみなさいませ、陛下」  
「おやすみ。僕の――世界」

 言葉が、唇に触れて消える。  
 夜風がカーテンを揺らし、ふたりの影をひとつにまとめました。
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