【完結】 父殺しの宿敵宰相を暗殺しようと婚約したから、チャンスありありなのにその都度、動揺させられて困ります。

朝日みらい

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第五章 最初の隙と最初の躊躇

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 リディアの寝室。月の光が薄いカーテン越しに差し込み、小さなガラス瓶の中身をぼんやりと照らしていた。

 瓶の中には、薄い琥珀色の液体。ごくわずかに粘性を帯びたその雫が、グラス一杯のワインを狂わせるだけの毒を秘めている。

 彼女はそっと瓶をつまみ上げると、机の上でじっと見つめた。

(ヴァルト様が……あの日、温室で言っていた。「この根は、決して触れるな」って。あの時は――)

「……これは毒だ。だが、少量ならただの眠気を誘うだけだ。何事も、量と使い方次第だよ」

 やわらかく笑いながら、掌に載せて見せてくれた彼の姿を思い出す。あんな優しい目をしていたのに。

(その知識を、私は……命を奪うために使うの?)

 自嘲気味に笑う唇が、かすかに震えた。

 けれど――これは復讐だ。心を弄び、家を追い詰めた公爵家に報いるための、唯一の方法。

 覚悟を決めたリディアは、その晩、食卓へ向かった。

 食堂ではいつも通り、重厚な燭台が金の光を投げかけ、銀器が控えめなきらめきを放っていた。ヴァルトは既に席についており、赤いワインが静かに注がれたグラスを指で回していた。

「おや、珍しいな。今日は自らワインを?」

 リディアは笑顔を作って、グラスを差し出した。

「……公爵閣下のために選んでまいりました。とびきり“甘い”ものを」

 冗談めかした言葉に、ヴァルト・ラインハルトはひとつ目を細めて、グラスを受け取る。

「それは楽しみだ」

 そして、赤い液体を軽く傾ける。だが、そのまま口をつけず、しばしグラスの中をじっと見つめた。

「……妙だな」

「……な、何か?」

「君の手から注がれたはずのワインが、いつもより甘く感じそうな気がして。いや、気のせいか。君の瞳の色が、今夜はよほど魅力的だからかもしれないね」

 からかうような声音。けれど、その目だけは真剣だった。

 リディアの背筋が、ぞくりとした。

(……まさか、気づいてる?)

 彼は、グラスを口元に運ぶ。

 リディアの心臓が、胸を打ちすぎて痛いほどだ。やめて、飲まないで――そう叫びそうになる自分が、どこかにいた。

 そして次の瞬間、彼はふいにグラスをテーブルに戻した。

 リディアは息を呑んだ。

「……どうしたのですか?」

 なるべく無表情を装って問いかける。

 ヴァルトは、静かに彼女の方へ顔を向けた。そして、あのいつもの、少し困ったような微笑を浮かべて言った。

「……君は、何かを隠しているね」

 瞬間、リディアの指先がきゅっと力を失い、スカートの上で小さく握られた。

「な、何をおっしゃってるんですか。私はただ……ワインを……」

「そうか。なら、勘違いかもしれない」

 彼はそう言って、まるで何事もなかったかのようにパンをちぎる。

 リディアは、自分の胸の内に渦巻く感情を制御しきれなかった。あんなに覚悟を決めたのに――。

(これは最初の……“隙”。そして、私の“躊躇”)

 ヴァルトは何も言わなかった。ただ、視線だけがすべてを見抜いているようだった。

 そして夕食が終わり、リディアが退出しようと席を立つと、彼はふと声をかけた。

「……リディア。もし毒を使うのなら、やめたほうがいい」

 足が、止まった。

「理由は二つ。ひとつ、君には似合わない。もうひとつは……私が死んだら、君が泣きそうだから」

 振り向くことはできなかった。

 ただ、胸の奥が、どうしようもなく痛くて――リディアはそっと、拳を握りしめた。
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