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第四章 夜会の初舞台
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「緊張しているのか?」
柔らかな声が、肩に触れそうなほど近くから降ってきた。
宰相邸の大広間――そこはまばゆい光と香水の渦巻く、まるで絢爛たる劇場だった。天井から吊るされたクリスタルのシャンデリアが無数の光を放ち、波のようにうねる絹やベルベットのドレスが舞い踊る。
その一角で、リディアは控えめに息を吸い込んだ。緊張のあまり、うっかり指先が手袋の縫い目をちぎってしまいそうだ。
「……そりゃ、緊張くらいします。宰相閣下と並んで歩くなんて未経験です」
「なるほど。それは確かにハードルが高いな」
軽く笑うヴァルト・ラインハルトの横顔は完璧で、まったく緊張の“け”すらない。貴族たちの視線を浴びてなお涼しい顔をしているあたり、本当に心臓に毛でも生えているのではと思う。
「君は、堂々としていればいい。……今日の君は、本当に美しい」
「……からかっても、まだ手は握りませんよ」
「本気だよ」
その一言に、リディアの顔がぱっと赤くなる。が、その反応すら面白がっているようで、ヴァルトはふっと唇の端を上げた。
リディアは理解していた。この夜会は、単なるパーティではない。政略の場。今日の自分は“宰相の婚約者”として、どれだけ価値があるかを示す、言わば舞台装置。
だからこそ、彼はこの数日間、礼儀作法から舞踏会の歩き方、果ては笑い方まで完璧に仕込んできた。
(あくまで“宰相の婚約者”として……)
そう思っていたのに。
「リディア嬢、これはご挨拶を」
「お見事なお姿にて……!」
次々にやってくる貴族たちの列。リディアは頑張って笑顔を作りながら、挨拶を返していく。
けれど、その誰もが――視線をちらりと、ヴァルトに投げている。
(あの人の許可を得てからじゃないと、私に話しかけづらいということ……?)
彼の視線は常にリディアに向いていた。鋭くも穏やかで、まるで“守っている”かのように。
「ご挨拶ばかりで退屈だったら、言ってくれ。僕がつまらない貴族を遠ざけておく」
「……お得意の毒舌で?」
「もちろん。君の笑顔の数は、僕だけのものだと信じてる」
「……婚約者を“所有物”扱いするのは、ちょっと危険思想ですよ?」
「でも、今日の君は危険なほど魅力的だ。だから独占したくなる」
「……はい、すでに危険思想確定です」
思わず返したツッコミに、周囲の貴族が驚いてこちらをちらりと見る。
ヴァルトは平然と肩をすくめた。
「いいじゃないか。君のユーモアに笑うのは僕だけで十分だ」
「……本当に、この人はずるい」
胸の奥で、リディアは小さく呟いた。
そんなとき。
「踊りませんか、婚約者殿?」
ヴァルトが、掌をすっと差し出した。
「……え、いきなり?」
「今踊らずして、いつ踊る? 君の初舞台だよ」
舞踏会の中央へ導かれる。軽やかな音楽の中、彼の腕に包まれてくるくると回ると、スカートの裾が花のように舞い、まるで夢の中のようだった。
「……意外とリードが上手いんですね」
「意外と?」
「だって普段は、口ばっかり達者なので……」
「はは、それは今後の課題にさせてもらおう」
ふいに、彼がリディアの耳元に唇を寄せた。
「私にとって、君はただの婚約者ではない」
心臓が、跳ねた。
「ちょ、ちょっと、それは……反則です……」
「反則でもいい。君に、僕の本気を伝えたかった」
甘い音楽の中、彼の囁きは毒のようにリディアの胸に染み込んでいく。
(……だめ。私の目的は――復讐のはず)
そう思っても、彼の腕のぬくもりはあまりにやさしく、ほどけていく心を止めることはできなかった。
夜会の中心で、リディアは静かに気づく。
――彼にとって私は“道具”ではない。
少なくとも今この瞬間だけは、本当に“愛されている”のかもしれない。
柔らかな声が、肩に触れそうなほど近くから降ってきた。
宰相邸の大広間――そこはまばゆい光と香水の渦巻く、まるで絢爛たる劇場だった。天井から吊るされたクリスタルのシャンデリアが無数の光を放ち、波のようにうねる絹やベルベットのドレスが舞い踊る。
その一角で、リディアは控えめに息を吸い込んだ。緊張のあまり、うっかり指先が手袋の縫い目をちぎってしまいそうだ。
「……そりゃ、緊張くらいします。宰相閣下と並んで歩くなんて未経験です」
「なるほど。それは確かにハードルが高いな」
軽く笑うヴァルト・ラインハルトの横顔は完璧で、まったく緊張の“け”すらない。貴族たちの視線を浴びてなお涼しい顔をしているあたり、本当に心臓に毛でも生えているのではと思う。
「君は、堂々としていればいい。……今日の君は、本当に美しい」
「……からかっても、まだ手は握りませんよ」
「本気だよ」
その一言に、リディアの顔がぱっと赤くなる。が、その反応すら面白がっているようで、ヴァルトはふっと唇の端を上げた。
リディアは理解していた。この夜会は、単なるパーティではない。政略の場。今日の自分は“宰相の婚約者”として、どれだけ価値があるかを示す、言わば舞台装置。
だからこそ、彼はこの数日間、礼儀作法から舞踏会の歩き方、果ては笑い方まで完璧に仕込んできた。
(あくまで“宰相の婚約者”として……)
そう思っていたのに。
「リディア嬢、これはご挨拶を」
「お見事なお姿にて……!」
次々にやってくる貴族たちの列。リディアは頑張って笑顔を作りながら、挨拶を返していく。
けれど、その誰もが――視線をちらりと、ヴァルトに投げている。
(あの人の許可を得てからじゃないと、私に話しかけづらいということ……?)
彼の視線は常にリディアに向いていた。鋭くも穏やかで、まるで“守っている”かのように。
「ご挨拶ばかりで退屈だったら、言ってくれ。僕がつまらない貴族を遠ざけておく」
「……お得意の毒舌で?」
「もちろん。君の笑顔の数は、僕だけのものだと信じてる」
「……婚約者を“所有物”扱いするのは、ちょっと危険思想ですよ?」
「でも、今日の君は危険なほど魅力的だ。だから独占したくなる」
「……はい、すでに危険思想確定です」
思わず返したツッコミに、周囲の貴族が驚いてこちらをちらりと見る。
ヴァルトは平然と肩をすくめた。
「いいじゃないか。君のユーモアに笑うのは僕だけで十分だ」
「……本当に、この人はずるい」
胸の奥で、リディアは小さく呟いた。
そんなとき。
「踊りませんか、婚約者殿?」
ヴァルトが、掌をすっと差し出した。
「……え、いきなり?」
「今踊らずして、いつ踊る? 君の初舞台だよ」
舞踏会の中央へ導かれる。軽やかな音楽の中、彼の腕に包まれてくるくると回ると、スカートの裾が花のように舞い、まるで夢の中のようだった。
「……意外とリードが上手いんですね」
「意外と?」
「だって普段は、口ばっかり達者なので……」
「はは、それは今後の課題にさせてもらおう」
ふいに、彼がリディアの耳元に唇を寄せた。
「私にとって、君はただの婚約者ではない」
心臓が、跳ねた。
「ちょ、ちょっと、それは……反則です……」
「反則でもいい。君に、僕の本気を伝えたかった」
甘い音楽の中、彼の囁きは毒のようにリディアの胸に染み込んでいく。
(……だめ。私の目的は――復讐のはず)
そう思っても、彼の腕のぬくもりはあまりにやさしく、ほどけていく心を止めることはできなかった。
夜会の中心で、リディアは静かに気づく。
――彼にとって私は“道具”ではない。
少なくとも今この瞬間だけは、本当に“愛されている”のかもしれない。
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