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第七章 仮面の下の素顔
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午後の陽射しが廊下に斜めの影を落とす頃。リディアは書斎に届け物をしようと歩いていた。けれど、書斎の手前でふと足を止めた。
――隣室から、微かな音がした。
扉はわずかに開いている。誰かの吐息、紙を握り締める音。何気なく視線を滑らせたその先に――彼がいた。
「……ヴァルト……?」
彼は机に肘をつき、指先で額を押さえていた。普段の涼やかな面差しとはまるで違う。眉間には深い皺、唇はかすかに震え、目は伏せられている。
苦しそうだった。まるで、何かに耐えているような。
(こんな顔、するんだ……)
その瞬間、リディアは思わず目を逸らした。のぞいてはいけないものを見てしまった気がして、心臓がどくん、と跳ねた。
物音を立てないように静かに踵を返し、廊下を歩きながら、彼の横顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
その夜。
食後の紅茶を飲みながら、リディアはもじもじと唇を噛んだ。向かいの席に座るヴァルトは、相変わらず冷静な顔で新聞に目を通している。けれど、リディアにはわかってしまった。彼のその穏やかさは、仮面だということに。
「……ねぇ」
「ん?」
「今日、少しだけ……あなたの素顔を見ました」
「……え? 今日の顔に何かついてたかい? まさか鼻毛か?」
「そういう話じゃないです!」
慌てて紅茶を置き、リディアは少し顔を赤らめながら言った。
「……辛そうな顔、してました」
ヴァルトは新聞を畳んで、ほんの一瞬、驚いたように目を見開いた。
「見てしまったか」
「……はい」
沈黙が落ちる。けれど、嫌な空気ではなかった。彼はふっと笑い、グラスの水をゆっくり回しながら、ぽつりと呟いた。
「宰相の座は、誰かの血の上に立っている。優雅に見えて、滑稽なほど泥臭い世界だ。……私が今まで歩いてきた道には、数え切れない“敵”がいたよ」
「それでも、あなたは……」
「その敵たちの中に、君の知り合いが含まれているかもしれないな」
リディアは、手の中のスプーンをぎゅっと握りしめた。
彼は続きを語る。
「正義のふりをした人間が、どれほど醜くなるか、私はたくさん見てきた。だから、私はただ、目的のために動いてきた。けれど……結果として、誰かを失わせてしまったなら、それは、私の罪だろう」
彼の目がまっすぐリディアを見つめていた。冷たくも、優しくもない。ただ、真実を伝える目だった。
「私は、君の大切な人を殺したかもしれない。そして、そうでないかもしれない。憎まれるのも、仕事のうちだからな」
「……仕事のうち、ですか」
「もちろん、時給換算したらまったく割に合わないがね。宰相なんて、寝不足と胃痛の連続だ」
「だったら辞めたらいいのに……!」
「辞めたら君を宝石やドレスで飾り立てたり、美味い食事を好きなだけ食べさせられなくなる」
「……っ、も、もう、そういうの、ずるいですから!」
リディアは顔を真っ赤にして立ち上がった。ヴァルトはどこか楽しげに、けれど寂しそうに目を細める。
「……君に見られて、少し楽になったかもしれない。いつもは誰にも見せない素顔だから」
「……それなら、今度から毎日、見張ってあげますわ」
「それは恐ろしい提案だ。でも、歓迎するよ。君の目に映るなら、どんな仮面も剥がされそうだからな」
ふたりの間に、あたたかい空気が流れた。
そしてその夜、リディアは知ってしまった。
“父の死”さえも、ただの敵討ちでは語れない。誰もが仮面の下に、痛みと願いを隠して生きている――そのことを。
――隣室から、微かな音がした。
扉はわずかに開いている。誰かの吐息、紙を握り締める音。何気なく視線を滑らせたその先に――彼がいた。
「……ヴァルト……?」
彼は机に肘をつき、指先で額を押さえていた。普段の涼やかな面差しとはまるで違う。眉間には深い皺、唇はかすかに震え、目は伏せられている。
苦しそうだった。まるで、何かに耐えているような。
(こんな顔、するんだ……)
その瞬間、リディアは思わず目を逸らした。のぞいてはいけないものを見てしまった気がして、心臓がどくん、と跳ねた。
物音を立てないように静かに踵を返し、廊下を歩きながら、彼の横顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
その夜。
食後の紅茶を飲みながら、リディアはもじもじと唇を噛んだ。向かいの席に座るヴァルトは、相変わらず冷静な顔で新聞に目を通している。けれど、リディアにはわかってしまった。彼のその穏やかさは、仮面だということに。
「……ねぇ」
「ん?」
「今日、少しだけ……あなたの素顔を見ました」
「……え? 今日の顔に何かついてたかい? まさか鼻毛か?」
「そういう話じゃないです!」
慌てて紅茶を置き、リディアは少し顔を赤らめながら言った。
「……辛そうな顔、してました」
ヴァルトは新聞を畳んで、ほんの一瞬、驚いたように目を見開いた。
「見てしまったか」
「……はい」
沈黙が落ちる。けれど、嫌な空気ではなかった。彼はふっと笑い、グラスの水をゆっくり回しながら、ぽつりと呟いた。
「宰相の座は、誰かの血の上に立っている。優雅に見えて、滑稽なほど泥臭い世界だ。……私が今まで歩いてきた道には、数え切れない“敵”がいたよ」
「それでも、あなたは……」
「その敵たちの中に、君の知り合いが含まれているかもしれないな」
リディアは、手の中のスプーンをぎゅっと握りしめた。
彼は続きを語る。
「正義のふりをした人間が、どれほど醜くなるか、私はたくさん見てきた。だから、私はただ、目的のために動いてきた。けれど……結果として、誰かを失わせてしまったなら、それは、私の罪だろう」
彼の目がまっすぐリディアを見つめていた。冷たくも、優しくもない。ただ、真実を伝える目だった。
「私は、君の大切な人を殺したかもしれない。そして、そうでないかもしれない。憎まれるのも、仕事のうちだからな」
「……仕事のうち、ですか」
「もちろん、時給換算したらまったく割に合わないがね。宰相なんて、寝不足と胃痛の連続だ」
「だったら辞めたらいいのに……!」
「辞めたら君を宝石やドレスで飾り立てたり、美味い食事を好きなだけ食べさせられなくなる」
「……っ、も、もう、そういうの、ずるいですから!」
リディアは顔を真っ赤にして立ち上がった。ヴァルトはどこか楽しげに、けれど寂しそうに目を細める。
「……君に見られて、少し楽になったかもしれない。いつもは誰にも見せない素顔だから」
「……それなら、今度から毎日、見張ってあげますわ」
「それは恐ろしい提案だ。でも、歓迎するよ。君の目に映るなら、どんな仮面も剥がされそうだからな」
ふたりの間に、あたたかい空気が流れた。
そしてその夜、リディアは知ってしまった。
“父の死”さえも、ただの敵討ちでは語れない。誰もが仮面の下に、痛みと願いを隠して生きている――そのことを。
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