【完結】バツイチですが、今は港町で無骨な男に口説かれています。

朝日みらい

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第1章 前半 離婚、そして出国

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 離婚届に署名した瞬間、ペン先がごく小さく震えました。  
 その揺れが、まるで氷解の音のように聞こえて――ああ、ようやく終わったのだと、わたしは静かに肩の力を抜いたのです。

 長机の向こう、担当官が書類を整えて乾いた声で告げました。  
「これで正式に、あなたは自由の身ですね。ジュリア夫人」

 夫人、という響きに、胸がわずかに疼きました。  
 とはいえ、その肩書きが今日まで、わたしを縛りつけてきた鎖の名でもありました。

「ありがとうございます。……ですが、その“夫人”は、今日限りでお返しいたします」

 自分の声が思いのほか穏やかに聞こえて、少しだけ驚きました。  
 官吏は目を伏せ、書類をまとめる手を止めません。  
 その視線の先、深い青の軍服に身を包んだ男性――アベルが、ずっと黙って立っていました。  
 元夫。  
 わたしの十年を共にした人。

 厳格で、誠実で、そして――誤りなく正しい人。  
 この王国の近衛騎士として、彼は誰よりも規律を尊び、義務を全うする男でした。  
 だからこそ、わたしという“妻”にも、同じものを求めたのです。

(“ジュリア、君は立派な伯爵夫人であれ。家の名を汚すような振る舞いは許されない”。)  
(“感情で動くな。正しさを見失うな。それが妻たる者の務めだ”。)

 口癖のように繰り返されてきた言葉。  
 褒められたことよりも、諭された夜のほうが多かった気がします。  
 それでも、若かったあの頃のわたしは、彼の厳しさの向こうに愛があると信じていました。

 彼が夜明け前に訓練へ出る日は、温めたスープを冷めぬうちにと急いで運びました。  
 寒い日には手袋を編み、戦地へ赴いた仲間の噂を耳にすれば、祈り続けました。  
 ――けれど、彼は一度としてそれを喜んだ顔を見せたことはありません。

「それが妻の務めだ」と、ただそれだけ。  
 ありがとう、さえ。  
 一度だけでも言ってくれたら、それで良かったのに。

「ジュリア」

 今、目の前で久しく聞くその声。  
 過去の記憶から呼び戻された現実が、胸を締めつけました。  
 懐かしく、でも、痛い。  
 ――あぁ、本当に、もう終わるのだという実感。

「……何かご用でしょうか?」

 唇が、わずかに震えました。

「王都を出ると聞いた。治安の悪い地域もある。護衛をつけよう。危険な目に遭うのは見たくない」

 淡々とした口調。まるで職務上の報告のような言い方でした。  
 最後まで、彼らしかった。

「お気遣い、感謝いたします。でも、結構ですわ。これからは自分の身は自分で守ります」

 冷たく聞こえたかもしれません。けれどこれは、ようやくわたしが「妻」以外の言葉で自分を語るための、小さな宣言でした。

 言葉の余白に沈黙が降り、やがてアベルはわずかにうなずきました。  
「……さらばだ、ジュリア」

 わたしはふっと口角を上げました。  
 涙は――出なかった。

「どうかお元気で、アベル様」

 その最後の敬称が、どうしても外せなかった自分が、少しだけ憎らしかった。  
 けれど同時に、これが十年分の“終止符”なのだと思いました。

 重く閉められた扉。  
 その音が響き終えるまでの間に、わたしは静かに息を吐きました。

(自由って、こんなに静かなものなのね……)



 翌朝。  
 王都を囲む街道を馬車で抜けるとき、霧が立ちこめていました。  
 冷えた空の下に、街の尖塔がぼんやりと霞んで見えます。

 帰らぬ屋敷。  
 閉ざされた門と、整えられた花壇。  
 誰もいない寝室の白いシーツ。  
 そこに残されたのは、わたしの“役割”だけでした。

 ――夫人。伯爵家の妻。完璧な夫人。  
 あの呼び名の中に、わたしの名前はありませんでした。

「これからは、誰の顔色も窺わない」

 口に出してみると、まだ少し震えた声になりました。  
 まるで初めて言葉を習う子どものよう。  
 それでも、確かにこれは“わたし自身”の声。

 守るべき家も、命じる夫もいない。  
 ならば、自分を幸せにする義務くらい――自分に許しても、罰は当たらないでしょう?



 行き先は、港湾都市国家《リュシアン連邦》。  
 噂に聞けば、そこでは血筋より実力が重んじられ、貴族の姓よりも信用が通貨になるといいます。  
 海運、金融、情報が錯綜する街。さまざまな国の人々が交差し、自由の風が吹く。  
 離婚歴があっても、女性が一人で立つことを誰も咎めない――そんな、夢のような国。

(わたしが“何者かの妻”ではなく、“わたし”として生きていい場所が、本当にあるのなら)

 思うだけで胸が温かくなりました。  
 自由とは、きっと眩しくて、少し怖いものなのですね。

 膝に乗せた鞄の中には、最低限の衣服、帳簿数冊、それから――どうしても処分できなかった懐中時計がひとつ。

 開けば、裏蓋に小さく刻まれた文字。

《あなたとともに時を刻む A》

 アベルの筆跡。  
 彼がまだ“愛”を信じていた頃に贈ってくれたものでした。

「皮肉ですね、アベル様。時は刻み続けても、心は止まってしまったままですのに……」

 笑いながら、少しだけ涙が滲みました。  
 昔の自分を笑い飛ばせるほど、まだ強くはなれないけれど。  
 それでも、今のわたしは、前を向こうとしています。



 馬車が丘を越えると、視界がぱっと開けました。  
 眼下に広がるのは、陽光を受けて煌めく海。  
 潮の匂いとカモメの鳴き声。  
 遠くに白い帆船が行き交い、その向こうに、リュシアン連邦の港町の影が見えます。

「……きれい」

 思わず漏れた声が、風にさらわれていきました。  
 押し寄せる波の音。心臓の鼓動がそれに重なり、わたしは初めて息を呑むほど強く、生の実感を覚えました。

(この海の向こうに、わたしの新しい人生が待っているのね)

 その瞬間、心の奥で小さく“何か”が動いた気がしました。  
 まだ名も知らぬ誰か――運命が、潮風の中で目を覚ましたような。

 港の広場で、働く人々の喧噪の中にひときわ目を引く男がひとり。  
 黒い上衣を無造作に羽織り、腕に浮かぶ筋肉、乱暴に結ばれた髪。  
 粗野なのに、不思議と端正な気配のひと。  
 陽にきらめく銀の髪が、まるで海の光を閉じ込めたみたいに見えました。

 彼――レオンハルト・ヴァルクと、わたしが初めて出会う、ほんの少し前のことです。
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