【完結】王妃未満の彼女と小さな竜

朝日みらい

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第1章 亀を召喚した令嬢

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 あの時のことは、今でもはっきりと覚えています。

 お日さまの光が眩しい春の午下がりでした。王都の学舎で行われる“使い魔召喚の儀”。貴族の子女にとっては一大行事で、将来を左右するほどの意味を持つ、そう教えられて育ってきました。

 魔法陣を描くわたしの手は、緊張で震えていました。
 周囲ではすでに同級生たちが歓声を上げています。「火の精霊だわ!」「きゃあ、グリフォンよ!」なんて。
 その輪の中で、わたし――エルナ・シャル・フェルディナントはただ静かに息を整えました。

(焦っちゃだめ。わたしらしく、丁寧に……)

 白亜の召喚広場に魔法陣が輝きを帯びていきます。
 わたしの声が響く。

「偉大なる契約の守護者よ――この手に宿る希望と共に、我が友を示したまえ!」

 一瞬、光が弾けました。風が舞い、髪がふわりと揺れる。
 周囲からのどよめき。

(やった……!)

 思わず胸が高鳴りました。

 しかし。
 光が収まり、わたしの腕に“ぽとん”と落ちたのは。

「……え?」

 手のひらより少し大きい、小さな――亀でした。

 甲羅は丸くて、ゆっくり首を動かしています。
 金色の瞳で、わたしをじっと見上げていました。

「か、亀……っ!?」  
「え、あの子、召喚失敗じゃない?」  
「フェルディナント家の娘なのに、よりによって……!」

 笑い声が、わたしの耳に刺さりました。

(そんな……どうして、よりにもよって亀なんて)

 泣きそうになるのをこらえて、両手でそっとその子を包みました。
 すると、亀は小さく「きゅ」と鳴いたのです。

 可愛らしい声でした。妙に真剣な瞳が、慰めるようにわたしを見上げます。

「――いいえ、あなたは失敗なんかじゃありません。あなたは……世界でいちばん可愛い亀さんです」

 その瞬間、笑い声がさらに大きくなりましたが、もうどうでもよかったのです。
 わたしはその子を胸に抱きしめました。

「あなたのお名前は“リリィ”。今日からずっと、一緒ですよ」

 その言葉に、リリィは満足そうにまぶたを閉じました。


◇ ◇ ◇


 その後の数週間、わたしは貴族学校で“亀令嬢”と呼ばれるようになりました。

「リリィちゃん、今日はお天気だからお散歩しましょうね」
「エルナさま、まさか本当に連れて歩いているんですの?」
「ふふ、だってリリィはわたしの大事な友達ですもの」

 からかいや嘲笑にも、なるべく笑って返すようにしました。
 けれど、家に帰るとそっとリリィを撫でながら小さく呟くのです。

「……わたし、情けないわね。少し泣いちゃった」

 リリィはその度、わたしの指先をちょこんと噛んで慰めてくれます。
 たぶん、それが“励まし”なのでしょう。

 そんな日々が続いたある放課後。
 静まり返った図書室の奥で、思いがけない人影を見かけたのです。

「……殿下?」

 深紅の椅子に腰かけて、古びた地図を眺めている少年。
 学園でも滅多にお見かけしない方、王弟殿下――アルディス・ヴェイル・リオネールさま。

 整った横顔が、黄昏の光の中に浮かび上がっていました。

「エルナ・シャル・フェルディナント嬢、だね?」
「っ……そんな、わたしのことを……」

「有名だよ。“亀を召喚した令嬢”って」

 彼の声は落ち着いていて、けれどどこか寂しげで。
 わたしが慌ててリリィを隠そうとすると、小さく笑いました。

「そんなに焦らなくていい。僕は笑ったりしない。」

 胸の奥が、じんと熱くなりました。

「……ありがとうございます。でも、やっぱり恥ずかしくて」
「どうして? その亀、君の魔力に惹かれて来たのなら、立派な使い魔だろう」

「だって……みんな、言うんです。『亀なんて遅くて弱そうだ』って」

 その瞬間、アルディス殿下の瞳が真っ直ぐこちらを見ました。
 まるで心を覗き込むような、真剣な眼差しでした。

「弱い者を笑う人は、本当は心が弱いのです。僕はそう思う。」

 その言葉に、わたしの胸が強く脈打ちました。

「……え?」
「君みたいに、笑って受け止められる人ほど強い。ほんとうの力ってそういうものだよ」

 ふいにリリィが手のひらから這い出して、アルディス殿下の指に触れました。
 その瞳を嬉しそうに細めると、殿下はくすりと笑いました。

「ああ、いいな。君の使い魔は、きっと僕なんかより勇気がある」

「そんな、殿下のほうがずっと……!」

 言葉の途中で、彼がわたしの頭にそっと手を置きました。

「怖がるな、って顔だ。そういう優しさ、僕は嫌いじゃないよ」

 頬が一瞬で熱くなりました。
 心臓の鼓動が速くなる。

(なにこれ……どうして、こんなに苦しいの)

「……あの、殿下、手、手が……」
「ごめん、緊張をほぐしてあげようと思っただけ」

 やわらかく笑うその顔に、胸の奥がまたくすぐられました。
 見たことのない笑顔でした。どこか孤独を隠すような。

 そして次の瞬間、図書室の扉の向こうから先生の声が響きました。

「アルディス殿下、授業のお時間ですぞ!」
「……っと、また叱られるのか。あの人は本当に真面目で困る」

 苦笑して立ち上がる殿下。
 去り際に、わたしのノートをちらりと見て——つぶやきました。

「その字、きれいだね」
「えっ?」

「君が手紙を書く姿、いつかもう一度見てみたい。……きっと風に似合うと思う」

 そう言って、扉の向こうに姿を消しました。

 その背中を見送りながら、わたしは胸の奥に芽生えた小さな光を感じました。
 名前のないまま、ただあたたかい光。

(風……に似合う、って)

 思い出しただけで頬が熱くなる。
 掌の中でリリィが「きゅ」と鳴きました。

「はい、知ってますよ。リリィ、わたしったら、もう浮かれてますね」

 窓から射す夕陽が、リリィの甲羅にきらりと反射して輝きました。
 小さな光が、まるで未来を約束するように。


◇ ◇ ◇


 それからの学園生活は、少しだけ変わりました。

 相変わらず“亀令嬢”と揶揄されることはあります。けれど、どこかで見守ってくれている人がいる――そう思うだけで、不思議と心が強くなれたのです。

「リリィ、ねえ、わたし……もしかして、少しだけ夢を見てるのかもしれません」

「きゅ?」

「だって――王弟殿下が、わたしを“風に似合う”なんて言ったんですよ。どうしましょう、リリィ、そんなはずないのに」

 わたしの悩みに、リリィはのんびり首をかしげて、まるで“いいじゃない、それくらいは”とでも言いたげに目を細めました。

 笑ってしまいます。
 心の奥が、やさしい光で満たされていきました。
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