【完結】婚約破棄された絵描き令嬢ですが、公爵様が破られた絵を直して溺愛してきます

朝日みらい

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第1章:壊された夢と破られた絵

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 わたしは、セシリア・ローウェンシュタインと申します。

 ローウェンシュタイン男爵家の娘であるわたしは、人前ではあまり話すのが得意ではなく、いつも家の片隅で静かに過ごしているような、引っ込み思案な人間でした。

お友達も少なく、舞踏会よりも図書室のほうが好き、といった変わり者。

そんなわたしにとって、絵を描くことだけが、唯一のわたしの世界だったのです。

 父の代から、我が家はあまり裕福ではありませんでした。

貴族としての体裁はなんとか保っていましたが、母が着るドレスは流行から少し遅れたものでしたし、わたしにいたっては、まともに仕立ててもらったドレスなど数えるほどしかありません。

それでも、家族はわたしに絵を描くことを許してくれていました。

それが、貴族令嬢の嗜みとして、最低限必要な教養だと思われていたからかもしれません。

 しかし、わたしが筆を握るのは、そんな義務感からではありませんでした。

キャンバスに広がる白い空間は、誰にも邪魔されない、わたしだけの秘密の庭。

柔らかな光が差し込む窓辺で、色とりどりの絵の具をパレットに並べ、筆を走らせる時間は、何にも代えがたい幸せでした。

この世界で、わたしがわたしでいられる、たったひとつの場所。

 そうしてわたしは、来る日も来る日も、絵を描き続けていました。

華やかな社交界とは無縁の、静かで穏やかな日々。

このまま、誰にも知られることなく、ひっそりと絵を描きながら生きていけたら、どんなにいいだろう、と本気で考えていたのです。

 ですが、そんなわたしの日常は、あるひとつの出来事によって、ガラガラと音を立てて崩壊していくことになります。

 それは、春の終わりに行われた、盛大な夜会での出来事でした。

 普段なら、わたしのような目立たない令嬢が、あのような夜会に招待されることはありません。

ですが、この夜会は、婚約者であるエリオット様のお家、マーシャル侯爵家が主催するものでした。

そう、わたしには、エリオット様という婚約者がいました。

 侯爵家の嫡男であるエリオット様は、社交界でも一際輝く存在でした。

彫りの深い美しい顔立ちに、洗練された立ち居振る舞い。

彼が微笑むだけで、周囲の令嬢たちがうっとりとするのが分かります。

そんな素晴らしい方が、どうしてわたしのような地味な娘と婚約されたのか、今でも不思議でなりません。

もちろん、家と家の取り決めというものがあったのでしょうけれど……。

 母から渡されたのは、地味な藤色のドレスでした。

流行りの大胆なフリルもレースもなく、控えめな装飾。

他の令嬢たちがきらびやかな宝石を身につけている中、わたしは小さな真珠のネックレスをひとつだけつけていました。

鏡に映るわたしは、まるで春霞の中に隠れてしまった花のように、ぼんやりと存在感がありません。

「セシリア、いいわね。決して、おかしな真似はしないでよ。エリオット様は、あなたの絵を好まれません。余計なものを持ち出して、またお家の恥を晒すことのないように」

 馬車に乗り込む前、母は冷たい声でそう言い放ちました。

わたしが絵を描くことを、彼女は快く思っていません。

特に、夜会のような場所で、絵の話をすることはご法度だと。

 分かっています。

貴族の世界では、社交術こそがすべて。

わたしのように人付き合いの悪い人間は、それだけで評価が下がってしまうのですから。

 それでも、心の奥底で、わたしは小さな抵抗を試みようとしていました。

この夜会で、エリオット様にもっとわたしのことを知ってほしい、と。

絵を描くことが、どれほどわたしにとって大切か、理解してほしい、と。

 そして、馬車の中で、こっそりと懐に忍ばせていたのです。

わたしが時間をかけて描いた、小さな風景画を。

穏やかな丘と、その上を吹き抜ける優しい風を描いた、お気に入りの一枚でした。

これなら、きっと、エリオット様も分かってくださるはず……。

わたしは、かすかな期待を胸に、夜会の会場へと向かったのでした。

 会場に足を踏み入れた瞬間、わたしは圧倒されてしまいました。

きらびやかなシャンデリアの光が天井から降り注ぎ、色とりどりのドレスが花のように咲き誇っています。

甘い香水と、楽器の奏でる優雅な音楽。

わたしは、そのすべてに気後れしてしまい、人の波に飲まれないよう、壁際の一角にそっと身を寄せるのが精一杯でした。

 そんなわたしを、エリオット様が探しに来てくださったのです。

「セシリア、こんなところで何をしていますか。せっかくの夜会だというのに、あなたらしいですね」

 少し困ったような、それでもどこか余裕のある笑みを浮かべて、エリオット様はわたしに手を差し伸べてくださいました。

わたしは慌てて「ごめんなさい、人混みが苦手なものですから……」と、俯きながら手を重ねました。

 社交の挨拶を交わすエリオット様は、やはり周囲の注目を集めています。

わたしは、そんな彼の隣にいることが、少し誇らしくもあり、同時に気後れする気持ちも隠せませんでした。

 彼との会話は、いつも上辺だけのものでした。

「夜会は楽しんでいますか」

「ええ、おかげさまで」といった、当たり障りのない言葉の応酬。

わたしは、どうにか自分の気持ちを伝えたいと思い、勇気を出して口を開きました。

「あの……エリオット様。わたし、最近、とてもいい風景画を描くことができたのです。もしよろしければ、後で……」

 わたしの言葉を遮るように、エリオット様は「ああ、またその話ですか」と、少しうんざりした表情を浮かべました。

「セシリア。私は何度も言いましたよね。あなたの絵は、どうにもこうにも、陰気で……」

 彼の言葉に、わたしの胸がちくりと痛みます。

それでも、諦めたくなかったのです。この絵を見てもらえれば、きっとわたしの心を分かってくれるはず。

「でも、今回の絵は、違うんです。そこに優しい風が吹いているように、心を込めて描きました。きっと、気に入ってくださると思います……」

 そう言って、わたしは懐から、そっと絵を取り出しました。

丁寧に布で包まれた、小さな風景画。

これを差し出せば、エリオット様は少しでも、わたしの気持ちを汲み取ってくれるかもしれない。

そんな、馬鹿げた希望を抱いていました。

 しかし、その希望は、あっけなく打ち砕かれてしまいます。

 エリオット様は、わたしが差し出した絵を、まるで汚らわしいものに触れるかのように受け取ると、その場で布を乱暴に剥がしました。

 そして、周囲に聞こえるように、わざと大きな声で言ったのです。

「皆さん、見てください。これが、私の婚約者が描いた、気味の悪い絵です!」

 彼の言葉に、周囲の貴族たちがざわめき立ちます。

驚き、そしてすぐに好奇の目に変わっていくのが分かりました。

わたしは顔が熱くなり、どうして、とエリオット様を見上げました。

 彼は、わたしの絵を軽蔑するように眺めると、無慈悲な笑みを浮かべました。

「この陰気で、色のない絵を、美しいとでも言うのでしょうか? まったく、頭の中までおかしな女だ。こんなものを描いている女とは、結婚などできませんよ」

 信じられない、といった表情でわたしが立ち尽くす中、エリオット様は皆の目の前で、その絵をビリビリと音を立てて破り捨てました。

 白い紙が、小さな破片となって、床に舞い落ちていきます。

その破片は、まるでわたしの心が粉々に砕け散ったみたいでした。

 周囲からは、クスクスと、ひそやかな笑い声が聞こえてきます。

「あら、かわいそうに」

「まあ、そんなもの描いていたのね」といった、嘲るような言葉も。

「……婚約を破棄させていただきます。このような女とは、この場で婚約破棄を宣言します」

 その言葉を聞いた瞬間、わたしの頭は真っ白になりました。

涙を流すことすらできません。

ただ、茫然と立ち尽くすことしかできなかったのです。

 夜会の会場を、どうやって後にしたのか、よく覚えていません。

ただ、馬車の中で、冷たい風が頬をかすめていったことだけは、鮮明に覚えています。

 屋敷に帰り着くと、母はわたしを見るなり、冷たく言い放ちました。

「なんてことをしてくれたのですか、セシリア。せっかくの縁談を、あなたのせいで台無しに……! 私たちは、社交界でどれほどの恥をかかされたと思っているのですか!」

 父もまた、わたしを責めることはしませんでしたが、ただ黙って厳しい顔でわたしを見ていました。

その沈黙が、何よりも重く、わたしの胸に突き刺さります。

 わたしは、自分の部屋に閉じこもりました。

この部屋だけは、わたしにとっての安息の場所でした。

 ですが、今は違います。

 部屋の隅に立てかけられたイーゼル、パレット、そして色とりどりの絵の具。

それを見るだけで、胸がひどく締め付けられます。

 わたしが唯一、愛していたもの。

それなのに、それがわたしを、こんなにも深く傷つけた。

絵を描くことも、絵を描くことが好きな自分自身も、何もかもが嫌になってしまいました。

 絵筆を握る気力も、筆を持つ意味も、もうありません。

 そんな絶望の淵にいたわたしに、ある日、一通の手紙が届きました。

 それは、わたしの名宛てでした。

差出人の名前を見て、わたしは息を呑みます。

 ――アルフォンス・グランヴェル公爵。

 あの夜会で、エリオット様の隣に立っていた、社交界でも一際大きな力を持つ、あの公爵様でした。

 どうして、この方が、わたしに手紙を……?

 わけが分からないまま、わたしは震える手で、手紙をひらいたのでした。
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